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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ホラー短編

影絵の女

作者: 時永めぐる


 月の明るい夜、必ずそれは現れる。


 それがいつから始まったのか、男はよく覚えていない。

 高等学校へ通っていた頃にはついぞ体験したことがないのだから、おそらく帝大を卒業してこの家へ戻って来てからのことであろうと検討をつけている。


 きぃ、ぎぃ、きぃ……


 気が付かなければ気にならない、だが一度聞こえてしまえば耳に残る。そんな微かな音が男の耳を苛む。

 初めはその音が聞こえるだけだったのだ。どこかの戸が風で軋んでいるのだろうと意識の外に追い出してしまえば、眠ることだって出来た。

 しかし、彼はすでに知ってしまっている。その音は単なる始まりでしかない。音を無視して寝入ってしまうには、何度も怪異に遭い過ぎていた。

 男は小さなため息をひとつついて寝返りを打った。

 今夜も怪異が来ると知った彼は、今日こそは見まいと固く誓って障子に背を向けて寝たのだ。

 それがどうだ。彼は今、何かに呼ばれたようにそちらを向いてしまった。


(しまった)


 我に返ってそう思っても、もう後の祭りだ。体が言うことを聞かない。

 障子の向こうは昼のように明るい。

 大きく育った庭木の枝が微風に微かに揺れ、そのたびに障子に映った影がざわりざわりと蠢いている。

 その様子をじっと見つめる男の顔は半ば掛布団に隠れているのだが、目だけが月の光を反射してきらきらと輝いている。男は息を殺して障子を見つめ続ける。


 ぎぃ、きぃ、きぃ……


 微かな音はまだ続いている。


(見たくない。もう何も見たくない)


 切実にそう思うのに、その反面、心のどこかがそれを心待ちにしているらしく目が逸らせない。

 男はこの怪異に遭うたび己の心持ちが分からなくなり混乱する。


(私はいったい何を思っているのだろう)


 ぎぎぃ


 規則正しく聞こえていた音が、不意に乱れ、物思いにふけっていた男はハッと我に返った。

 庭木の影ばかり映っていた障子に影が増えていた。

 男の髪がゾッと逆立った。全身に鳥肌が立ち、胸がきゅうと冷え、首筋がちりちりと痛む。

 人らしき影がブラブラと揺れている。だらりと俯いた頭部。同じく力なく揺れる手と足。首のあたりから上に伸びた細い影が梢と繋がっている。


 きぃ、ぎっ、きぃ……


 人型の影が揺れるたび、微かな音が響く。

 逸らしたいのに縛られたように逸らせない視線、動かしたいのに動かない体を持て余し、荒く乱れた呼吸に息苦しさを覚えながら、彼は悟る。

 目を逸らせないのではなく、逸らしたくないのであり、動かないのではなく、動かしたくないと思っていることに。


(ああ、やっぱり今日も女だ)


 風に嬲られて回る体。ちらりと見えた帯の形に、男は確信した。

 腰まで伸びた髪が風にゆれ、着物の裾が時折めくれる。

 影である。なのに、男はそこに生々しい劣情を覚えて眩暈を起こした。


(あれはこの世のものではない。なのに、私はなぜ)


 己ですら分からない感情の動きに男は戦慄し、そしてそのまま意識が眠りの闇に落ちていく。


(あの影の女にこんなにも甘く惹かれるのか――)






 翌朝、目覚めれば当然のごとく中庭の大木に首吊り死体などぶら下がっていない。これまでの経験で分かっているはずなのに、怪異に遭うたび男は確認せずにいられない。

 木の枝に縄の痕がないか、地面に奇妙な染みはないか。

 そうしてすべて確かめて、あれが幻であったことを知り、半ば安堵、半ば落胆のため息を零すのだ。

 男の家はいわゆる旧家と言われる家であった。江戸の昔にはその地を治める藩主の御殿医を代々務めたと言うのだから、古い家系である。

 先々代の当主は先見の明があったのか、御一新ののち、いち早く西洋風の病院経営を導入し、それで更なる財を成した。その財を元手に手広く事業を起こし、先代――つまり男の父の代になる頃には、かの家の当主は『医師』ではなく、完全に『経営者』となっていた。

 その当主も今では男の兄に代替わりしている。

 急に興った家は三代で没落するとも言われるが、彼の兄は先代、先々代と並んで何ら遜色のないやり手で、今のところ更に勢いを増しこそすれ、没落するような陰りは一つも見当たらなかった。

 そんなわけで、次男坊である男は兄の仕事の手伝いをしはするがそれほど忙しいわけでもなく、いかにもごく潰しと言われかねない生活を送っている。

 母屋には年老いた母が、そしてこの離れには男がひとりで住んでいる。家の使用人はほぼすべてが通いの者であり、この家の朝は静まり返っている。

 通いの者が揃い、朝食が出来たと誰かが呼びに来るまで、男には特段することもない。

 日の当たる縁側に出て、昨夜女が首を吊っていたはずの大木をじっと眺める。


(あの女は、誰なんだろう?)


 過去にこの木で首吊りでもあったのかと思い、それとなく探りを入れてもこれと言ってめぼしい話はなかった。

 使用人たちは母や兄に言いくるめられて口を割らないのではないか。そう疑ってわざわざ旅行中の人間を装って隣町あたりで噂話を強請ってみても、これまた興味を引かれる噂には出会わなかった。

 数か月、あれやこれやと思索したが思うような結果は得られず、その時点で追及は諦めた。だが、怪異に遭うたび性懲りもなく女の身元を考えてしまうのは、解明しきれなかった謎への未練なのだろう。

 それを割り切ってしまえば、残る興味は……


(あの女はどんな顔をしているのだろう?)


 その一点に尽きる。


(次に怪異とまみえる時は、怯えるのではなく暴きに行こう)


と決意した。






 次の怪異は予想より早く訪れた。

 二日連続で雲一つ見えない月夜となったのだ。

 男以外誰も寝起きをしていない離れはしんと静まり返っている。昨夜と違って風もなく、葉擦れの音も、梢が軋む音も聞こえない。

 男は早々に床に入り、女の影が障子に映るその時をじっと待っていた。

 ほどなくして、耳慣れたあの音が聞こえてくる。


 ぎぃ、きぃ、ぎぃ、きぃ、きぃ……


 男は息を飲んだ。微かに鳴る音は段々と鮮明になっていき……


 ぎぎぃい


 ひときわ大きく軋んだ。

 と同時に、女の影がいつも通りに増えている。左右に振れながら、ゆっくりと回る肢体。音の鳴りはじめから女が姿を現すまでの時間が短い気がしたが、男はそれすら誘われているように感じる。

 ゆっくりとした動作で布団を抜け出し、障子に手をかける。そのまま引き開ければ良い。なのにそこで一度躊躇が生まれた。


(ここを開けたらあの女はどうするのだろう? 消えるのか、それともそのままそこにぶら下がり続けるのか)


 男は一気に障子を開いた。


 月明かりの下、女がいた。椿の女、だった。

 色は定かではないが黒っぽい地に大輪の白椿が咲き誇る着物が、男の目を射る。

 障子に描かれた影絵が映し出す通りの姿で、そこにだらりとぶら下がっていた。

 ゆらりと揺れるたび、ぎぃ、と縄が軋む。

 黒く長い髪が垂れ、顔は見えない。ただ、手の甲の肌が月光の中、輝くように白かった。


 男は憑かれたようにゆっくりと女に近づいた。

 ぎぃ、と軋む音ごとに一歩、また一歩と歩を進める。

 月明かりでも顔が見えるほど近づいたと言うのに、髪が邪魔をして見えない。

 

 と、一陣の風が吹いた。

 それは女の着物の裾を少しめくりあげ、艶めかしく白い足首を暴くと共に、髪を煽り女の顔を露わにする。


 間近で見た男は、正真正銘腰を抜かした。

 悲鳴の一つも上げること敵わず、ただ無言でそこにへたり込んだ。

 

 吊るされた女は、男を見下ろす。


 苦悶に歪み、捻じれた顔で。

 半ば飛び出たままの、ビー玉のような黒い目で。


 人のものと思えないほど長くたれ下がった舌。

 それをそのままに、女の口がゆるゆると笑みの形に吊り上がった。


 飛び出た目玉がぎょろりと一回転して、また男をじっと見つめる。


 ぎぃ、きぃ、ぎぃ、きぃ……軋む音に、くぐもった音が混じる。


 きぃ、ぎぃ、ぐぅ、ぐっぐぐぅ、ぎぃ、きぃ、ぐぅ……


 その音の正体が、女の哄笑であったと気が付いた時、男は意識を手放していた。






 翌朝、中庭で意識を失っているところを発見され、ちょっとした騒動になった。

 秋も深まる頃だったため、あまり体の強くない男は軽い肺炎を起こして寝込む羽目に陥った。

 末子である男を溺愛する母の心配と、根なし草の如き弟を忌々しく思う兄の思惑が絡み、『そのような自堕落な生活は独り身であるがゆえのこと、嫁を貰え』とそういう事になった。

 話は男のあずかり知らぬところで進み、ようやく床上げが済んだと同時に男は母親から結婚相手であると言う女の身上書やら家系図やら家族書やらを押し付けられることとなった。

 断わる理由もない男は、兄と母の決めた縁談に逆らうこともなく、半年ののち男は妻を娶ることとなった。


 庭で倒れた夜以来、怪異は起きていない。

 安心して眠れる日々を愛おしいと思う反面、男は奇妙な物足りなさを感じていた。

 そう言った時は、決まって思い出すのだ。

 あの夜の、あの女の顔を。

 一つ一つを指でなぞるように丁寧に思い出して、そしてあの顔が生前どんな風だったのかを夢想する。

 絶世の美女であったのか、それとも醜女(しこめ)であったのか……






「あなた。――あなた? ねぇ、あなた」


 呼ばれて男は我に返った。


「ああ、すまない。少しぼうっとしていたようだ」

「まぁ、変なかた」


 詫びる男に、彼の新妻はころころと鈴のような声で笑った。


「君が綺麗なのが悪いんだよ」


 日の当たる明るい縁側で縫物に精を出す妻は「冗談が上手くて困るわ」と更におかしそうに笑う。

 その隣に座りながら男は「冗談なんかじゃないさ」と切り返す。

 彼の妻は、世辞が要らぬほどに美しく、そしてまた気立ても良かった。

 新婚らしい仲睦まじい会話を続けながらも、妻は縫物の手を休めない。


 その姿を隣で眺めながら、男の目から笑みが消えていく。

 代わりに何かどす黒いものが眼差しに浮かぶ。

 男はそんな目のまま、妻のうなじをじっと見つめていた。


(あの細く白い首に縄が食い込んだら、どれだけ美しいだろう)


 男はその光景を夢想する。月明かりの下、縄が肉に食い込むその様子を。


(この美しい顔はどんなふうに歪むのだろう)


 男は、こきり、と小さく音を立てて折れる骨の音を幻聴する。


(あの女のように、目を剥き、舌を垂れ下げたその顔は……?)


 男の顔に、恍惚ともいえる微笑が浮かんだ。

 いつ彼女を手に掛けるのかと恐怖に怯えつつ、だが、男にはその日を夢見てときめく己を止める術もない。


 あの怪異に遭った時から、男は囚われていたのだ。


 あの影絵の女に。


(ああ、あの女のように(くび)れた妻を見てみたい――いや、私はきっと彼女を手に掛けるのだろう)


 無邪気な笑みを返す新妻に微笑み返しながら、男の胸には(くら)い昏くらい欲望が広がっている。






 ――ああ、そうだ。冬になったら椿の着物を贈ろう。臙脂(えんじ)に白椿が大きく描かれたものが良い。

 きっと君の白い肌がよく映える……





最後までお読みくださいまして、誠にありがとうございます。

自主催企画『秋彼岸ホラー短編企画』参加作です。

他の参加作品は“秋ホラー企画”でタグ検索をしていただきますとご覧になれます。


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