參
知らせてくれたのは夏和歌だった。
「語辺さん、倒れたらしいじゃん。大丈夫かな」
「語辺が倒れた!?」
色の戻った語辺は、よく笑うようになった。
教室の隅にいてもしっかりと存在感を放ち、性格上活発ではないものの、不思議な雰囲気を持つ少女へと変わった。戻った、というのが正しいかもしれない。
そんな語辺 知夏が昨夜、かなりの高熱を出して倒れたというのである。
「意識不明の重体らしいよ?」
「どこの病院に!?」
「んと豊崎十字……じゃなかったかな」
「ありがとう夏和歌!先生には早退したって言っといてくれ!」
「え?あ……うん、わかった」
意識不明の重体……何が大丈夫だ。全然大丈夫じゃないじゃないか!
僕は豊崎十字病院の位置を頭の中の地図で確認した。
卍
「変わったね」
夏和歌はぞっとするくらい冷たい声で言った。
「変わったね、姓くん」
姓が出て行った扉を見つめて、微笑んで言った。
「変われたね」
俯いて、静かに言った。
観客とヒーローの境界の一線を、彼はやっと踏み越えた。
「でも、あたしじゃなかったね」
足元に水滴が落ちる。
「あたしには変えられなかったね」
夏和歌は静かに目を閉じる――。
卍
「朱理さん!」
「あら高天原くん」
病室の外で会った朱理さんは気丈に笑った。
それでも感情を隠しきれない様子で、
「場所を…移しましょうか」
そう言った。
「知夏……ちぃは例によって例のごとく、原因不明の高熱だそうよ」
朱理さんの実年齢はわからないが、だいぶ若々しい。
肌にはツヤがあるし、正統派美人といった感じだ。
「お医者さんには……保って二日だと」
二日……あまりに短い。虫の息、風前の灯火。
「あなたには感謝しているわ。あなたが家に来たあの日から、ちぃは前よりずっと明るくなった……。
きっとわたしが面倒を見なかったツケが回ってきたのね…」
「知夏さんの面倒は…」
「ええ、おばあさまが見てくださったわ」
朱理さんは俯いて拳を握り締めた。
「そういう部分にも負い目を感じていたんでしょうね。わたしはおばあさまとは仲が悪かった。そのせいであの子にも随分迷惑をかけた……」
嫁姑の仲が悪いというのはよくある話だ。娘、孫が絡むと尚更。
「ちぃは苦労してきた分、幸せにならなきゃいけないのに……」
朱理さんの頬に涙が伝う。
僕には彼女を慰められなかった。
なんの覚悟もなしに、その中へ踏み込むのが怖かった。
「ごめんなさいね、こんな話……。後で会ってあげてね。きっとちぃも勇気付けられるわ」
朱理さんは気丈に立ち上がると、
「ああそうだ。あの子、意識がなくなる前、しきりに鶴の中身をあなたに伝えてって言っていたけど……」
「鶴の……中身?」
そこには語辺の真名が刻まれているはずだ。
他人の真名を知ることは、つまりその人の魂を掌握することと同義となるため、僕はそれを見なかった。
語辺自身がそれを確認したかどうかは不明だが、それについて彼女はしばらくは見ない……と言っていた。
……何か…あったのだろうか?
「朱理さんは……真名というものをご存じですか?」
「真名……?ええ。魂の名前という考え方よね」
「はい。では知夏さんの真名をご存じですか?」
「ええ。でも……」
朱理さんは困った表情をした。
「ちぃの真名はおばあさまがつけたはずよ」
この物語、僕は最初からシナリオを読み間違えていたようだ。
卍
根本的な解決方法はきっと、語辺の家に行かなければ見つからない。
色を取り戻したせいか、朱理さんから絶大な信頼を得た僕は、語辺のいない語辺家にお邪魔した。
「こんな時だからこそ、笑わなくちゃだめよね」
「はい」
再びおばあさまの部屋へ案内してもらう道中、朱理さんは頑張って笑おうとしていた。
「じゃあ高天原くん、何か面白いことを言ってください」
「はいっ!?」
ハードル高すぎる!そんな期待のこもった目で僕を見るな!
「…………すみません、無理です」
「そうですか……明るい話……」
じゃあ……とにこやかに朱理さんは笑うと、僕の得意科目を聞いてきた。一応言霊師の孫であるし、国語が得意だ。
「へー、文系人間かぁ……」
「朱理さんは理系ですか?」
「ええ、数学が得意なの!」
楽しそうに語る朱理さんは、本当につらいことを忘れているように見える。見せている。
「数学の祖にピタゴラスって人がいるでしょ?あのプィトゥアグォルァスイッチの名前の由来となった……」
「著作権かなんかを気にしてるのか知りませんけど、怖いですよ。それ」
「あら、そう?じゃあ三平方の定理を見つけた……」
「ああ、はい。ピタゴラスは知ってます」
「数学を、神に与えられた完璧なものだとしていたピタゴラスの、弟子の一人がある日、無理数の存在を見つけてピタゴラスに報告したの。そしたらピタゴラス、何をしたと思う?」
「えっ……と、その研究に没頭したとか」
「弟子をぶっ殺して口封じして、数学は完璧ですって言い続けたんだって。うふふ、ぶっ飛んでるわよねぇ♪」
「…………」
朱理さんの目が危ない。
「あ……いけないいけない、明るい話だったわね。明るい話……」
正気に戻った朱理さんは、そういえば……と言って再びにっこり微笑み――
「わたし、子どもが欲しいの」
は?
「ちぃ、このままだと一人っ子でしょう?弟妹がいれば寂しくないし……」
「あの……朱理……さん?」
「でも夫はもう逝ってしまったし……。あんまり男の人には関わりが無いから……」
「おーい、朱理さんってば」
「せっかくの機会なんだから。まあ、なんて名前にしましょうか。男の子だったら……」
いや、きゃっきゃうふふじゃなくて……。
別に嫌とかそういう問題じゃなくて人道的にあり得ないしそんなことしたら僕は知夏さんに潰されそう――。
「ちぃは高天原くんのこと、パパって呼ぶのかしら」
僕の記憶はここから10分後に飛んでいる。
その間何があったかは不明だが、朧気に、朱理さんが冗談はさておき……と言ったのに対して、僕が当たり前だのなんだのとわめき散らして朱理さんを正座させるという幻覚を見た気がする。
気のせいだということにしてほしい。
卍
一人、語辺おばあちゃんの部屋再び。
名を、語辺 救得という。
当主の名前が刻まれた厚い本、語辺歴頭の最後のページに、その名が刻まれていた。
功績は特になし、特異点もない。
一言、《日向に救いを》と書き記してある。
知夏の高熱は恐らく日向への恨みによるものだ。
だが、歴代の語辺の中で女性が呪いを被る例は知夏が初めてだ。
語辺歴頭にそのような記述はないし、救得も朱理さんもそんなことにはなっていない。
なぜ、知夏だけ…?
……足りない。情報が。
整理しよう、必要な情報はなんだ?
語辺 日向について、語辺 救得について、語辺 知夏について。
僕の推測が正しければ、救得に関しての情報は必要ない。
では……?
手がかりは朱理さんに聞くしかないらしい。
ある程度語辺邸の構造を理解し始めた僕は、迷いそうになりながらも朱理さんのもとへと向かった。