16ご飯がおいしい
埋葬が終わった後も、公爵家には弔問の客人がひっきりなしに訪れた。
その為にリュクスくんのお父さんや屋敷の使用人さんたちは忙しそうにしていた。
そんな日々もしばらくして過ぎ。
ようやく穏やかな日常が戻り始めて、どこからか笑い声や談笑が聞こえるようになったのは、お母さんが亡くなって二カ月ほどが経ってから。
とはいっても屋敷の中心人物である人がいなくなってしまった違和感や寂しさはもちろんずっとある。
リュクスくんも度々不安定になるし。
完全にこの少し寂しい空気が屋敷からなくなるのは、きっと年単位の長い時間が必要なのだろう。
それでも日常と呼べる日々が戻って来て少し経った頃、屋敷の図書室で本を読んでいた時に私はハッと重大なことに気づいてしまった。
「きゅう……!」
なんてこと!
「どうしたのシンシア」
一緒の絵本を広げて読んでいたリュクスくんが、興奮でぷるぷる震えている私の顔を覗き込んでくる。
「きゅ、きゅ、きゅう!」
たいへんだよリュクスくん!
「きゅうきゅう!」
私、驚愕の事実に気付いてしまったよ!
あぁ。これはもういち早く試さなければいけない。
どうして二カ月も気づかなかったんだろう。間抜けすぎるよ私!
「きゅう! きゅ、きゅうきゅ! きゅー! きゅきゅう!」
「うーん?」
「きゅーう! きゅー!」
誰か! 誰かシェフをはやくー! しぇふぅー!
「……シンシア様。お忘れのようですが今の貴方は竜ですわ。人の言葉でお話しくださいませ」
「きゅ!」
はっ、そうだった。
私は侍女のエルメールさんの冷静な声に、自分の今の姿を思い出した。
「きゅう!」
「はい、こちらをどうぞ」
準備のよいエルメールさんがさっと出してくれたワンピースを被らせてもらってから、人間になーあーれー! と念じる。
とたんに私の額の石がピカっと光って、私は人の女の子になった。
「リュクスくん、ちょっとあっちむいてて」
「はーい」
リュクスくんが背中を向けてくれている間に、急いでこちらの幼い女の子用の下着らしいドロワーズというショート丈のカボチャパンツと、端にレースの付いたソックスを履いて、人間の姿のできあがりだ。
「よし、いいよ。あのねリュクスくん!」
「うん?」
振り返ったリュクスくんに、私はずずいと詰め寄った。
背中ではエルメールさんがどこからともなく取り出したブラシで髪をとかしてくれている。非常に有能な人だ。
髪をとかしてもらう心地良さにも負けず、私は真面目な顔をして真剣にリュクスくんに話し始めた。
「私、人間になれるのよ」
「しってるよ?」
「でしょう? ってことはよ? ひょっとして私、人間の食べ物を食べられるんじゃない!? って思ったの!」
「…………うん?」
この世界に赤ちゃん竜として生まれ変わって二カ月と少し。
私はいまだムゥムという、青と白の水玉模様の牛っぽい動物のミルクしか口にしていない。
赤ちゃんなのでミルクしか胃が消化できなくて、しかも竜は成長がゆっくりなので離乳食に移れるのさえ五年後と聞いて絶望していたのだ。
でも今の私は人の子の十歳児くらいになれてしまう。
たぶん外側だけじゃなくて胃や腸もそれくらいに成長した状態になってるんじゃなかろうか。だとしたらミルク以外のものが! 固形物が! お肉が! パンが! 食べられるかもしれない!!
まともなご飯が食べられないのって、お腹的には問題なくても精神的にはとってもしんどかった。
目の前でリュクスくんやお父さんが食べている料理の匂いに泣きそうになるくらいつらかった。
でも一度食べた時には吐いちゃって、やっぱり赤ちゃん竜だからミルク以外は駄目なんだと諦めるしかなかった。
「食べたい! ごはん! ごはん食べたい!」
矢継ぎ早に、このご飯への欲求を熱を込めて語ってみせると、リュクスくんとエルメールさんは眉を下げて困ったふうな顔をした。
「だいじょーぶかなぁ」
「シンシア様は、まだ赤ちゃんですしね」
「でもこの姿のときは赤ちゃんじゃないし、リュクスくんより年上でしょう? だから大丈夫だよ」
「まえみたいにげーげーならない?」
「ならない!」
たぶん! という言葉はあえて呑み込んだ。
「……では、まずはパンがゆから試してみましょうか」
すさまじい熱意に根負けしたエルメールさんのため息ながらの提案に、私は満面の笑みで力強く頷いたのだった。
* * * *
そうして移動した食堂。
ムゥムのミルクでゆっくりことこと煮込んで出来上がったパンがゆを前に、私ははりきってスプーンを手に取った。
「あぁ、いい匂い」
「ふーふーしてね?」
「そうだね。熱いから気を付けないとね」
「うん」
私と一緒におやつにパンがゆを食べることになったリュクスくんは、スプーンですくったそれに息をかけて冷ましている。
リュクスくんのお皿にのったパンがゆと比べて、私のは更に煮込んでいるのか又はすりつぶしたのか、ほぼ液状で完全に『はじめての離乳食』状態だけれど。
それでもただのミルクじゃないものに大喜びで、私は深皿にスプーンをつっこんだ。
すくいあげたパンがゆに私も息をふーふーかけて少し冷ましてから、そうっと口に運ぶ。
「あぁ……」
やっぱりただのミルクとは違って、ほんの少しだけだけど鼻から抜けていく小麦の香りが感じられた。
ミルクの中に混じった、わずかなパン……。
数か月ぶりの、パン。
『はじめての離乳食』らしく味付けは皆無だけれど。
ミルク以外の食べ物を、私はたしかに今口にしているのだ。
食べ物が身体にじわじわと沁み込んでいくみたいな感覚に、ほうっと息がもれた。
「おいしい……おいしいよぅ。パンおいしい」
「シンシア、ないてる」
「もの凄く気に入られたようですね」
「おいしぃいぃぃ」
「シンシア、すごくないてる」
「だ、だっておいしいからぁ」
その後、しばらく経っても私の体調は万全だった。
なので晩ごはんはもう少しだけ固形を残したパンがゆになった。
それもクリアした次の日の朝ごはんは、半分に切った苺が三粒。
「甘いもの……!」
赤くて艶々な魅力的なそれにフォークを突き刺し口に入れると、じゅわわぁっと果汁が口いっぱいにあふれだす。
甘くてすっぱくて幸せで、しかもミルク感のいっさいないその味は感動ものだ。
「……この分だと、普通の食事も大丈夫そうですね」
「いちごおいしぃようおいしいよぉー」
「シンシア、たべるたびになくね」
「ご飯って幸せだねぇぇえ」
「しんしあ、すごくなくね」
「美味し過ぎて、うぅ」
ご飯が美味しいって素晴らしい。
「しんしあ、はなみじゅ」
「お、美味しくて……ずびっ」
「あぁ、鼻水どころか苺で口もべとべとにしてしまって」
「ぼくがふくぅ」
エルメールさんが持ってきたナプキンを受け取ったリュクスくんに鼻と口のまわりをぬぐられつつ、私はもう一欠片の苺をフォークで突き刺した。
「あぁシンシア、うごかないでー!」
「あーん」
幼児に面倒みられている状況なんて気にしていられない。
甘くて酸っぱくて赤くて艶々な苺以外、もう見えていなかった。