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例えば小説のネタにするために異常犯罪者に関する書物を読んでいると、己の中にも共通する性質を見つけて不安になることはないだろうか。だから異常者の心理を描くことが出来るのではないかという杞憂に囚われることも……『杞憂』だ。
異常病質の代表格のように言われている偏執病。これをwiki先生に尋ねれば、そこにいくつかの特徴が書かれている。
被害妄想
挫折・侮辱・拒絶などへの過剰反応、他人への根強い猜疑心。自分は特別で何者かに監視、要注意人物と見られていると思う。
誇大妄想
超人、超越者、絶対者という存在へと発展する。
激しい攻撃性
誹謗中傷など。弱肉強食というような考えで弱者に対して攻撃的である。
自己中心的性格
自分が世界の中心ではという妄想で絶対者ではないかという妄想。
異常な独占欲
独占欲は多数から100%に向かう。独裁者的な妄想を持つ。
悪魔主義
悪魔的なものに美しさを見る。
はっきり言おう。そんなものは大なり小なり誰にでもある。
若い奴らは挫折と被害妄想に囚われてふらふらと悩むものであるし、その根底にあるのは自分には何らかの才能があるのだと信じたがる、そんな優越感である。また、激しい攻撃性による誹謗中傷なんてオバチャンたちの得意分野だし、自分の存在を中心に周囲の状況を認識するのはごく当然の感覚ではないか。
特に創作するものは独占欲を前面に押し出して恋愛物を書くのだし、悪魔的な造詣は装飾品などにも取り入れられて市販もされているのだから、わからない感覚ではないだろう。
だが、狂人たちは……いや、我が家の狂人としか接したことがない俺が全体を語るは間違っているだろう。彼を『狂人』たらしめているのは、現実がファンタジーであると言う世界観である。
我々は現実に生きている以上はそのしがらみから逃れることが出来ない。人を殺せば捕まるし、嫉妬のままに誰かを追い回せばストーカーと呼ばれるだろう。その全てが現実と言う実感を持って自分の身に降りかかることを知っている。
もちろん彼もそのことを知ってはいるが、全ては舞台の上で演じられる物語のごとく、主人公に降りかかる艱難辛苦の一つとしか捉えられないのである。ゆえに我々が躊躇するしがらみを、いとも簡単に踏み越える。
実は今回、家の狂人はパトカーに特攻をかけて車体の一部をもぎ取り、保護入院させられた。その直前に弟に「今から自首してくる」と謎の電話を入れていたことを考えれば、今回の彼の決定稿は『警察に捕まること』だったのだろう。酔いの上で起こしたいくつかの物損事件でもグダグダと並べたが、自分の筋書き通りにことは進まない。ならばドラマチックに、『飼いならされた犬たちのわずかばかりの野生の牙にかかって引きずられる哀れな俺』のほうが見た目良かろう、と言うのだろう。
こうして俺の周りはつかの間の安寧を得た。より長期的な入院を希望して色々と調べたのだが……混沌の帰宅は思いのほか早かった。
見栄を張る性質の母親は決して明かさないが、ただの保護施設だったからなのか本格的な精神病院ですら手あまししたのか、彼は一月とたたずに帰ってきた。いや、帰されたといったほうが正しい。度重なる暴言と威嚇に音を上げた看護師たちが、医師に対して「あの患者を退院させて欲しい」と懇願したと聞いている。ともかく、ろくな診断すらつけられはしなかった。
実は彼の入院中、電話越しに大喧嘩して自覚したことがある。俺は自分が思っているよりもずっと、あいつを恐れていたのだ。
例えばアザとー家の日常会話に、こんなのがある。
「あいつを怒らせるとさあ、包丁持って玄関先まできそうじゃない?」
たぶん、あいつと接したことのない人間には解かってもらえない。その言葉には妙にリアルな質感と、虚構感が含まれているのだ。
物理的な距離、実際の時間などを考えれば到底ありえない話だ。ところが彼が現実から浮遊した『演者』であるがゆえに、現実を越えたドラマチックこそがよく似合う。
きっと、唐突にチャイムはなるのだろう。ドアを開ければ普段着にサンダル履きというラフなスタイル。だが手元には何がしかの刃物を握りこみ、二時間も前に切った電話の続きを……
「さっきの話なんだけどさあ」
はっきりキッパリ言おう。そちらの方が彼にとってのリアルなのだ。
そして俺は現実にそんなことが起こるのをファンタジーだと知っていながら、彼の中で『登場人物』として認識されたなら現実になりかねないのを知っている。
だから、怖い。
そして、すでに物語の登場人物であろう両親の身を案じての我慢だったのだが、彼を捕えた檻があるということに気を抜いたのだろう。普段なら飄々とかわす言葉に真っ向勝負を挑んでしまった。
それはいつものごとく、意味不明なたわごとに30分ほども付き合った後のことだ。
「俺さあ、オヤジのことぶん殴ってでも診察受けさせようかと思って」
「へ、何のこと?」
「ちょうど精神病院にいるしさあ、調べたら『分裂症』ってやつだと思うんだよね」
ここで何か反論をしても、彼にとっては屁でもない。医者や両親に話すときには「姉ちゃんがそう言っていました」と伝えられるのが常套である。
……そう聞くと彼がただの嘘つきに思えるかもしれないが、紙一重で違う。彼は嘘などついている自覚はない。ただ登場人物が勝手に入れたアドリブを『修正』しているだけだ。
だからいつも話題のすり替えなどでごまかしていたのだが……
「もっとやばいのは母さんだと思う。あれは絶対に『解離性障害』だと思うんだよね」
この瞬間、アザとーの脳裏には彼が描いた戯曲がありありと見えた。
連綿と続く気狂いの家系。その後継者として生まれた狂気の子とは、なんともドラマチックな設定ではないか。
「でもぉ、そこまでじゃないと思うよ~」
「いや、絶対狂ってる。だってさあ、俺が電話かけるとぶっつぶつ切るんだよ!」
「へえ、そんな一声も聞いてくれないんだ?」
このとき、思いもよらぬアドリブに躊躇したのであろうか、ほんの一瞬だけ間があった。
だが後はとうとうと、実に横柄な台詞が流れ出す。
「医者に診察させたら……」
「チョイ待ち。これから診察してもらうんじゃないの?」
こちとら嘘をつないで誠を作り出す練習をしている身だ。整合性の不具合程度は分かる。
「ああ、相談。相談したんだよ。そしたら間違いなく統合失調症だろうって」
「そんなん……今更じゃん?」
「まあ聞いてよ、統合失調症ってのはさあ……」
彼が今欲しているのは話を聞いてくれる『お姉ちゃん役』だ。ならばどんな内容でもいい、話を聞かない役回りならば。
畳み掛ける。
「それにしても、たかだか物損で、しかも初犯で、何でそんなところに入れられたの? そんな話聞いたことがないんだけど、本当は何回もやらかしてるんでしょ?」
「俺より、オヤジを……」
「電話もぶつぶつ切られるってさ、あんたが何か言ったんでしょ」
「いや、普通の会話をしてるだけだよ。なのに切るとか、キチガイだと思わん?」
かかった!
話の主導権を握ったら後は相手を迷走させる。話の真偽やつじつまは関係ない。要は口調や雰囲気で感情を煽ってやればいいのだ。
……自分の得意技を、俺にされたらどう反応するんだろうな、お前は。
思いっきり尊大に、日常とは違う、台詞を作り上げる。
「感情の蓄積って解かる? つまり日常の中で重ねられた鬱憤って言うのは何かをきっかけとして一気に吹き上がるのよ」
「いや、キチガ……」
「もちろん、言葉だけではなく、動作や表情、受け取り側の心理条件などもあるが、殊、電話に関して言うなら声による……」
「黙れ、キチガイ!」
声が一気に狂気ばむ。後はろれつも回らないほどの、どこか悲鳴にも似た声が超理論を紡ごうと錯綜した。
面白いのは、彼が意外にアドリブに弱いと言うことである。いつもの人を見下したような小難しい単語と言い回しは、脳内で何べんもリハーサルしてのものであったのか!
無理にいつもの調子を保とうとしゃべりの速度を上げるから、知っている言葉の羅列は日本語としての体すら成さない。ただ「キチガイ」と言う単語の頻度が上がっていく。
俺は敢えて無言を貫いた。
「……だから、あいつらを野放しにしちゃいけないんだっ!」
ひとしきりの大演説にご満足されたのか、言葉が途切れる。俺が狙っていたのはただ、この一瞬のみである。
「それだ。電話を切られる理由は」
そこに続いた沈黙は長かった。狂人相手に喧嘩を売ったことを後悔し、今にも玄関が開くのではないかと言う恐怖に膝が震える程度には。
やがて、耳をつんざく絶叫が響いた。
「お前なんかに俺の何が理解できるっ! 思い上がるな、ばか!」
ここで踊らされて怒鳴り返しては、元の木阿弥だ。
「ああ、それもか」
「うっせ! ばーかばーかばーか!!」
電話は切れた。
偉そうにご高説をぶったたいていたお方の〆の言葉が小学生レベルだったのはいささか興ざめだが、地金が出たという奴だろう。無理もない。いままで適当な相槌をうってくれる舞台装置程度に思っていた相手に、反撃されたのだから。
こうして大喧嘩の後で彼は退院したが連絡は途絶え、娘の入学祝いにも来なかった。二度と会わなくて済むのならそれに越したことはない。
だがそれは、ぬか喜びであった……




