未来予知の少年
早朝。
目覚まし時計の音が響く。乱暴にそれを止め、僕は起き上がった。
僅かな布団の温もりが離れる。
そして僕は死んだ。
目覚まし時計の音が響く。乱暴にそれを止め、僕は起き上がらない。
僕は横へ転がった。その弾みでベッドから落ちてしまった。巻き付いた布団がクッション代わりとなり、さして痛みはない。
直後、ベッドに何かが落ちる音。
寝起き早々のハードな動きのせいでクラクラする頭を動かし、そちらを確認する。
そこにあったのは長い間、僕の部屋を照らしていた電灯だった。
あのまま起きていたら――当たりどころが悪ければだが――死んでいただろう。
そしてもちろん、あの未来予知のようなものが無ければ、僕はいつもするようにしていたはずだ。
未来予知。不思議な現象だ。これが起き始めたのはつい最近。何度か同じ事を体験している。
この未来予知だが、その全てが僕が死ぬ事を予知している。
僕はどうなってしまったのだろう。この問いに答えは出ない。世の中には僕達には理解できない事があるのだろう。たまたまそれが僕自身に降りかかったというだけ。
そうわりきる事にしよう。ベッドの上の電灯は放って置いて、パジャマから着替えた。いつもならここで制服に着替えるのだけど、今日は平日であるにも関わらず休校らしい。高校側の事情で急遽休校にする、とメールがあった。
習慣で手に取った携帯端末は電池が切れている。昨晩充電を忘れていたみたいだ。
なんとなく充電するのも億劫で、そのまま部屋を出た。
1階のリビングでは母がテーブルにお皿を持ってきていた。僕が起きる時間に合わせて、朝食を作ってくれたのだろう。
きつね色に焼けた食パン、ベーコン、それとスクランブルエッグの乗ったお皿は珍しく2つ置かれていた。
父だけはいつもと変わらずまだ寝ている。
ということは母の分ということか。
いつもは母は先に朝食をとり、他の家事に手を回しているのだが、もしかしたら今日は起きるのが遅くなったのかもしれない。
母が座るのを待ってから僕は手を合わせた。
「大丈夫?」
「うん。電灯が壊れちゃったから直しといて」
肯定を示すように母は頷いた。母との会話はそれっきりで、僕は黙々と食パンを胃に押し込んでいた。
あまり喋りたい気分じゃなかった。
ニュースキャスターの淡々とした声が響く。
雨が降るかもしれない。
ウィンドブレーカーを着て、靴を履いていると母がやってきた。何か用だろうか。
「どこか行くの? 大丈夫?」
「ちょっと待たせてる人がいるんだ。母さんは心配性だなぁ」
「そう……」
行ってきますと言って路地へと出た。向かう先は学校だ。彼女が学校で待っている。わざわざ休校中の学校で待つなんて……と思うのだが、それがまた彼女らしい。
彼女との待ち合わせはいつも不思議な場所だった。どこだったかは忘れたけど、山道の入口集合の時の事。色々と山登りの用意をして行ったのに、彼女は僕をカラオケに連れて行ったのだ。
最初はそういった彼女の行動に驚いていた僕も、段々と動じなくなっていった。
お互いの家を集合場所にしたことも無い。
もしかしたら彼女は集合のプロセスを楽しんでいたのかもしれない。
人通りの少ない路地。時折吹く風が頬を冷やす。東の空の太陽は低い。建物の影は長く、寒い。
程なく、バス停へと辿り着いた。学校まではバスですぐに着く。ポケットの中の定期券を確認しながら、バスを待った。
バス停のベンチには僕以外には、眼鏡をかけたおばあさんしかいなかった。いつもは学生で込み合っているのだが。
「お兄さん。お兄さんはどちらへ?」
ぼーっとしていたらおばあさんが話しかけてきた。よく見るとおばあさんの膝の上には一束の花があった。輪ゴムで止められたそれらは決して派手ではなかった。
「待ち合わせをしているんです。おばあさんは?」
おばあさんは膝の上の花をそっと撫でた。赤い花びらが揺れる。
「こんな老いぼれの事なんてどうだっていいですよ。後はお迎えを待つだけ。じいさんがいつ呼びに来てくれるかですよ」
僕はおばあさんの言葉に何も答えられなかった。眼鏡の奥のおばあさんの目は悲しみを帯びてはいなかった。
おばあさんの目は僕をしっかりと見つめていた。
「でも、残された方は寂しいものですね。――ああ変な事言ってごめんなさい。歳をとるといけないわね」
おばあさんは寂しそうに俯いた。
沈黙が流れる。
僕がバスが来ましたよと言うまで、ついぞ会話は無かった。
おばあさんに先に乗るように促して、僕はバスに乗った。空席の目立つバスは僕の頭に、先程おばあさんから聞いた話を思い返させるのにうってつけだった。
『残された方は寂しいものですね』
その言葉が耳に響いていた。
僕の乗ったバスは、道路に飛び出した少年をかわそうとして路側帯に乗り上げ、そして横転した。
衝撃で首があり得ない方向に曲がった僕が、生きているはずは無かった。
おばあさんに先に乗るように促して、僕はバスに――乗らなかった。
「お兄さんは乗らないのですか?」
「あの、僕は……」
乗らない? 事故が起きるから? それをどう言えばいいのか分からず、再び言葉に詰まる。
バスが事故する。だから乗っている人――おばあさん――は死んでしまう。
早く伝えないと。引き止めようと伸ばした手。
「ありがとう」
おばあさんは僕の手を握ってそう呟いたが、バスからは降りなかった。
バスは行ってしまった。おばあさんを乗せて。
――何も言えなかった。
僕はただ、走り去ったバスを呆然と眺めていた。
僕が殺したと言っても過言ではない。
僕はどうすれば良かったんだ。
おばあさんは『ありがとう』と、それだけ言って行ってしまった。
「何がありがとうだよ、……訳わかんねぇよ」
口では否定しても僕には察しがついていた。
おばあさんも知っていたのだ。
だから僕に言わせなかった。
自分の死が分かっていて尚、それを天命と受け入れたんだ。
何の為に? もちろん決まっている――
ああ、もう忘れよう。彼女が待っている。
バスで行く事は諦めた。もう乗りたくもない。幸い、学校までは歩いても行ける距離だ。
最初に彼女に出会ったのもこの道だった。その日は少しばかり早く家を出たのだ。時間に余裕があったから歩いて学校に向かった。
僕から彼女に声を掛けた。晴れの日に雨傘をさしている彼女に興味を惹かれたのだった。
どうして傘をさしているのか聞くと、確か彼女は雨が降ると思ったのにと言ったのだ。よく話を聞けば、折角傘を用意したのにささないのは癪だからだと分かった。真面目な顔をしてそんなことを言うのだから可笑しくて、僕は笑った。彼女も傘を揺らして笑った。
傘の下は不思議な空間だった。彼女と僕は周りから切り取られ、お互いだけを見ていた。彼女とは初対面なのになぜか落ち着いたのを覚えている。
二度目に彼女に会った時には、彼女の雨傘は目印として役にたった。その日もまた晴れであった。
彼女は初日とさして変わらない言い訳を口にしたが、本当の所は違うのだろう。
もしかしたら僕と同じように、傘の下に不思議な居心地の良さを感じていたのかもしれない。確かめる術は無いけれど、なんとなくそんな気がする。
それからというもの、僕は彼女と色々な場所で集合する事になったのである。場所は毎回、彼女の気まぐれで決まった。お互いはっきりと口に出したことは無いが、デートだったと思う。
初めてのデートの時は初めて見る彼女の私服姿にドギマギした。制服姿での落ち着いた感じから一転して、彼女は可愛らしい雰囲気だった。僕ももう少しファッションを考えれば良かったと後悔した。
それまでとは違う明るい感じの傘の下で、彼女が『遅いよ。待ったんだから』と言って頬を膨らませたのを覚えている。
彼女とのデートには少しずつ変化があった。例えば僕の服装。彼女と一緒に居ても恥ずかしくないくらいには、ましになった。
他には飲食店のこと。最初は見栄を張っていたが、僕のお財布事情でファストフードが多くなった。彼女には申し訳ないが、あんまり余裕は無かったからしょうがない。
あと彼女が傘をささなくなったことだな。大体一ヶ月前からだ。傘を持つ代わりに、彼女は僕の手を握った。彼女の手は柔らかくて小さくて、そして温かかった。
何やら辺りが騒がしい。人々は足を止めている。喧騒の中、彼らが見つめる先は一点。道路の真ん中でバスが盛大に燃えていた。
あのバスだ。僕が乗ることを止め、おばあさんがそのまま乗り続けたバス。やっぱり事故は起きてしまったのか。
僕はそれに引き寄せられていった。あれほどの火だ。万に一つもおばあさんは生きていないだろう。おばあさんは死んだ。
燃え盛るバス。放射熱で肌から多量の汗が溢れ出す。視界には既に炎の紅色しか無い。
火の花が不規則に揺らぐ。時折炎の隙間からバスの中が見える。僕の目はおばあさんの姿を探して、そして――見てしまった。何かを大事そうに抱き抱えたまま動かない小さな人影を。
バスは数台の車を巻き込んで燃えていた。バスの炎は近くの車へと燃え移っていた。車の主は無事なのだろうか。
そんな心配をした刹那、爆発が僕を巻き込んだ。車のガソリンにでも引火したのだろう。僕はあまりに近づき過ぎていた。
何やら辺りが騒がしい。もう知っている。何が起きているのかは。
なんとも形容し難い気分になる。僕は、僕は忘れようって思っていたのに。僕はおばあさんの名前すら知らないのに。
どうして――
バスを指差す人が僕の事を嘲っているように見えてしまう。
僕だけが場違いなように感じた。周りの人達と僕は違う種類の人間なのだと言い聞かせた。
それだけでは足りなかった。雑念を振り払う為に、僕は走りだしていた。
爆発音も人々の喧騒も後ろに過ぎ去る。
ああ、もう速く学校に行って、彼女に会って、全てを忘れてしまいたい。
彼女ならきっとこう言ってくれるだろう。
『忘れちゃいなよ。全部さ。ちょっとでも覚えていれば充分なんだよ』
早くその声が聞きたい。その肌に触れたい。ああ、彼女に会いたい。
彼女はよく矛盾していた。口を開けば閉じるまでの間に自己矛盾する。そんな器用な事がしばしばあった。聞けば意図的では無いらしい。
かといって二重人格というわけでもないようだ。もしかしたら同時に2つの視点から物事を考えていたのかもしれない。
だが、その2つの言葉は根源を辿れば同じ物――彼女の心――へと帰結する……のだと思う。
それは彼女との時間を重ねる内に、薄々分かってきた事だった。
もう彼女と出会ってから一年近くになるのだ。そう思うと中々に感慨深い物がある。
地面の凹凸に足を取られた。無様にこけた僕の膝に血が滲む。
頭がクラクラする。何とか立ち上がり、立ちくらみを腰に手を当てて耐えた。どこからか人の怒声が聞こえるが、何を言ってるのか解らない。
立ちくらみが去った時、目の前には中年の男が立っていた。
不気味な笑みを浮かべた男から顔を背けるように目線を下に落とす。
僕は目を疑った。生理的反射で体が強張る。
鈍く光るそれはナイフ、それも俗にサバイバルナイフと呼ばれる代物であった。
男は右手に握ったサバイバルナイフを無造作に僕へと突き刺した。
唐突すぎて理解が追いつかない。
焼けるような痛みは一瞬だった。
後はただ噴水のように吹き出す血飛沫を見て、そして凍えるような寒さを味わうだけだった。
目の前には中年の男が立っていた。
何なんだこの人は。どうして僕を殺すんだ。
分からない。分からないがとにかく距離をとろう。
そう僕が距離をとろうと体を引いた瞬間、サバイバルナイフが脇腹を刺した。
焼けるような痛みと共に、目の前の男に対する怒りが沸き起こる。
僕はまだこんな所で死ぬわけにはいかないんだ。絶対に。
「へへっ……みんな死んじまえばいいんだ。俺の道連れにしてやるよ。ざまぁみやがれってんだ……」
男はそんなことを叫んだ。
道連れ?
なんだそれは。そんなことで僕を?
僕の邪魔をするというのか。
その理不尽さに僕の怒りは爆発した。
「僕の、邪魔を、するんじゃねぇよ!」
男がびくりと震えた。怒りに身を任せ男の鳩尾を蹴り飛ばす。躊躇は全く無かった。
うずくまった男の頭をさらに蹴ると男は動かなくなった。
脇腹が痛む。服が赤く染まっていく。
急所はそれたみたいだが、それでも無視出来る量の出血ではない。学校に着く前にでも失血死できるに違いない。
気持ち悪いが、しょうがない。男の服を引き裂いて包帯がわりにした。
この際、清潔かどうかは二の次だ。
包帯の巻き方は彼女に教わった。
つい最近、彼女と海岸に行った時だ。海岸とはいえ、砂浜ではなく岩場の方だ。
僕達は水溜まりのようなところの魚を見たりして過ごしていた。彼女は生き物が好きらしい。
前日に雨が降っていたため、足場は悪かったが、彼女は器用に両手を広げてバランスをとりながら歩いていた。
それに対して僕は何度も足を滑らせた。
寒いからと厚着をしてきたのが幸いして、たいてい怪我は無かった。
しかし、ついに僕は盛大に足を滑らせ、掌を切ってしまった。
僕は赤黒い血の色にパニックになっていた。対して彼女は冷静だった。
彼女は手馴れた手つきで、手当てをしてくれた。
ハンカチを使っていたが、無い時は服等を割けば代わりになると言っていた。
彼女に教わったとは言ったが、実は見よう見まねだった。現状この時の記憶を頼りにするしか無かった。
手当てもそうだが、彼女は手先が器用だった。特に化粧の技術には目を見張る物があった。
多分彼女が本気を出したら、僕は彼女だと分からないのではないかとさえ思っている。
彼女は特殊メイクまで出来るらしい。
ハロウィンの日、僕をフランケンシュタインにすると言っていた。
意外と乗り気な彼女を止めるのは大変だったな。
早く、行こう。彼女が待っている学校に。
走る事は出来ないけど、それでも。
僕はまだ歩ける。
雨が降ってきた。脇腹の辺りの服がピンクに変色していく。傘なんて無いからなすがままに濡れていく。
この季節の雨は冷たい。
雨は僕を阻もうとしているかのように激しく、無慈悲に僕の体温を奪っていく。
どこからか聞こえる鐘の音がとても無機質なものに聞こえた。
突然の落雷。
なぜか開いていたマンホール。
僕を狙ったかのような居眠り運転。
車が割ったガラスの破片が幾つも突き刺さった。
それでも僕は学校に辿り着いた。
美術室から侵入する。
美術室――被服実習室の隣、1階の端から2番目の教室だ――の窓ガラスの1つは鍵がかかっていない。『窓枠が曲がっちゃったんだよ』なんて他人事のように彼女は言っていた。
実際の所僕は、彼女がやったのではないかと疑っている。ただの勘だけど、学校に入るためにわざわざ……という可能性を否定できない。彼女はそういうことに躊躇が無い。
外とはうって変わって静かな校舎。
僕の足音だけが響く。
血を流しすぎたのか足元がおぼつかない。
手すりを頼りに階段を上る。
校舎は4階建て、鉄筋コンクリート。
無機質な床に僕の足跡、それと血の雫が残る。
そういえば学校で彼女と会った事は無かった。僕と彼女は学年が違うからというのもあるのだろうが、凄い偶然だ。
じゃあ放課後はどうかというと、僕は部活があるから報われない。
脇腹が痛い。体に突き刺さったままのガラス片が原因か。気の遠くなるような痛みに悶えがら、気の遠くなるような量の階段を上る。
『女の方が痛みに強いんだって』
いつだったか、彼女の言っていた言葉を思い出した。
僕は弱い。こんな風に現実から目を背けながらじゃないと、一歩も進めないくらいに。
彼女なら耐えられたのだろうか。それはそれで悲しくなってくるけれど。
途切れてしまいそうな意識を必死で繋ぐ。
まだ僕は死ぬ訳にはいかない。彼女が待っているから。
僕は既に意思の力だけで前に進んでいた。
無限に続くかと思えた階段も、遂に終わりを迎えた。
屋上への扉を開け放つ。
雨が温かかった。
広々としたこの空間。
僕が目指すのはその先だ。
彼女を辿るように一歩、また一歩、選びとる。
今、この瞬間、僕は確かに進んでいるのだ。
生きて、生きて、生き続けて、僕は今、ここにいる。
彼女に会うためだけに。
――雨が止んだ。
地上には赤い花が咲いていた。
彼女らしい。
彼女も美しいものが好きな女の子なのだ。
ほんと、可愛いな。
泣けてきちゃいそうなくらいに。
風が背中を押す。
僕はそれに乗り屋上から、彼女の元へと飛び降りた。
二人、一緒だ。
ずっと、ずっと。
これから先。
だって寂しいじゃないか。
僕より先にいってしまうなんてさ。
風が背中を押す。
最後までこうなのか。
それもまた彼女らしい。
僕の答えは変わらないというのに。
燃えるような赤い花の中――僕達は眠る。