表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

プロローグ

 暗い空に星々が瞬く。宇宙では星は瞬かないものではあるが、ドームの中に保持された大気によって、地球から見るのと同じ夜空が広がっているのだ。しかしもちろん全く同じという訳ではない。中空に輝くのは白い月ではなく、漆黒に映える宝石の青――地球だった。

 月面に都市を築くに至った人類は、母なる星の稀有な輝きを身近に得た。かつてならばごく一部の選ばれた者しか見ることができなかった美しい星は、もはや日常の風景の一部になったのだ。


 とはいえ地球の輝きは月面の民にとって一様に同じに映る訳ではない。新天地に一縷の望みを抱いて旅立った貧しい移民にとっては、それは手の届かない懐かしい故郷の灯火だった。月面で生まれた者でも、蟻の巣のような狭苦しい集合住宅に蟠る者ならば、見たことのない海や草原に焦がれるだろう。


 地球の重力の(くびき)から逃れ、母星の輝きをただ美しいものとして愛で。人類の最先端の技術とそれがもたらす利益を享受できるのは、月面で暮らす者の中でもごくひと握り。彼らは自らを天空人(セレスティアル)と称し、かつての王侯のように優雅で華やかな社会を形成している。


 天空人――月面の低重力に順応したすらりとした体つきと洗練された身のこなし。子女に遺伝子改良措置を施すことのできる財力ゆえに、顔かたちも皆整っていて知能も高い。人は生まれながらに平等、という。人類が長年かけてたどり着いたはずの結論は、彼らと地球人を並べてみればあっさりと覆されてしまうだろう。

 それほどに彼らは美しく賢く、平民を見下す貴族さながらに高慢だった。




 そのパーティーも、天空人の財力と性質をよく示すものだった。


 色鮮やかな花や観葉植物、新鮮な果物で彩られた会場。水や土といった資源の限られた月面において、それらは時に宝飾品よりも高価なものだ。音楽を奏でるのも給仕をするのも、アンドロイドではなく生身の使用人たち。お仕着せの制服に折り目正しい――正しすぎる所作で作り物めいて見えてはいるが、血が通ったれっきとした人間だ。

 錬金術を我がものとしたかのように、人類が夢見たほとんどの技術を実現させたこの時代においても、天然のものや人の手を煩わせることへの信仰は根強いのだ。あるいは、それを実現できるだけの力を示すことへの欲求は、とでも言うべきだろうか。


 主催者である実業家が彼の力を見せつけようとしている客の立場は様々だった。彼の客や、取引相手。その伴侶や子女。これらは皆天空人だから、贅を凝らした演出にも――少なくとも表向きは――騒ぎ立てることなく、和やかに歓談している。


 一方で驚きや興奮を露にし、あちこち首を巡らし指を指しては歓声を上げる一団もいた。いずれも若い――青年ともまだ呼べない、少年ばかりの集団だ。彼らこそ今日の席の主賓であり、まだ、同時に何よりの()()()だった。

 彼らは地球から移民したばかりの比較的貧しい家庭の出だ。だから正装にも月の重力にも慣れなくて転んだり飛び跳ねたりしているし、月面の者ならとうに見慣れた地球を指しては故郷の大陸を探している。大きな声に、大きな身振り。やや粗雑な言葉遣い。いかにも素朴で物慣れない姿を、密かに嗤われているのも気付かずに。


 これは慈善という名のサーカスなのだ。将来を嘱望される若者を激励するという建前の裏で、天空人がいかに優美で洗練された文化を誇るか、地球から離れて新人類としていかに繁栄するかを確かめようという、いささか趣味の悪い催しなのだ。




 侏儒(こびと)の道化を眺める貴族の目つきをしている天空人の中でも、歳若い少女たちは特に意地が悪く容赦なかった。少年たちの顔や背丈や体つきを比べては、どちらがマシだとかあれだけはご免だとか言い合っている。遠くから見れば、彼女たちの軽やかな笑い声や口元にひらめく白く細い手はこの上なく美しく、蝶や熱帯の鳥が集うようにも見えたのだが。


 少女たちに混ざって、美しい姿の青年も何人かいた。少女たちの中には、()()にしなだれかかる者もいる。雪花石膏(アラバスタ)の指先を絡め合い、頬や唇をなぞってはくちづけを落とす。そういった見る者の胸をざわめかせるような仕草は、彼女たちの堕落を示すものではない。天空人は、かつての宮廷文化のように遊戯としての恋を奨励してはいるけれど――十代も半ばの少女たちに対しては、さすがに慎みを求めている。


 作り物のように美しい青年たちは、事実作り物なのだ。裕福な家庭の少女たちの護衛や執事として宛てがわれるアンドロイド。穏やかな微笑みも控えめな態度もプログラムされたものに過ぎないが、だがだからこそ父や母は安心して娘たちを任せることができる。登録された主に(かしず)き美辞麗句を並べるのも、全て定められた回路がそうさせるだけ。親たちが懸念するような下心は何もないのだから。


 何を言っても何をしても逆らわない()()は、少女たちにとっては格好の玩具でペットでアクセサリーだった。最新式のアンドロイドを従わせているというのは優越感になるし、たとえプログラムだとしても麗しい青年に褒めそやされるのは彼女たちの自尊心をくすぐり、高慢な美しさに更に磨きをかける効果をもたらしている。


 一方で、従順すぎるアンドロイドが物足りないのも事実だった。戯れに叩いてみても嫌いだ見たくないと刺のような言葉を投げてみても、()()の微笑みは変わらないから。だから彼女たちは自分たちの言葉や笑顔にどれだけの価値があるのか知りたかった。あるいは、それらにどれだけの力があるか知らなかった。




 だから、その少年は彼女たちの格好の餌食になった。月の軽い重力に酔って、会場の豪奢な装飾や初めて間近に見た天空人たちに見蕩れ――自分もこの場に馴染んでいると錯覚してしまった、愚かで哀れで不格好な地球人。彼は、会場を飾る紅い薔薇を一輪抜き取ると、天空人の中でも一際美しい少女に捧げようとしたのだ。


 道化が客席に上がり込もうとしたのだ。何という思い上がり、勘違い、無作法だろう。


 彼は月の洗礼を受けた。美しく見えるのは遥かな地上から眺める時だけ。実際に降り立って見れば、美と金と力の有無が険しい壁となって彼我を分かつ。越えがたい壁に、彼はこの時初めてぶつかったのだ。おそらくはとても残酷な形で。




 パーティーの会場から飛び出す彼を、天空人たちは美しい嘲笑で見送った。誇りを傷つけられた彼の怒りと悲しみ――赤く染まった頬も、食いしばった口元も、固く瞑った目蓋から滲む涙も。それらは全て、彼らにとっては良い見世物でしかなかった。

 興味深い一幕の後、パーティーは何事もなかったかのように続けられた。あの美しい少女は、美しいアンドロイドと踊っていた。素晴らしく均整の取れた一対はやはり絵のように美しく――これこそ月の世界だ、天空の民だ、と見る者を感嘆させ満足させた。




 地球人の少年は、道も分からないままひたすらに駆けた。慣れない重力下でのことで転び転がり、その度に立ち上がってまた走り。何度目かに倒れた時についに力尽き、道路の舗装の冷たさに火照る身体を受け止めさせた。その時には、握り締めたままだった薔薇は彼の手の中でひしゃげ、刺がつけた傷から滲む血が花びらの紅と混ざっていた。


 倒れて地に伏すと、仄かな想いを嘲られて踏みにじられた惨めさが一層身に染みた。純情な少年には、なぜあの少女があれほど残酷な態度を取ったのかさっぱり理解できなかったのだ。


 惨めな思いを味わい尽くし、走り続けて弾んだ息も収まった頃。彼はようやく立ち上がった。するとそこはどこかの店のショーウィンドウの前。磨き上げられたガラスは鏡のようで、今の彼の姿をあますことなく映し出す。


 乱れた髪に、土ほこりに塗れた衣装。いや、そんなことは問題ではない。彫刻のように会場を彩っていた天空人と比べて、彼のなんと無様なことか。手足は太く短いし、背も低い。顔かたちそのものも。彫刻のように整っていた天空人と比べると、彼の顔は岩に目鼻をつけたようだとさえ思えた。衣装だけは――借り物ではあったけれど――それなりの装いを凝らしているのが、またちぐはぐでみっともなかった。


 ガラスに映る自身を見て、彼は嘲られた理由を思い知った。何と不格好な生き物だろう。こんな生き物に言い寄られては撥ね付けるのも当たり前だ。


 あの少女は天上に輝く月――あるいは月面でのことだから稀有なる青い宝石(ちきゅう)だろうか――、彼には手の届かない存在なのだ。彼は地を這う虫けらだ。彼女は、親切にも身の程知らずに月の作法を教えてくれたのだ。美しいものは美しく、醜いものは醜いままで。その世界は決して交わることがないのだ。


 鏡像の彼の口元が苦く嗤った。事実を受け入れた今、怒りはもはやなく、彼の胸にあるのは虚しさと悲しみだけだった。




 彼は潰れた薔薇を道端に投げ捨てるとガラスの鏡に背を向けて家への道を探し始めた。その足取りはゆっくりと落ち着いて、もう走ることはしない。


 破れた想いと砕けた心をそっと抱えて、粉々にならないようにしなければならなかったから。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ