51家族になろう
――サラサ視点――
「私の育ってきた家は、愛情なんて欠片もないところだったの」
今、撫でている膝の竜へもらす声がふるえた。
だってこの家とはまったく違う、冷たいばかりの私の家の内情をさらけ出すのは、ひどく恥ずかしく情けないことだったから。
幼い動物相手であってもだ。
この純粋なキラキラした瞳を前にすると、自分が酷く汚れているように感じて心がきゅっと痛くなる。
……初めてこのハイドランジア公爵家を訪れた時。
夫と息子になる人ばかりか、使用人達までもが一人残らず、なんの曇りもない平和ボケしきった笑顔で出迎えてきた。
ひと目で見て、あったかい家庭なんだってわかったわ。
だからこそ、苛立ったの。
自分は無理やり結婚させられた先――いわば敵地に乗り込んだばかりのはずなのに、と。
絶対にこんな呑気な空気に染まってやるかと決意した。
でも結局。
母親を亡くして間もないのに、常ににこにこ笑っている幼い子に。
何度わがままを言ったって受け止めてくれる、包容力あふれる夫に。
まんまるの瞳で自分を見上げてくる、小さな竜の可愛さに。
このうちの子なのか使用人の子なのかさえ分からない、黒髪の女の子の天真爛漫さに。
心はほだされ、決意は揺らがされていった。
あたたかくて、優しくて、悲しい。
ぽろりとひと粒落ちた涙と一緒に、ついに本音がもれてしまう。
「……家族に、なりたい」
「きゅ」
子供の頃、憧れていたままの暖かな家庭。
羨ましくて、妬ましいほど優しい場所。
この中に私の居場所ができたならと思わずつぶやいてしまったその言葉に、膝の上の竜は真ん丸な瞳をぱちぱち瞬く。
それからこてんと首をかたむける仕草の可愛さに、思わず口もとが緩んでしまった。
この子、どこまで人間の言葉を理解してるのかしら。
私の目を見て、相槌を打つみたいに頷いてくれるから忘れがちだけど赤ちゃん竜だ。きっとほとんど何も分かってないだろう。分かってないだろうから安心して、私は話し続ける。
夫になった公爵様は、優しい人だとおもう。
恋する気持ちはまだない。
ただこの暖かい家の子になりたいという、そんな理由。
でもそれくらいずっとずっと、優しい家に憧れてい
「ダンはね、実家で、私に唯一優しかったひとなの」
女の子は、将来有力な貴族とのつながりをもつために嫁がせる道具。
そんな考えをもつ父により、より良い家に嫁に出すためだけに私は厳しい教育を施され育てられた。
抱きしめられた記憶も、ほめられた記憶も、家族で遊びに出かけた記憶もない。
使用人たちも父の命令のうえ、同じように私に完璧な淑女をもとめた。
そんな周りに反発して、普通の令嬢より主張が強く、気が強くなってしまった自覚はある。でも私の反抗が強ければ強いほど、両親や教育係の締め付けとしつけも強くなるだけだった。
ダンはそんな家の中、唯一甘やかしてくれた人なのだ。
堅苦しかった家の中、唯一ほがらかな空気を纏っていた人。
重苦しいばかりのあそこで、彼のそばでだけ私は呼吸ができた。
当たり前のように惹かれてしまった。
恋をしたのは本当だった。
でも、引かれた手を受け入れられなかった。
いざ一緒に駆け落ちできる瞬間がきてしまうと、迷いが生じてしまったのだ。
身分もなにもなくなれば、着替え一つ満足にできない自分は生きて聞けない。
手を泥にまみれさせて働く姿が想像できない。
ドレスを纏わず、下働きでいきるような。
そんな生活でもかまわない。一緒になれるのならばどんなことでも頑張れるというほどに、決意は強くないのだと自覚した。
平民に生まれたかったと嘆いていたくせに、いざ現実に目の前にそれがくると怖気づいた。
贅沢で、わがままで、勝手だともちろん分かるけれど。
私には、身一つで逃げることはできない。
刃物をもって幼い子に襲いかかる、目を血走らせた恐ろしい姿。
恐ろしくて、さあっと気持ちが凍っていった。
私の恋した人ではもうなくなっている。
そばにいるのがこわいひとになってしまった。
あっちではなく、この優しい家の中の方がいいってストンと思った。
「……ここに。いるわ。家の家族になりたいわ」
もうここにしか、居場所がつくれる気がしない。
ここならば、私を受け入れてくれる。
優しいこの家の、本当の家族になったら、自分も優しい人になれるような気がする。
ダンを裏切ることに、心臓がじくじく痛む。
あんなに好きだったのに、変わってしまった自分の気持ちが後ろめたい。
ごめんなさい。ごめんなさい。
まだ迷いは残っている。小さなきっかけで傾いてしまいそうなほどぐらぐらしている。
でも、私は今ここにあるあったかい家庭を離したくない。ここにいたいと思ってしまっているの。
血にまみれた刃物をもったまま伸ばしてくるダンの手を、取りたいと思えない。
愛し続けられなくて、ごめんなさい。
裏切ってごめんなさい。
ごめんなさい。
* * * *
ごめんなさい、と音を紡がないまま繰り返し唇が動く。
ぽろぽろと桃色の瞳から涙が溢れてる。
それでもサラサさんは選んだのだ。
初恋の相手ではなく、この家を。
平民ではなく、貴族の子女という生き方を。
――なんて格好いい理由だけではなく、おそらく人を刺そうとしたダンさんの姿に、恋心が砕かれてしまったのが大きいのだろう。
駆け落ちしたいと思えるほどに、彼は魅力的な人でなくなったんだと思う。
よし!
にんげんになーあーれー!
「……え」
唱えると、私の体は人の女の子の姿へと変わっていく。
目の前で姿を変えた私に、サラサさんはぽかんとしている。
素っ裸だけど、ま、まぁ女同士だしね!
気にしないことにして、私はにっこり笑って彼女へ手を差し出した。
「もちろん、私とも家族になってくれるよね?」
サラサさんの言う『家族』に、人間の姿の私もいれてもらわなくては。
お父さんとリュクスくんと赤ちゃん竜だけでなく、人間の私もいるんだって。
サラサさんは竜の子が変身した事実に呆然としながらも、私の差し出した手を自然と取ってくれるのだった。