伍
朝の病室。
ベッドの上の語辺と、傍らの丸イスに座る僕、そして反対側に座る朱理さん。
それ以外には誰もいない。
「語辺、意識はあるんだろう?辛いかもしれないが聞いてほしい。朱理さんも、突拍子もない話かもしれませんが、聞いてください。語辺家の呪縛を緩める、その立会人として」
さあ、種明かしを始めようか。
卍
戦争が始まる27年前、語辺家に人柱の子が生まれた。
商業という家業から、他を蹴落として生き延びてきた語辺家には有り余るほどの恨み、妬みが募っている……と考えた当時の当主が、その怨念をまとめてなすりつけるための人柱を作ったのである。
それが、語辺 日向。
彼女の真名は日向、仮名も日向。
当主の思惑通りというかなんというか、真名という魂を晒された日向は、幼少の頃から不幸体質を背負わされ、その身に余る呪いを受けた。
それでもなんとか生き延びた彼女が当主になったその年、戦争が起きた。
人柱のことを何も知らない日向は、優しくしてくれた先代当主を無垢に信じ、感謝し、先代の守った語辺家を守り抜こうと走り回った。
不幸だった日向に優しくしてくれた先代は、彼女にとっての救いだったのだろう。その優しさが人柱に向けた慰めだったとも知らずに。
日向は無理を押し通して戦争から一家を遠ざけ、ついに終戦まで守り抜いた。
当然、戦争の被害者たちは日向を妬み、恨む。
知らずに真名を明かしていた日向は、為す術もなく呪いをかけられ尽くしたあげく、その呪いを受けきれずに呪い殺された。
有り余った呪いは、日向の恨む語辺家の男性陣を襲い、少しずつ消化されていった。
長い長い時が経ち、一人の女性が生まれる。
読書家の性質から、東洋術学の知識があった彼女、語辺 救得は日向事件の真相に気づき、その呪いを消す方法を思いついた。
そして生まれたのが第二の人柱にして第二の日向。語辺 知夏だ。
救得は知夏の真名をかつての人柱と同じく日向にし、大切に育てた。
知夏の真名を鳥籠に閉じ込め、外部から守った。知夏の存在を消してしまうほどに強く、堅く。
そもそも救得の狙いは、消してしまうことにあった。
知夏と日向、二人の共通する真名を篭の鳥として閉じ込め、知夏に残りの日向の呪い全てを抱かせたまま、呪いごと因果的に消滅させる。語辺 知夏は最初からいなかったことになり、日向への怨念は知夏と共に消え去る。
救得の思惑通り、檻の中で知夏の存在は日向への呪いを道ずれに消失するはずだった。
実際、呪いごと知夏は消えかけた。もう少しで救得の望みは叶えられた。
が、邪魔が入った。それが僕だ。
檻の呪が解けたことで、知夏は日向と同様、呪いを身に受け、衰弱死する未来しかない。
救得は確かに知夏を守ろうとはした。
だがそれは人柱として呪いを消すためのことだったのだ。
これが、日向事件と知夏の呪いの真相である。
卍
朱理さんが僕の話を全部理解したかはわからないし、多分半分くらいしか信じてはいないだろうけど、それでも現語辺家当主の彼女は僕が"治療"を施すことを許してくれた。
大きな改変を施す方法だが、僕ごときに成せる救いはこれが限度だ。
やっぱり祖母のようにはいかない。
未熟な僕には、真相を解き明かし、辛い現実を背負わせて、おまけに魂を晒すという禍根を残しまくるやり方しかできない。
祖母ならどうしただろうか……。
あの人はどこまでも、僕には追いつけない人だから。優しい嘘をついて、誰にも悲しい思いをさせずに終わらせることができたかもしれない。
何度も言うが、未熟で凡才な僕にはできない。
だからせめて、いいわけがましいけれど、僕は僕なりのやり方で納めようと思う。
かっこ悪いい言い訳はこれくらいにして、始めようか。
真名や血筋といった類の絆は、言霊の霊力において大きな意味を持つ。
まず、知夏が日向と同じ血筋を分けていること、そして同じ真名を持つこと――この二つが彼女を苦しめる最大の鍵だ。
どちらかを崩せば、彼女の呪縛は解けるはずだ。
だが、知夏から語辺の血を取り除くのは不可能。
なら、崩せるのは真名の方のみとなる。
元来、真名は魂に刻まれる、特別な名だ。
言霊師の力なら融通できるとか、そんな簡単なものではない。
だからこの方法には、強い念、繋がりの血、そして儀式という形式が必要となる。
「朱理さん、知夏さんを助けたいですか?」
朱理さんは微笑んで、
「この命と引き換えにでも」 僕はポケットから白黒の折り鶴を取り出し、開いた。
日向の文字が濃く、強く刻まれている。既に強い念が込められた、この真名を使う。
そしてもう一つ。こっちは人道的な問題だ。
無くてもいいこと。だが、絶対にあった方がいいこと。
「この方法を使えば、僕が知夏さんの真名を必ず知っていることになります。それでも……」
「大丈夫。高天原くんはそんな人じゃないわ」
信頼、それもまた素晴らしい言霊。
「では……大変申し訳ないですが、朱理さんと知夏さんの髪を一本ずつ僕に下さい」
朱理さんは何も言わず、カバンから出した小さなハサミで、自分の髪と語辺の髪を一本だけ切った。
「ありがとうございます……」
ここからが僕の仕事だ。
あの筆を握る。おばあちゃんの筆、言霊師の霊筆。
墨はいらない。
この筆は、墨では書けないものを書く。
赤の他人の僕が、語辺 知夏の真名を動かすのに必要なのは、強い念。ただがむしゃらに強い念じゃなくて、語辺に向ける真っ直ぐな念。
消えかけた語辺に出逢って。偽善的に救っ救ったつもりで。
彼女に余計重荷を背負わせて。
その上さらに重い真実を突きつけて。
その場しのぎにしかならない救いをまた与えようとしていて。
だけど僕は、彼女に向き合う覚悟と強さをもらって。
泣いて、笑って。
そして……そして彼女を……楽にしてあげくて――。
「筆…が…」
目を閉じている僕には見えないが、朱理さんは気づいたのだろう。
筆が、筆の内側から黒く濡れていく。
内面から溢れ出す、感情と言霊の塊の象徴。
目を開けて朱理さんと知夏の髪を筆先にあてると、髪は筆に吸い込まれ、墨をさらに深い黒に染めた。
準備は整った。僕にも、できることがある。
そういえば……知夏が倒れる前日、彼女の悩みを聞いた。
女子の中では背が高くて嫌だと。ヒールを履いたら僕よりも高くなってしまうと。誰かの隣で歩きにくいと。
「どんな名前がいい?」
問いかけながら、筆を下ろす。
僕は、思い滴る筆を走らせた。
日向の上に一文字加えて――
「君の名は――
小日向
知夏は少しだけ目を開けて、たった一言
「素敵」
そう言って目を閉じた。
微かに口元が笑っていた。