第5章 - 異世界
着ていたもの全てをはぎ取られてから、約半時間ほど後。
健次は、川から離れてさまよう気にはなれず、半身を水に沈めたまま岸に沿って川の中を歩いていた。そうやって目立たないようにしながら、この世界を観察してみた。
( 異世界に来てしまうなんて、そんなバカな。それはフィクションの話であって、現実に起こるなんてあり得ない。)
そして健次は、他に思い付けるさまざまな可能性をじっくり検証してみたが、 異世界に飛ばされたという可能性が他の何よりも勝っていた。あらゆる典型的な検証ポイントが符合していた。
特に、車に跳ねられていながら、こうやってケガも何もなく起き上がって歩いていることなど。
いちオタクとして健次は、こういった場合の主人公が飛ばされる世界のパターンを承知していた。根本的には、剣や魔法、ドラゴンが出てくるものらしい。
だがそれは憶測の範囲だ。なぜなら、健次はまだこれらのどれも実際に見たことが無い。
健次は、これが幻覚であったり、あるいは良くて悪夢を見ていることを願っていた。または病院のベッドの上で、例えそれが下半身麻痺や昏睡の状態であっても、その方がずっとマシだとすら思えた。
少なくとも、それなら葵の傍にいられる。
(僕を待っててくれ、葵、もうすぐ家に帰るから…。心配しなくていいよ、お前を決して置き去ったりしない。どんなものからも守ってやる。何もかも大丈夫だよ、そう、これはただの…夢だよ。現実の僕の身体は今、救急車の中で、きっと誰かが僕を見つけて、助けを呼んでくれたんだ。そうさ…これは夢だ。今、病院に運ばれているところなんだ、きっと。)
鉄の鎧で身を固めるかのように、健次はそう思い続けた。世界の他の誰のこともどうでもよかった。葵だけがすべてだった。
そして、本田の最後の言葉が、健次の頭から離れずにいた。あの野郎は復讐のために葵の人生を滅茶滅茶にする気なのだ。誰も葵を守る者のいないところで、本田が彼女に襲い掛かるところを思い浮かべただけで、健次は胃にむかつきを覚えた。
やがて、歩き始めてから一時間ほどになった頃、これ以上素足で歩くには困難なほど川底が険しくなってきた。辺りには水と樹しかなく、寒さが体に沁み込んできていた。
切迫して健次は叫んだ。
「誰かいませんか!?もうこんなタチの悪い冗談辞めて下さいよ。家に帰らないと、君津市の島総合病院に戻らないとならないんです。誰か聞いてたら、姿を見せて下さい!」
水の流れる音だけが聞こえる。そして、彼の声だけがエコーになって反響した。
健次はうなだれるようにして、失望感とともに河岸を歩き始めた。
「お母さん、あの変な男の人、何してるの? 」
突然、快活そうな声がして、見ると彼の左数メートル離れたところに、女の子がいた。まん丸に目を見開いて、その目は好奇心に満ちて丸裸の健次を見つめている。
女の子は、たぶん6~8歳ぐらいだろうか。そして彼女の母親はなぜ少女の近くにいたのか説明するかのように、手に洗濯物がたくさん入ったカゴを持っていた。
健次は突っ立ったまま、三人はしばし、お互い目を釘付けにしていた。母親がそのカゴを手から地面に落とし、幽霊でも見たように悲鳴を上げるまでは。
健次は慌てて両手を挙げて言った。「待って、誤解です、変態とかじゃないんです。」
だが母親はより大きな悲鳴を上げ、女の子を抱きかかえると、大急ぎで遠く走り去って行った。「助けて、だれか、どうか助けて、変質者が!」
(ヤバい。)
パニックになった健次は、裸の身体を隠すために川の中へと走り戻った。だが、遅かった。4人の巨大で厳いかつい男たちが、戻って来た彼女と共に現れた。皆、中世の農民のような服装をしていたが、健次の異常な姿を見て、その目は怒りに燃えていた。
「その不埒ものを捕まえろ!きっと俺の妻と娘に乱暴をはたらこうとしたんだ!」
中でも最も巨漢の男が大声で命じた。その他の3人が水の中に駆け入ると、逃げるより早くあっさりと健次をわし掴みにして捕まえた。
健次は大きな誤解であることを告げ続けたが、誰も耳を貸す者はいなかった。
「誰かナイフを持って来い。俺がこの手で切り取って、この悪党を不能にしてやる!」
「いや、待て。」 一人の男が用心しながら言った。「 こいつをよく見ろ…黒い髪に黒い目。炭や泥より黒いぞ。よその国から来たスパイなんじゃないか?」
「もしかしたら、地獄から這い出してきた本物の悪魔とかなのかもしれないわ。」娘を抱いた母親が、恐ろしそうに叫んだ。
「こいつは教会に連れて行こう。モーゲン神父様なら、この汚らしいろくでなしをどうすればいいか、何か知恵を貸して下さるだろう。」
男たちはお互いに顔を見合わせ、やがて頷うなずき合った。
初めに彼らは健次をロープで縛り上げ、それから森を抜ける方へ連れていった。まるで農園に背いた奴隷をその主人が引き回すように、きつく引っ張られ続けて、健次の手首からは血が出ていた。そして尖った小石で足は擦り傷だらけだった。
彼らは健次を、もはや人間としては扱っていなかった。家畜のラバよりもひどい扱いだった。
10分以上休みなく歩き続け、森から抜けると冷たい風が健次を吹き上げた。かき乱された髪がゆるやかに揺れる健次の前に、村が見えていた。
赤レンガの煙突から白い煙を立ち昇らせている小屋はあっても、車や現代的なものは何もなかった。全てがはっきりしてくるにつれて、空気やこの地球ですら異質に思えてきた。
残されたわずかな望みは、彼自身が消えてしまうことだった。
「あはは…」健次はくっくと笑い始めた、身体がだんだんと震えてくる。
「何がそんなに可笑しいの?この人でなし。」 母親が静かにするよう諫いさめた。
「非現実すぎるよ、おばさん。それに非情すぎるし、酷むごすぎる。…どうしてこんなことになったんだ。僕は気が狂い始めてるのか?」健次は苦い笑いを絞り出しながら、目からは涙を溢れさせていた。「僕は本当に 異世界に入るんだ。あははは… 異世界なんだよ、おばさん!」
膝を落とし、地面を爪でひっかきながら、健次は大声で泣き叫び始めた。それは、そこにいた男たちでさえ、事情はまるでわからないが少し同情して哀れに感じるほどだった。
健次は生きる理由を無くしてしまった狂人のごとく、3分間ずっとそのまま泣き続けた。
「立て、同情を引こうとするのはやめろ!」男がロープをつかんで怒鳴ったが、健次は一歩たりとも歩こうとしない。
「あはは…はっはははははは…アハハハハハハハハハハハ… ——ぎゃあああああああああああああああああァ!!」
健次は泣き、笑い続けた。それは感情がそうさせるのか、それとも健次自身がそうしていたいのか、まるでわからないほどになっていた。ひとつだけわかっているのは、健次はもうこれ以上一歩も動きたくないということだけだった。
ひととおり脅して全く功を奏さなかった後、男たちは健次を殴って気絶させ、生け捕りにした狩りの獲物でもあるかのように、健次を街へと引きずって行った。
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