星の種
男は振るっていた鍬を自分の体に立てかけ、掌を眺める。
酷く無骨な手だった。肉刺も沢山ある。肌は必ずと言っていいほどいつも荒れている。
じっと眺めていると、掌に〝ぬめり〟のような感触が走った。汗を掻いたわけではない。ただの感触の記憶だ。
実際に今触っているわけでもないそれが、はっきりと掌に残り続けている。
洗っても、落ちたことなどなかった。
「休憩するか」
一人で呟いた男は、首にかけたタオルで汗を拭い、鍬を携えて木陰へと向かった。
太い木の根に腰を下ろし、息を一つ吐く。
目のやり場などないくらいに、眩しく陽光が降り注ぐ晴れやかな空の下、小高い丘に座る男の目の前には、一面の緑の草原が広がっている。麦のような雑草が、風でざわめきながら我が物顔でこの土地をいっぱいにしていた。
男はこの草原の真ん中の丘に、畑を耕してたった一人で暮らしている。住み始めてからまだ一年ほどしか経っていないが、それでもここでの暮らしは落ち着いたものだった。
日々忙しく行き交う人々の喧騒よりも、草原でざわめく草花の音色の方がずっとましだと思ってここに来た。
追われるように町で生きるより、自然の片隅で漂うように生きたいと思ったからここに来た。
だが、そんなことは無かった。
黒々とした罪に苛まれ、この世を去ったはずの仲間たちの亡霊に追われ続ける。
結局どうしようもないのは、底の抜けてしまった自分の心なのだと気付いた。
日の及ばない陰の隅で、男は無心でサンドイッチを貪る。マヨネーズの濃厚さ。キャベツの瑞々しさ。トマトの酸味。パンの芳醇な香り。そのどれも、男の味覚を満たすには至らない。
食い物に心を向けていないのだから当然のことだ。
欠損した心で、美味く感じられる食べ物など何も無かった。
彼女がいたなら、笑えたのだろうか。
男は、欠けてしまった心の破片を思い出そうとする――。
*
「また、私たちはここで会うんだよ。約束だ」
星空の下。
小さな丘の上。
彼女との、曖昧で不確かだった約束。
でも、確かに彼女とのつながりとしての約束。
男は、白く細い少女の手を握った。
まだ、男の無骨な手に小銃が握られていた頃の事だった。
隣で何人倒れたか分からない。
何人その眉間を撃ち抜いたか分からない。
心の置き場などない埃っぽい塹壕から、何度も何度も引き金を引いた。
それでも塹壕の向こうから、幾らでも弾丸は降り注いできた。
生き残ることはまず不可能だといわれた前線に配置されてからも、男は一心に目の前の〝敵〟と呼ばれる人々を撃ち続けた。
彼女との約束を守らなければ。
同じ人間を撃ち殺してきた。
沢山沢山、血を見てきた。
男は何とか生き残った。
戦いの終わりが告げられ、乾いた戦場に残されたのは、壊れた男と累々と転がる人々の死体だけだった。
虫の息だった仲間を介抱しようとした。
酷く苦しそうな顔だった。
なのに男が泣きそうになっていると、仲間は必死に強がった。口角筋がひきつった、ぴくぴくと震えているあの笑い顔が、今でも脳裏に焼き付いて離れない。
そのうち、震えることもなくなった。
仲間の表情筋から、ふっと力が抜けた。
途端に、男の持つものが、無機物的な何かになった。
その頃からだ。手の〝ぬめり〟が取れなくなったのは。
約束を守るために帰ってくると、彼女の居た家は焦土になっていた。
どうやら町そのものが空襲で吹き飛んでしまったようだった。
彼女は無事に生きられただろうか。
冷静に、頭を冷やそうとした。
けれども男の心臓はひとりでに跳ねまわった。喉から飛び出そうなぐらいに、不安を訴えた。
男は、底のない穴に永遠に落ち続けるような、とてつもない恐怖に襲われた。
かつて彼女の家だったゴミの山を、昼夜を問わずひたすらに引っくり返し続けた。大きすぎる柱なんかは鋸でバラバラにしたり、邪魔な瓦礫はハンマーで砕いたりして。
そうして男は、パジャマだったと思われる襤褸布を見つけた。
それを着た、人の骨を見つけた。
病弱だった彼女が、そう易々と避難できる筈がなかった。だから、逃げ遅れて、押し潰されて死んだ。
そういう現実が、ただただ目の前にあった。
ぷちん、と嫌な音がした。
ただ転がる現実に、心が押しつぶされた。
膝をつき、むせび泣く男の左手薬指で、静かに指輪が輝いていた。
*
彼女との約束は、今でも男の頭蓋の中をぐるぐると巡り続けている。
果たせなかった約束が、延々と。
彼女と再会する筈だったこの丘で、男は暮らしていた。
そのままゆっくりと、生きて死のうと思っている。
サンドイッチを食べ終わるとともに、感傷に浸り終わった男はすっくと立ち上がり、鍬を右手で持ち上げた。
畑に向かおうとしたその時、男の目の前にはまだ幼そうな風貌の少女が居た。見たことのない顔だった。
そもそも、こんな辺鄙なところに人などめったに来ない。ましてや子供なんて。
不審に思いながら、男は少女に話しかけた。
「お嬢ちゃんどうした。迷子か?」
「うん。そんなところ」
「お母さんは?」
「いない。ずっと一人で、ここまで来たよ」
「一人でって……町から一人で来れるような距離じゃないだろう」
「でも、一人で来たんだよ」
「……」
少女は、綺麗な目をしている。零れ落ちてしまいそうなくらい、丸く、澄んだ目だった。ずっと見ていると、そのまま吸い込まれてしまいそうだ。
少女はポケットから唐突に、葡萄一粒ほどの大きさの何かを取り出した。そして、それを男に差し出した。
「ねえ、おじさん。種もらって」
「種? 何のだ?」
「星の種。私、これをおじさんに渡したくてここに来たの」
「不思議なことを言う子だな。おうちはどこだ?」
「あっち」
少女は空を指差す。
男はそれをひどく変に思った。どうにも言動が不審だし、意味もわからない。あまり、言うことを鵜呑みにしない方がいいのかもしれない。
けれど。
「これ、受け取って。おじさん」
少女は種を、ずいと男に近づける。
「――この種を、俺はどうすればいいんだ?」
「あの丘に植えて欲しいの。私、そう約束したの」
少女が指を差した先には、男の住む小屋と、耕していた小さな畑があった。
澄んだ目で、男を見つめる少女。
約束、という言葉。
誰としたのだろう。
分からない。
分からないけれど。
男は、その言葉を汲みとることにした。
「この種を、植えればいいんだな」
そう言って、種を受け取った。
*
男は毎日種に水をやった。そのうち双葉が土からひょっこりと顔を出した。
ある春、嵐がやって来た。苗が倒れてしまうといけないから、男が煉瓦で囲いを作ってやると、双葉は苗木になった。
ある夏、酷い日照りが続いた。すぐに苗木が乾いてしまいそうになったので、男が一日に四回も水をやったら、苗木は男の背丈ほどもある大きな木になった。
ある秋、冷たい木枯らしがやって来た。葉が全て落ちてしまわないように男が風除けを立ててやったら、大きな木は小屋の何倍も高く、そして太い大樹になった。
ある冬、大雪が降った。葉が凍って枯れてしまわないように雪を掻いてやったら、大樹は星にも届く星の樹となった。
星の種は、最後は星の樹になった。
星の種をくれた少女は、ムーンという名前を男がつけて、一緒に暮らしていた。目が満月のようにまん丸で澄んでいたからだ。
ムーンは男と一緒に暮らしながら、その育ちようを見つめていた。昨日よりも葉が一枚多かったり、背丈が大きくなっているのを見て、ムーンは嬉しそうに笑っていた。
そうして何年も、何年も経った。
男は更に歳を取った。細くなってきた髪には、ちらほらと白いものが混じり始めた。
ムーンも歳を取った。男に種をくれたときよりも、ずっと背が伸びて大人になった。
二人は、ずっと暖かい時間を過ごした。
*
「おじさん、星の樹に上ろう」
とある日、ムーンは天のどこまでも続く星の樹を見上げながら、そう言った。
星の樹はまるで螺旋階段のように枝葉をつけており、人が乗っても折れないくらいにとても丈夫だった。
「上るって? 危なくないのか?」
「大丈夫。手すり代わりの蔦だってあるし、落ちても星の樹が守ってくれるんだよ」
自信たっぷりに、ムーンは笑う。まるで、登ったことがあるかのような物言いだ。
「……そうか。それじゃあ、行ってみようか」
男は弁当にサンドイッチを拵えて、ムーンと星の樹を上り始めた。
星の樹は、本当に高い。男の住んでいる小屋は、見下ろすともう豆粒のような大きさだった。ふわりと風が吹けば、人間なんてどこかにでも漂って行ってしまいそうなくらいに、高くにやって来た。
それでもまだまだ星の樹は天高くにその幹を伸ばし続けている。
二人は空を漂うように歩き続ける。
綿のように柔らかい雲を通り抜ける。
眩いほどに鮮やかな虹を見下ろす。
空は上っていくにつれて、淡い水色から深い群青色に、そして星々の瞬く黒色に移っていく。
いつの間にか星々が、地面から見上げるよりも強く、強く輝いている。
星の樹は続く。
どこまでも、どこまでも。
ムーンが、ぽつりぽつりと言葉を発した。
「とても高いね、おじさん」
「――ああ、高いな」
「星が綺麗だね、おじさん」
「――ああ、綺麗だな」
「地球って、あんなに青いんだね、おじさん」
「――ああ、青いんだな」
「お腹すいたね、おじさん」
「――ちょっと休んで、サンドイッチでも食おうか」
「そうしよっか」
男の提案にムーンは笑顔を見せ、二人は葉っぱの階段に並んで座った。男はサンドイッチの一つをムーンに手渡した。
包んでいたラップを剥がし、男はサンドイッチを頬張った。
マヨネーズの濃厚さ。キャベツの瑞々しさ。トマトの酸味。パンの芳醇な香り。
男はとても美味しそうに食べていた。
「サンドイッチ、美味しいよ」
「――ああ。俺も美味いよ」
二人は顔を見合わせる。お互いの顔をまじまじと見つめ合ってから、自然と笑いが起きた。
広い銀河の片隅で、少女と男は笑う。
笑い声が、星々の間で響き渡った。
「昔、俺は沢山の人を殺したんだ」
男は星の樹の階段を上りながら、そんなことを言った。どこか、遠くを見るような目だった。
「殺人鬼?」
「うん、まあ、そういうことだ。――そしたら、奥さんになるはずだった人が殺されてた」
「あちゃ」
「皆お互いに殺しあって、お互いに色んなものを失くした。だから、俺も大切な人を失ったことに文句が言えなかった」
「でも……辛いよ、そんなの」
「ああ、辛かった。だから、あの丘でゆっくり死のうと思ってた。……ムーンが来るまでな」
「私が来ちゃったんだね」
「来ちまったんだな。そしたら、星の樹を育てながら、お前と一緒になんとなく過ごすのが嫌じゃなかった。むしろなかなかに気持ちのいい日々だったんだよ、これが」
「女の子と過ごす日々も、悪くなかったでしょ」
「そういうことじゃなくてだな……まあいいか」
「えっへっへ」
「はっはっは」
二人は笑う。
長かった星の樹の階段の、最後の一段を二人は上った。
二人は星の樹の頂上に辿りついた。
銀河の果て、星の樹の終着点。
星の樹の頂上には、ふさふさとした鳥の巣のようなものが出来ていて、中には葡萄一粒ほどの種が、一つだけ置かれていた。
何年も前に見た、星の種だ。
「おじさん、この種、私が貰ってもいいかな?」
ふいに、ムーンはそんなことを言い出した。
「……どうしようかなあ」
男はわざとらしく腕を組んで首を揺らす。
「うう、そう言われてしまうと私はどうすることもできない」
「冗談さ。もともとムーンのくれた種だからな。収穫はムーンがすればいい」
「本当に? いいの?」
「ああ、いいともさ」
「でも、種もらったら私、どっかに行っちゃうよ?」
昔、男とムーンはは約束したのだった。
種の成長は、ムーンの成長である。だから、種が成長を終えたとき、ムーンは星の種を引き継ぐために、またどこかへ行ってしまうのだと。
そう、約束したのだ。
「……寂しく、なるけどな」
肩を揺らして、男は笑う。
昔は、見せることも、見せる相手もいなかった笑顔だった。
でも、今は違う。
「じゃあ、代わりにこれをあげましょう」
ムーンは、ポケットから紐のついた石ころを取り出した。どうやらネックレスのようなものらしい。
「なんだ、この石ころは?」
「石ころじゃないよ、星のかけら。種は私があげたくせに貰っちゃうから、今度は正真正銘、おじさんにあげる」
「ほう、そうか。なら大切にするよ」
「実は私じゃなくて、奥さんから預かったんだけどね」
「へえ、そりゃ本当か?」
「もちろん」
ムーンから、星のかけらが手渡される。男は受け取ってそれをまじまじと眺めた。
落とせば割れてしまいそうな、磨けばなくなってしまいそうな、脆く弱そうな石ころ。
その奥の深くに、かすかな光が見える。
多分、六等星よりも小さな光。
その光は何よりも綺麗だった。
「じゃあ、私は行くね」
「ああ、行ってらっしゃい」
「うん」
「あ、最後に一つ、俺からお願いしてもいいか?」
「なあに?」
「俺の嫁さんにどこかで出会ったら、『ネックレス、ありがとう』って言っておいてくれ」
「どうだろう、私また出会えるかな」
「出会うさ。嫁さんも、何処かにいるからさ」
この銀河のどこかに。
きっと。
「じゃあ、お世話になりました」
「ああ、いつでも帰ってくるといい」
ムーンはぺこりとお辞儀をした。男は微笑んで手を振った。
ムーンがたんとステップを踏むと、彼女は光の粒になって、素早く星々の彼方へ飛び去ってしまった。
流れ星のような、眩しい少女だった。
*
それから、いくつもの月日が流れて。
小高い丘の小さな小屋で、男は眠るように息を引き取った。
安らかに眠る男の胸で、星のかけらは小さく輝いていた。
その光は微かで儚いけれども。
必ず――彼女の元に届くだろう。
Fin.
感想を頂ければとてもしあわせです。