雨降らし
ハンドバックにカツラを忍ばせ、最終電車に飛び移る。ゴウゴウと唸る暖房。閑古鳥の鳴くオンボロの席。腰を下ろすと、闇に魅せられた向かいの窓から凍えるような瞳が睨む。
窓の向こうに座る女は、大きく溜め息を吐くと、再びこちらに視線を寄こす。透き通るように真白な肌が、私の、黄ばんだ白目や肌を嗤った。処女雪に埋まる二つの眼が、耐えがたい寒さに震えようとも、女は、私を忌み嫌う。決して、相容れないかのように。
「そんなに私が憎い?」
引き裂くような悲鳴を上げて、電車が夜へと走り出す。同時に、私の痛んだ髪を蔑むように、窓の女が身を引いた。両胸に垂れた見事な黒髪が、遅れて追いつき、肩の上で弾ける。対して私の髪は、塊のままひしゃげた。
……返事は無い。女は、無言で眉を顰めるだけだ。
永遠にも思えるような、恐ろしく長い静寂の後、沈黙を破り扉が開く。それが八回繰り返されたのち、ようやく私は席を立つ。――――線路は、そこで途切れていた。
それでも、窓の向こうに映る女は、黙って座ったままでいる。そうしてついには扉が閉まり、私と女は、そこで別れる。
人のまばらな深夜の駅で、逃げるようにトイレへと駆け込む。商売道具といつものカツラを引き摺り出しながら、ハンドバックを洗面台の脇に放り、くすんだ鏡に首を差し出す。蛇口を捻り顔を上げると、鏡の中に、電車の女と瓜二つの顔があった。違うのは、カツラの安っぽい茶髪と、派手な色をしたリップだけ。窓の向こうのあの女は、穢れを知らない、過去の私だ。
改札を出て、帳に沈む泣き虫の街を歩き出す。水たまりの上を歩くと、電車の女が泣きそうな顔をしていた。構わず蹴飛ばし見上げると、黒く塗り潰された夜空が、大粒の雨で泣いている。凍える視線に氷りつき、氷柱と化した雫が頬へ突き刺さる。私はもう、濁り切ってしまった。瞳を覆うひび割れた薄氷のせいで、一寸先も見えない。それを溶かすだけの温もりさえ、とうに失ってしまった。透けた花柄のキャミソールも、茶色の緩いロングスカートも、泥を被った橙色のサンダルも、私を溶かしてはくれない。
「あ……」
目に止めた途端、背筋を電流が抜ける。それでも、足は止めない。行く先からやってくる影を、私は密かに待ち受ける。淀んだ雨粒のカーテンの向こうで、男達の視線が集まるのが手に取るように分かる。もちろん、私に、ではない。
電撃にあてられた男達は、呆けたように口を開けたままシビれたように動けない。
囲むようにして並ぶ頭は、引きつれた雷雲のようだ。それらを掻き分け無言で進む、ツンとしたベリーショートの金髪は、シビれるほど勝気な目をしている。足元の石を踏んだのか、すれ違いざま、ベージュのヒールが雷鳴の如く轟いた。
不意に目が合いハッとする。相手も同じくらい驚いているようだ。
――――この黄ばんだ肌を見て、安い女だと思われたかもしれない―――― 実際には、一瞥にも満たない時間だったにも関わらず、過ぎる思考が重くのしかかった。
大通りから一つ外れた、人気の少ないシャッター通りの商店街。まばらに光る街灯の下で、今日も私は客を待つ。借りっぱなしの宿屋の隣で、雨宿りする
夫人を装う。とってつけた見栄に、溜め息が漏れた。それでも、どこにも身寄りが無い以上、この仕事を止めるわけにはいかない。雨に溺れて、野たれ死ぬわけにも。
雨に白む、色彩を欠いた灰色の街に、ふらりと、人影が現れる。全身を覆う厚手のコート、煙草に歯を立て不味そうに燻らせる唇は薄い。一瞬、まさかと目を瞠るも、ほのかな期待は脆く崩れ去る。
「あの……、あの……、君、一人?」
違う。あの男は、こんな薄気味悪い声色じゃない。
「良かったら、その、さ……」
不摂生な痩せこけた顔を伏せ、男は、ふけだらけの長すぎる髪に爪を立てた。
在りし日のあの、焼け焦げたようなちりぢりの赤髪に想いを馳せ、私は、ささくれだった唇に八重歯を突き立てる。そうして、やっとの思いで絞り出すのだ。
「私は、高いわよ?」
*
――――燃えるような男だった。
錆びたトタン屋根の宿屋の二階。私物化した借りっぱなしの一室で、痩せこけた男に乱暴に抱かれながら、私はまた、あの男のことを思っていた。私を、この泣いてばかりの街に閉じ込めた、鮮烈なあの一夜を――――
――――この街に来たのは、その日が初めてだった。その日も、当然のように止まない雨の中、私は、バーの軒下で雨宿りしていた。
それは単に、たまたま乗り合わせた電車の終点がそこだったからで、それが当時の私のセオリーでもあった。無論、うっかり知人に鉢合わせないためだ。終点に着く頃には、景色は、いつも様変わりする。そのことが、私に束の間の安息を与えるのだ。
しかしその日は、いくら待っても一向に客が現れず、雨脚ばかりが強くなっていった。そのうち誰も通りを歩かなくなり、諦めて、踵を返そうとした時、背後でバーの扉のベルが鳴り、長身の男が大股で詰め寄って来た。
「ん?」
すらりとした長身を、厚手のコートですっぽりと覆った男は、ぶつかる寸前で私に気付いたようだった。訝しむように目を細め、私の頭を覗き込む。息のかかるような距離だった。
「婦人、なぜカツラをしている?」
看破されたのは、後にも先にもこの一度きりだけだ。
「それは――――」
言い切らないうちに、長身の男が得心したように鼻を鳴らす。男は、さらに距離を詰めてから、声を忍ばせ囁いた。
「――――お前、娼婦か」
私は、決して目を逸らさない澄んだ虹彩の中に、激情を焼べた業火を見た。
――――燃えるような、男だった。
男に抱かれて明かす度、あの夜の事を思い出す。連れられるがまま訪れた、この宿屋の、この部屋での、忘れ難いあの一夜を。
そうして私は、この取るに足らない商売相手と、あの、炎そのもののような男とを重ねるのだ。
激烈に燃える大きな瞳。焼け野原の如きちりぢりの赤髪。蒸気を纏った隆々な四肢は、月光に青く燃え上がる。そして、火を吹くような竜の吐息が、私の、乳白色に彩られた谷間を、心を溶かすのだ。
……けれど、部屋中に満ちたバラの香りに気付く度、私の幻想は終わる。
「……おい、こっちを見ろよ」
フケだらけの小心者が、馬乗りになって威張り出す。それでも、私の視線は、電話台の傍で揺れる、赤いアロマキャンドルの火に注がれていた。
それは、全てが終わった後、あの炎の化身のような男からもらったものだった――――
――――情事を終えた後、バスローブを着込んでいた私の隣で、燃えるような男が手のひら大の赤い蝋の塊を取り出した。私は、それを見たことが無かった。
「蝋燭?」
「知らないか。アロマキャンドルだ」
言いながら、男は取り出した赤いアロマキャンドルを電話台の傍に置いた。
「あろま、きゃんどる?」
「要は、香りのする蝋燭のようなものだ」
男が、手で囲いを作り、ふっと吐息を吹きかける。静かに手をどけると、アロマキャンドルの中央で、小さな灯火が揺れていた。
「シーツに燃え移らない?」
「心配ない。蝋の中を巡るこの紐が、底に辿りつくまでは」
「え?」
「その時までに、また来る、約束しよう」
革の財布から数枚の札束をぞんざいに取り出してベッドに叩きつけると、男はおもむろに立ち上がった。
「娼婦。だからお前も、それまで誰にもその髪を見せないと約束してくれ」
「どうして、そんなこと……?」
慌てて手繰り寄せた黒髪はやはり、酷く痛んで、とても見れたものではなかった。カツラを外して抱かせてくれと言われ、いやいや外したまでだと言うのに。
焦げたちりぢりの赤髪は、何も答えず、扉の向こうへ消えてしまった。
*
今晩の分の仕事を終え、私は、宿屋のくしゃくしゃのシーツの上で呆けていた。
あれからどれほどの夜を超えたのだろう。バラの香りの赤いアロマキャンドルは、中央を大きく窪ませ、灯火は、溶けだした蝋に半ば溺れていた。今にも、底まで辿りつこうとしている。客が去り、途端に押し寄せた静寂の波を、壁にかかった振り子時計が掻き乱す。蒸れた安っぽいカツラを剥ぎ、枕の横に放った。
当初、変装用だったはずのそれは、いつしか、痛んでしまったボロボロの地毛を忘れるための、自己嫌悪からの隠れ蓑と成り果ててしまった。派手な色をしたリップや服も、時折、ささくれだった唇や、黄ばんだ肌を隠すためのものに思えてくる。
そんなもののはずじゃなかった、そんなためのものじゃなかった。
しかし今では、こんな姿で無い時の方が――――普段の姿でいる方が――――むしろ変装のように思えてくる。実像と虚像は、とうに入れ代わってしまった。
色褪せた安っぽい髪、肌の透けたはしたない服に、趣味の悪いリップ。それこそが、今の私なのかもしれない。
けれど。
そんなことはもう、どうでも良い。
もう一度、あの燃えるような男が私の元へ訪れて、世界に火を点け、全てを溶かしてくれるなら。
――――薄らいでいく意識の中で、どうしてか、バラの匂いだけが、強く香っていた。
*
鼻腔を焦がすような熱風が貫き、私は、強烈な喪失感を抱え目覚めた。
目を開けた途端、息苦しいほどの熱にあてられ、網膜が痛んだ。けれど直後に、ハッと息を呑み閉じることを忘れる。――――そこは、まさしく紅蓮の海だった。
私は、湿気を含んで燃え移りの悪い、ベッドの上の孤島に居た。薄い布団の中でゆっくりと身を起こすと、向かいにかかった白いカーテンが炎の壁となって立ちはだかる。
それはまるで、狂い咲くバラのようで。人智を超えた圧倒的な〝生〟を、肌に焼き付ける。
美しい。ただ、それだけを思った。
けれど。
この胸の奥底で蠢く、雨粒にも満たないような疼きが、私を現実へ繋ぎ止める。
この鎖を、私は、とうに知っているはずだった。
梳いたばかりの髪を、ぐしゃぐしゃに掻き乱すような感触。
それは瞬く間に肥大化し、すぐに私の胸中を満たした。
その感情に、名前を付けようとしたそのとき、部屋の扉が爆音の如く蹴破られた。同時に、灰色の煙を掻き分け、見知った影が駆け込んで来る。
「来て、くれたの?」
言い終わらないうちに、私はまた、意識を失った。
再び目を覚ました時、私の氷りついた瞳に飛び込んできたものは、シビれるほど勝気な双眸だった。その女は、ツンとしたベリーショートの金髪を撫で、安堵の溜め息を吐く。
「良かった。もう、ダメかと思ったのよ?」
その女は、雷光のようなピアスを閃かせ、ふっとやさしく微笑んだ。
「……綺麗な髪ね。うらやましいわ」
青ざめて髪を掬うと、それは、あの安っぽい茶髪のカツラではなかった。痛んでささくれた、私の嫌いな髪だった。
「え?」
窓の女がさんざん憎み、凍える私が必死に隠し、燃えるような男が自分にだけ見せろと言った、ボロボロの黒髪。それをこの女は、綺麗な髪だと、言ってくれた。
刹那、凍てつく頬を、焼けるような雫が伝う。
それは、他でも無い、私自身の涙だった。
「…………え?」
黒く煤け、紙屑のように折り重なる宿屋。未だ残された微かな火種を、止まない雨が塗り替えていく。それは凍えた私の雨か。否、
――――震えているのは、凍えているからではない。
ずっと、誰かに認めて欲しかったのだ。カツラの下に隠した、本当の自分を。
そう気付いた時、視界を覆うひび割れた薄氷は、涙となって、少しずつ溶け始めた。