第7章 - 『子狐』
秋の風が、酒場『子狐』の木製看板を、まるで振り子のように揺らしていた。陽が沈んで灯されたロウソクの明かりは、蛍が舞っているかのようだった。
底冷えのする夕闇の中、その酒場は外からは違う世界に見えた。
マホガニー製の扉を開けて中へ入ると、焼き立てのアップルパイの香り、そして壁に積まれたワインの芳香が漂い、ダイニングホールの中央には石窯が据え付けられていた。旅人は誰でもそこで自由に靴を暖めることができた。
今夜、特に大勢がこの酒場に集まっていた。店のそれぞれのテーブルには二人から五人ほどが座っており、室内をより温めていた。彼らの話すことといえば、税金のことや農場のことなどだったが、先日の教会であったことについては、ほとんど誰もが話したがらなかった。
店の左隅にある丸テーブルでは、三人の男たちが空になったジョッキを手にし、あることへの不満を漏らし合っていた。
「あの奇妙な小僧、どう思うよ?」
靴職人のジェームズが、最初の一問を投げかけた。
「レガリオン隊に手紙で知らせようぜ。モーガン神父さまは何もするなとおっしゃったが…。やっぱり上層部には報告すべきじゃねえか?」
仕立て屋のテリーが、さらに問いかけた。
三人の中で最も大柄な男、鍛冶屋のバークレーが、すばやくテーブルを叩いて言った。
「バカなことを言うな、もしこのことが村の外に漏れたら、村が丸ごと燃かれちまうぞ。隣の村がどうなったのか忘れたのか? …子供すら生きたまま火で焼かれたっていうじゃねえか。…それもレガリオン隊が、その村に『悪魔の血』が伝染したと怪しんだからだ。俺の知ったところじゃ、皆、なんともなかったんだ。それでもレガリオン隊は、その村を地図上から消しちまった。犬や猫ですら生き埋めにされたそうだ。根こそぎだ。」
バークレーが話し終えたとき、三人の男たちは互いの顔を見られずにうつむいていた。その濃い髭を蓄えた顎を掻きながら、鍛冶屋が続けた。
「いいか、もし何かやるんなら、こっそりとやるんだ。時を待て…。そして俺の作った金づちで、あのガキの頭蓋骨を砕いてやる。きっと奴の血も真っ黒にちがいねえ…。そうするのが一番だろう。お前ら、どう思うよ?」
ジェームズとテリーは互いの顔を見合わせ、そしてバークレーに同意を表すためにうなずいた。その通りだ。グリーンベール村は常に平安であるべきだ。余計な混乱の種など全くの不要なのだ。バークレーが、ワイン3杯分追加の合図に指を三本立てると、それに応えた酒場のオーナーが飲み物を用意するために静かに背を向けた。
新しいワインの杯が来てから、バークレーはあらためて先ほどの話の続きを始めた。
「だが俺がやった後の始末は、お前たちがするんだぞ、わかったな?」
テリーがバークレーの肩をたたきながら言った。
「心配すんなって。この村でよそ者がいなくなって、気に掛ける者などいるものか。奴の亡きがらは森に投げ込んでしまえば、あとは動物のえさになるだろうさ。」
三人の男たちは、この完璧な計画を自画自賛して、ほくそ笑み合った。
だが、突然。大きな木のきしむ音がして、酒場の扉が開いた。そして、今まさにしていた話の渦中の人物が、なんと酒場に入って来た。
健次が扉を閉めたときには、酒場のホール中が静まり返っていた。暖炉の中で燃える、乾いた薪の音だけが響いていた。
あたりを見回した健次の目に、カウンター越しに立つ、クララ・ベーヌの姿が止まった。健次は息を深く吸い込むと、まっすぐに彼女の所へと歩いて行き、それから彼女にお辞儀をして、大きな声で言った。
「中村健次といいます。バイト先を探しています。しっかり働きますから、どうか雇って下さい!」
彼の声は静かなホール中に響き渡った。そこにいる全員が、あまりの驚きに互いに顔を見合わせていた。まるで犬が、人間の言葉をしゃべったといわんばかりだった。
いきなりジェームズが立ち上がった。
「笑わせるんじゃねえ。この酒場には、てめえみたいな奴のいる場所なんぞねえ!」
テリーもそれに同意して割って入った。
「そうだ!おまえの髪や目はカラスより黒いじゃねえか。きっと地獄の底から這い出て来たに違いねえ。お前の存在自体が、聖帝マケラ様への冒涜だ!」
バークレーだけは何も言わなかった。だが、彼がクララ・ベーヌに対してずっと想いを寄せていることは、そこにいる誰もが知っていた。そして健次に知らしめるために、彼が椅子を蹴倒して立ち上がり、健次に襲い掛かるのだと思っていた。
だが、実際には彼は、そこに座り続けたままだった。それでも彼のこめかみには、青い血管が木の根のごとく浮き出ていた。
彼は噴火する直前の火山のように、怒りに沸き立っていたのだった。
「みんな、静かにおしよ。ここは私の酒場よ。だから決めるのは、この私なのよ。」 クララ・ベーヌが、こう言い渡した。彼女は30代で、はっきりとした物言いをするものの、風鈴のように透き通る声をしていた。
ホールが再び静まり、そしてクララは腕組みをして健次を見た。
「実を言えば、店を手伝ってくれる人を探してたのよね。健次君、寒さやきつい作業にも耐えられるんだったら、雇ってもいいわよ。仕事はお客への給仕と、馬屋の世話をすること。いたってシンプル。」
「おいクララさん、バカなことを言うなよ。この黒髪野郎が馬を盗んだりしたらどうするんだ?」
ジェームズが渋い顔をして問いかけた。周囲の他の者たちも、同意して頷いていた。
クララがそれに応えて言った。
「彼が盗みを働くつもりなら、とっくにしてるはずよ。顔を上げて仕事を探しに、ここに来る必要もないじゃない。私が保証してもいいわ。もし誰かの馬が盗まれたら、弁償として私の馬を二頭あげるわ。ねえ、お願い、彼にチャンスをあげましょうよ。もうすぐ冬なんだし。」
バークレーは無言で椅子から立ち上がると、鉄の半コインをテーブルの上に投げた。彼の仲間たちも、彼に従った。そして大きな音を立てて扉を閉め、酒場を後にした。
「やれやれ…。大人げのない連中ね。」
クララはブツブツと独り言を言いながら、振り返って健次を見た。そして、ほんの少しの間、彼を見定めてから、本当にこの黒い髪の少年に仕事を割り振ればいいのか、決めかねていた。見たところ、仕事をさせるには貧弱過ぎる。とはいえ、彼女の最後の雇い人は、数夜前に、羊飼いの娘と駆け落ちして村を出て行ってしまった。そういうわけで、彼女に選択の余地はなかったのだった。
しかし、彼女にはいくつも彼に尋ねたいことがあった。
「健次…っていうんだよね。君はどこから来たの?どうしてここで働きたいの?」
「お恥ずかしいんですけど…、あ、僕は日本から来ました。お金もありません。だからお金を稼いで、移動手段を見つけて、そして家に帰りたいんです。」
「日本なんて聞いたことないわね。『嘆きの海』の向こう側にあるところなのかしら。それとも『世界の果てのカーテン』を越えた先の国なのかしらね。」
健次はただ呆然とするのみだった。クララ言うことはさっぱり訳がわからない。ただ、おそらく『嘆きの海』とは太平洋みたいなもので、それから『世界の果てのカーテン』は、たぶん…アメリカ大陸のアンデスみたいな山脈のことじゃないかという気がした。
結局、健次は簡略に答えることが一番だということに帰結した。何といっても、ここは 異世界なのだ。
「日本っていうのは…島の名前です。」
酒場にいて健次がそう答えるのを聞いていた皆は、ひそひそと互いに話をしていた。とはいえ、それはささやき声というほどでもなく、健次には彼らの言うことが容易に聞こえた。彼らは日本がどこにあるかということや、日本ではどんな神が崇められているのかということ、そして健次のような島国の人間が、どうしてこの本島にこれたのかなどを、推察しようとしていた。
「この少年は完璧なアンドリア語を話している、だから、野蛮な未開人でもなさそうだ。」
「たぶん日本って言うのは、この王国の同盟国なんだろう。それで、この黒髪の少年は俺たちの言葉を話せるんじゃないか?」
「それじゃあ…こいつに害はないってことか。ただ見た目がおかしなだけで。」
村人たちがつぶやき合っているのは、だいたいこのようなことだった。健次は少しだけ安堵を覚えた。少なくとも健次がどこから来たのかということを知って、彼らの健次に対する印象はかなり良くなったようだった。
クララは驚きつつ、言った。
「日本て名前の島は聞いたことがないけど…。でも世界は広いんだから、君の民族のことで判断はしないわ。それじゃあ君は、ここで日暮れから夜明けまで働くのよ。最後のお客が酒場から出て行くまでね。掃除、給仕、お客が食事をしている間の馬の世話が、君の役目。毎日、一日の終わりに銅貨12枚をあげるわ。ただし仕事をさぼったり、こっそり抜け出そうとしたら、支払いはなしよ。」
健次は一度に聞いた全情報を要約して、それが決して悪い条件でないと思った。ただ、銅貨12枚分にどのくらいの価値があるのか、わからなかったことを除けば。
この酒場は明らかに個人経営のようだし、すぐに昇給してくれるとも思えなかった。それに彼女は、健次の寝泊まりについては何も触れなかった。つまり、どこか宿を探さなければならないということだが、いっそのこと節約するために、道端に寝てもいいと思っていた。
「どうもありがとうございます。一生懸命働きます。…えっと」
「クララ・ベーヌよ。健次君。」
彼は感謝の意を込めて、慌ててお辞儀をした。と、その時、大きな音がした。
ぐうぅぅぅ。きゅるるる。
彼の胃袋が、健次の恥ずかしさをよそに、大きな鳴き声を上げていた。びっくりしたクララは、すぐに察して、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お腹が空いてるの?」
クララの問いかけに、健次はまるで苺のように真っ赤になった。お腹が空くどころかペコペコで、自分の指でも食べられる一歩手前だった。
クララは健次をテーブルに着かせると、健次のために温かいスープと、一切れのゴマパンを運んできた。
「はるばる遠くからやって来た旅人を、温かいスープでもてなすのは私たちのしきたりなのよ。カブとポテトだけのスープだけどね。どうぞ召し上がれ、健次君。」
スープ皿から暖かな湯気が湧き上がっていた。香りもすばらしかった。
健次の目からは、涙があふれていた。彼はお辞儀をしてから、スプーンをつかんでスープを飲もうとしたが、彼の手はひどく震えて、そのため、こぼれたスープが服に飛び散ってしまった。
仕方なく彼は、ちぎったパンをスープに浸して食べた。温かい一滴一滴が、まるで泉から湧き出す甘い液体のように、彼の胃の中に吸い込まれていった。こんなに美味しいものを食べたのが、どのくらい振りだったか、健次には思い出せなかった。
その夜、健次は満腹で眠りについた。彼は酒場の近くで、大きくて厚い枝のある杉の木を見つけた。とても安らかな夜だった。それでも健次が目を閉じるとき、彼が考えたのは、ただ葵のことだった。
「すぐに、お前の所に戻るよ、葵…。待っててくれ、お前の所に帰るから。」
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