なつと菖蒲と小人
「りんごもらっていい?」
なつが仏壇にあったりんごを指さす。りんごは、ワックスでテカテカしていた。
私は、台所に立つ。買ったばかりの新品のスポンジでりんごをよく洗い、研いだばかりの包丁で丁寧に半分に切る。
「皮つきなんだね」
後ろに、なつが来て、棚にあるお椀を手に取る。
もう半分切って、種をきれいに取り除くと、彼の手にあるお皿に放り投げた。
りんごは宙を飛び、なつの手の中にあるお椀にシュートした。
私、糀花実、三十歳。彼氏のなつと二人暮らしをしている。
なつは、確か二つか三つ年下で、イタリアンレストランのオーナーシェフの仕事をしていた。私は、昼間スーパーのアルバイトをしている。考えてみれば、一緒に暮らしているのに彼のことはあまり知らない。私は、なつをはたと見据えた。
「何?」
ちょっと笑ってお椀の上にあるりんごを食べるなつ。
「何でもない」
私もまな板からりんごを取って口に入れた。
なつのことで知っていることと言えば、小説が好きだということぐらい。
なつは愛書家だ。彼ほど本が好きな人を他に知らない。一緒に暮らしているこの家は、大広間とダイニングキッチンがついている。割と都会なのに、家賃は安めで、二人で折半した。大広間を開けると、大きな窓が壁にある。窓の前には、綺麗に片づけられた布団類が置いてあった。箪笥の代わりに、四つ本棚が並んでいて、入りきれない本は床に重ねてあった。本棚の下に耐震版を入れたのは私だった。
「本が落ちて来そう」
そう言って別の部屋に眠るのを勧めたのは私だった。ついでに、本棚には金具を取り付けた。
家にある本は、ありとあらゆる種類の本があって、まるで図書室みたいとなんとなく嬉しくなった。私は本が苦手だが、図書室は好きだったからだ。
あの静かな凛とした雰囲気の中で、私たちは暮らしていた。
「もう一つもらっていい?」
彼の言葉にはっと我に返る。
「そういえば、今日、なつが買ってきた本なんだっけ?」
私はもう一つりんごを彼のお椀に入れる。
「三銃士。貸そうか?」
私が頷くと、彼は濡れた手を冷蔵庫にかかっているタオルで拭いた。
そして、本棚から、その単行本を持ってきてくれた。
「ありがとう」
手を洗ってタオルで手を拭くと、両手で単行本を受け取った。
単行本の表紙は、かの有名な画家Aが描いたものだった。
「あれ、これって」
私は顔を上げた。
「今、近代美術館でやってるよ、この画家の」
りんごと格闘中の彼が私の方を見た。
童顔の彼は、最近仕事が忙しいせいか、目の下にくまが出来ていた。
「ちょっと待って」手で制止して、りんごを飲み込むなつ。「この間リニューアルしたよね。明日行って、帰りに喫茶店でチーズケーキでも食べようよ」
「いいね」
私は、手帳を開いて、久々の息抜きを書き留めた。
☆☆☆
次の日、朝食を食べ終えると、私はお気に入りの服を着て、なつと出た。洋服は、ワンピースだけで五千円した。十年前に買ったので、当時の私には超高級品だ。彼の方は、あまりいつもと変わりばえのしない、パーカーにズボンだったが、それも同じ店で買ったので、高かったはずだ。
自転車は軽やかに進む。なつが前で、私が後ろ。十字路に着くたび、車や人が来ていないか確認する。駅に着いたので、近くにある有料自転車パーキングエリアに停めた。駅の階段を上がり、改札を横切って、西口に向かう。西口に出ると、バス停留所が数か所あった。その横を通りすぎ、交差点を渡ると、そこが近代美術館だ。
今回は、小人展だった。
案内にそって、私達は、美術品を見て廻る。
どの絵も秀逸だ。彼の方を見ると、丁寧に解説を見ている。
小人は、コロボックルと呼ばれていた。
家の隅に住んでいるらしい。
ふと、私達の方を見る男の子に気付いた。
年のころは、十五ほどか。黒髪で、眼鏡をかけている。
男の子は、私の視線に気が付くと、ふいと目をそむけて出口に走り去ってしまった。
私達が全ての美術品を見終わったのは、十二時過ぎだった。
喫茶店は、丁度お昼時で、混んでいた。
「チーズケーキ、紅茶ふたつずつお願いします」
私は、ウェイターさんに注文した。
「さっきさ、男の子が見てたんだけど」
私は彼に小声で話す。
「男の子?」
なつが私を見つめる。
そこで、彼があっと叫んだ。驚いて、振り返る私。
「先生、やっぱりなつ先生だよね」
男の子がつかつかと歩み寄ってなつに話しかけるのでなおも驚く私。
「菖蒲くん、久しぶり」
にっこり笑うなつ。
口をあんぐり開けて、二人を見比べる私に、ウェイターが話しかけた。
「とりあえず、ご注文の品置いてもいいですか?」
「よろしくお願いします」
なつが代わりに答えると、メニューを片付けて、菖蒲に向き直る。
「暇だったら、隣座って話そうよ」
「はなからそのつもりです」
菖蒲は即座に隣に座る。
ウェイターは、テーブルの上にチーズケーキと紅茶を並べる。
「よろしかったら、もう一つずつご注文されますか?」
「はい、よろしくおねがいしましゅ」
驚きで噛んでしまった私に苦笑しつつ、キッチンにひっこむウェイター。
「先、食べていいよ」
なつは、菖蒲にケーキを押し付けた。
「あ、恐縮です。って、そんなことどうでもいいんですよ」菖蒲は、なつの方に向き直る。「どうして行先も言わず、僕の家からいなくなってしまったんですか?」
「どうしてって?」
なつは少し目を泳がせる。
「楽しみにしてたのに、先生の謎解き」
と菖蒲。
「謎解き?」
私は聞き返す。
「そう。先生は僕の親の経営していたクッキングスクールの元講師。しかも、ただの講師じゃない」
と菖蒲は言葉を切る。
「というと?」
私は驚いて目をぱちくりする。
「探偵なんですよ、それも名がつくね」
私の方を見据えて、菖蒲は答えた。
「名、探偵?」
私が尋ねると頷く菖蒲。
「以前、僕の宿題が紛失した時にお世話になったんです。素晴らしい推理でした」
菖蒲は遠い目をする。
「そうなんだ」
「って、その件はいいんです」と菖蒲は目が覚めたようにこちらを見た。「そう、事件は、僕の誕生会におきました。ケーキが消えたんです」
「消えた?」
私が首をひねる。
「はい」
菖蒲は頷く。
「チーズケーキと、紅茶お持ちしました」
気が付くと、すぐそばにウェイターが立っていた。
早いな、と私となつは喜んで、目くばせをする。
「じゃあ、食べようか」
なつが号令をかけた。
☆☆☆
お皿を置いてもらって、さっそく、ケーキにありつく私達。
チーズケーキは、外側のクッキー生地と中のスフレの味がなんとも言えない。
「美味しい」
菖蒲は眼鏡の奥の目をほころばせる。
「本当。さすが広告の品」
なつがそれに続く。
「何よ、広告の品って」
私が笑いだすと、なつも菖蒲も一緒に笑い出した。
「ところで」ひとしきり笑った後、本題に入る菖蒲。「どうして、僕の誕生日会でケーキがなくなったんですか?」
なつは、紅茶にレモンを入れて、ストローをかき回した。
「さあ、なんでだと思う?」
私が首をかしげる。
「誰かが食べちゃったとか?」
菖蒲が首を振った。
「誰が?僕たち皆で来たんです。先客なんていませんよ」
「じゃあ、お母さんが作らなかったんじゃないの?」
と私が思いついたことを言う。
「いいえ。母がケーキを作ったことを確認して家を出ましたから」
菖蒲はまたも首を振った。
「お母さんが食べちゃったんですよ、美味しそうだから」
何故か隣のお兄さんが口出しをする。
「いえ、そんな量食べてたら、太っているはず。その後、ディナーも食べましたが、
太っているようには見えなかったなぁ」
と菖蒲が首をかしげる。
「何人誘ったの?」
なつが突然尋ねた。
「15人」菖蒲は指折り数える。「あれ、18人だったかな」
「じゃあ、食べた可能性はないとして」
私と菖蒲は二人でうなる。
「二人とも」
なつの呼ぶ声がして顔を上げる。
すると、なつはケーキの皿も紅茶のタンブラーも空にしている。
「なつ、早い」
私と菖蒲も慌てて、ケーキにかぶりつく。
チーズケーキを食べ、紅茶も飲み終えた私達は、喫茶店を出た。
なつは一人でずんずん歩く。
私達は、なつを追って、噴水広場に着いた。
広場に着くと、音楽に合わせて、姿を変える噴水の姿。
なつはパシャリと携帯電話でその写真を撮った。
「ところで、なつ先生は解けたんですか?」
菖蒲はなつに尋ねる。
「ケーキをなくす必要があったんだ」
答えるなつ。
「どうして?」
私が尋ねる。
「何故かというと、ケーキを作った人物がミスをしたから」
「じゃあ、犯人って…」
菖蒲が目を丸くする。
「そう、彼女はミスを犯した」なつが静かに言った。「息子の作ったケーキに使う砂糖と塩を間違えたんだ」
「菖蒲さんのお母さんがケーキを捨てたってこと?」
私も目を丸くする。
「そういうこと。まさか、料理教室を開いている彼女がそんな失態をするわけにはいかない。しかし、作り直す時間がない。そこで、ケーキをこっそり捨てたんだ」
なつは言葉を切る。
「じゃあ、それでなつ先生も辞めちゃったんだ」
菖蒲は、ぼんやり呟く。
「それで、今、両親はどうしてる?」
なつは大きな目を菖蒲に向けた。
「うん。料理教室はやめてね、今は専業主婦になってるよ、お母さん」
「そうなんだ」
なつは残念そうだった。
その時、後ろから鳴き声がした。
「わんわん」
後ろを振り返ると、大きな黒い犬がなつにとびかかりそうな姿が目に入った。
「待て」
私が叫ぶと、犬は、私の言う事を聞いて、立ち止まった。
そして、舌を出して、その場に座り込む。
「すみません」飼い主が後ろからこちらにかけてくる。「手綱を手放してしまって…。-こら、ダメでしょ」
「麦山さん、こんにちは」
なつが挨拶した。
「知り合い?」
と私はなつに尋ねる。
「お母さん!」
菖蒲が叫んだ。
「お、お母さん?」
私がその女性の方を見る。
年のころは、四十代後半といったところか。同じ丸眼鏡のせいか、息子に似ている。
「わん」
犬は、すまなそうな様子も見せずに、大きく返事をした。
「ビッグ、勘弁して」
なつはまだどきどきしているようである。
ビッグの方は、怒られてしゅんとするわけでもなく、しっぽを振った。
「これ、よかったら食べてください」
菖蒲のお母さんは、なつにクッキーを渡した。
「ありがとうございます」
なつは、お詫びにくれたクッキーをほおばった。
☆☆☆
「本当、びっくりしたな」
私達は近くの大型モールに来ていた。夕食の買い出しのためだ。
私はなおも独り言つ。
「まさか、麦山さん親子に会うと思わないもの」
なつはそんな私を一瞥した。
「そうだよね」
ふっと彼が笑った。
食品売り場は微妙に混んでいた。
どんどん籠に入れていく彼を制止しつつ、レジまで進む。
さっさと手早く品物を入れていく店員さん。
「千五百円です」
さっと、彼がお金を出す。
「五百円のお釣りです。ありがとうございました」
袋に品物を入れる私達。
二人で袋を分けると、店内を後にする。
「レシート頂戴」
私は手を差し出すと、なつはレシートを渡してくれた。
☆☆☆
家に着いたのは十五時だった。
「どうだった?楽しかった?」
冷蔵庫に食品を入れながら、なつが尋ねる。
「うん。もしかして二人が来るの分かってた?」
私の言葉になつは食品を落とした。
「どうして、それを」
彼は驚いたように私を見る。
「だって、三銃士の表紙見せたら、近代美術館行こうかなって話になるよ。私、美術館方面オタだもん」
彼は、冷蔵庫から、梅酒の缶を持ってきてくれた。
「乾杯する?」
「うん。ありがとう」
私はお礼を言って、受け取る。
「「乾杯」」
私達は缶を合わせた。
そして、一緒に一口飲み干す。
「ぷはーっ、うまい」
なつが呟く。
「ところで、分かってたの。麦山さんが来るの」
私が尋ねる。
「まあね。待ち合わせしてたんだ、十三時に。噴水の所でって」
となつが答えた。
私は続ける。
「それと気になることがあるんだけど、塩と砂糖間違えたりするかな?私だって、砂糖と塩の箱って決めてるよ。入れ替えた時に間違えたのかなぁ」
首をかしげる私。
「そうなんじゃない」
なつは目を泳がせた。
ビールを飲み終わると、夕食を作るために、立ち上がった。
今日の当番は私。夕食は、市販品を使わない本格派。
私は目を泳がせたなつのことがまだ引っかかっていた。
麦飯、春巻き、回鍋肉、筑前煮、味噌汁。
ぼんやりしながら作っていると、ピーッと機械が終了を告げる音がした。
時計を見ると、十七時十分前。
私は出来上がった夕食を食卓に運び、なつも私を手伝う。
「「いただきます」」
二人して、手を合わせる。
「上手い。これ、出汁効いてるね」
なつが褒めてくれた。
後片付けを終えると、なつはテレビを見ていた。
私も一緒にテレビを見る。
彼が好きなのは、教育番組ばかりで、勉強になる。
「そろそろ寝ようか」
なつはテレビを消す。時計は、二十一時を指していた。
「もしかしてさ、お父さんかな。砂糖と塩入れ替えたの?」
私がなつの方に尋ねる。
「え」
なつの表情が固まった。
「人気者のお母さんを独り占めにするために、ラベルを張り替えたかしたんじゃない」
と私が人差し指を指す。「そうしたら、料理教室を辞めるから」
「そ、そんなことはないんじゃないかなぁ」
なつの目はよそを見ている。
「私の家のも同じ箱だからもしかしたら、ラベルだけなのかもって」
私は調理をしている時思いついた推理を披露する。
「だって、会社に行ってるんだよ、どうやってラベルを張り替えるの?」
なつが私を見据える。
「…そうだね。お風呂、入ってくる」
私は諦めたように降参する。
お風呂は、新しい家なので、綺麗なのが、自慢だ。
カラスの行水で、拾分で上がると、もう消灯されていた。
「あれ、もう寝て…」
後ろからふいに肩を叩かれて振り返ると、なつが立っていた。
「驚いた。もう、怖がらせないでよ」
私が言うと、なつはにかっと笑った。
大広間に布団をひく。
二人して、横になると、数分もしない内に、なつから寝息が聞こえてきた。
「眠れない!」
私は目がさえてしまっていた。
体を横たえ、ただ戸にあるシミを眺めていた。
そうして、今日あったことを思い出していく。
美術館。菖蒲。犬。
目を閉じる私。
しばらくそうしていると、ふと、何かが、こつこつと窓を叩いている、と知覚した。
突然、窓が開く音がした。
「分かったことがあるんだが」
誰かがなつに話しかけている。戸にある影を見ると、長さ1㎝ほどの人影しかない。
「まず、菖蒲の父がその日有休休暇を取った。砂糖と塩を交換したのは父親だったんだ」
影がささやく。
「何のために?」
なつは小さな声で尋ねる。
「菖蒲の曾祖母のためだ。彼女の介護のために、教室をやめてほしかったんだ。それを母がつっぱねて、両方やるって言いだしたんだ。それで、彼女の体を心配した父が決行した、ってことかな」と影が答えた。
なつは何も答えない。
「お前の言った通りだったよ。調べるのは手間だったけどな」
そういうと、小人の影がすっと消えた。
夢なのか、現実なのか。
私は、目をこする。
「どうもありがとう」
なつのお礼の言う声が聞こえた。
私は、ただ目をつぶって、そのまま夢へと落ちていった。