宛て所に訪ねあたらず
いい加減気が付いてもいいころでは有りませんか? あなたが本当は誰にあてて手紙を書いていたのか……
いいえ、私はずっとここに居ましたとも。生まれる前から、ずっと、
電話のディスプレイは、それがハジメからであることを告げている。
妻はこの狂人からの電話をひどく嫌っているから絶対に出ることは無い。子供達にも無視していいと伝えてある。
「ちっ!」
仕事上がりのビールを楽しもうとしていたマコトは、缶を抱えたまま飛び切り明るい声で受話器を取った。
「はいはい、何よ?」
『あ、兄ちゃん? 子供達、来るの?』
「いやいや、学校があるじゃないか」
『学校なんか真面目に行ってたって、社会は学べないよ。そもそも昨今のゆとり教育という制度自体がさあ……』
(やれやれ、今日は教育評論家か)
適当に相槌を打ちながら、ごびりとビールを流し込む。ふと窓に目を向ければ、暗くなったガラスに自分の顔が映った。
それは父親似の末弟よりも、神経質な母親似の中弟によく似ている。
(ああ、知ってるよ。俺には間違いなくあいつと同じ血が流れている)
相似しているのは外見だけでは無い。
快活で正義感が強く、周囲の好意を集めるに長けた『村上マコト』は表側の顔でしかない。彼の本質は人見知りで、独善的で、おまけに悪意に満ちている。
彼らは脳の気質的な問題なのか、興味の無い他人の顔など覚えようともしない。常人であれば道で見知らぬ相手に唐突に挨拶されたら「娘の授業参観で見かけた」くらいの記憶は引っ張り出すものだが、その引っ張り出すべき記憶が初めから欠如しているのだからたちが悪い。
芸能人も然り。ハジメが一部の芸能人を熟知しているのはネット上で『叩く』ための知識でしかない。その人の経歴や心、まして顔など『道具』を識別するためのシリアルナンバー程度にしか考えてはいないのだから。
マコトにいたっては人生の中で出会うことなど無いであろう芸能人に興味すらない。どんなに可愛いアイドルでもヤれもしないオンナなど興味の対象外なのだ。
救いがあるとすればマコトがそれを恥じて努力を重ねたということであろうか。
……せめて親しく挨拶をしてくれる相手には最低限の礼を失するようなことの無いようにしたい。
とりあえず『顔』による識別は諦め「いつも挨拶してくれる人、犬の散歩で会う人、授業参観のときに隣にいた人」というように行動のパターンで人を記憶する。そして人見知りを隠して極力愛想よく振舞うことで相手と関わる機会を増やし、回数をこなすことによってやっと顔までを記憶するに至るのだ。
そんな彼の本来の質までを理解してくれる友人は実に少ない。縁あって妻とした女も、その病疾がどれほどに深くマコトを傷つけているかを理解するには至らないようだ。
だが生まれたときからその姿を見てきた子供達は父の悩みをあっけらかんと笑い飛ばしてくれる。「俺、お前達の顔も怪しいから、病院ですりかえられてても絶対に気づかないな」
「うっわ、ひっでぇ~! それでも親かよ」
冗談じみたやり取りがいかに彼を赦してくれることか……
(だからこそ俺は……)
時々表面に出てこようとする神経質で冷酷な『生存本能』が恐ろしい。刹那的な快適のために平然と嘘を吐き、それを相手に気取らせず人を意のままに操る狂気は子供達をも食い物にするだろう。
そう、あいつのように!
実際、不安定な年のころにはこの性質が顕著だった。頭の回転が速く、話題も豊富で話術に優れた彼は学校という小コミューンの中でちょっとしたカリスマだったのである。だが、周りが持ち上げれば持ち上げるほど彼は実際の自分とのギャップに苦しんだ。
みんなが思うほど博識なわけではない。引き出しは多いが全てが浅く掻い撫でただけの薄っぺらな知識だ。理知的な文法と、数字を折り混ぜて語る独特の話法でごまかしているだけだ。
もちろん人気におごり昂ぶり、自制を失って人を操ったこともある。いくつかの学校行事において自分が主役に立とうと目論み、それはまんまと成功を納めた。それでも彼が望んだ立ち居地が『クラスをまとめ、引っ張ってゆくリーダー的存在』だったのは不幸中の幸いだったのかもしれない。合唱コンクール、体育祭、文化祭……全ての行事において彼の所属したクラスは「団結力があり、一つの目標に向かって協力する理想的なクラス」だった。
それは当たり前だろう。やる気の無い生徒を『正論』と甘言を駆使して奮い立たせ、自分の理想とする『目標』を人心に明確な形で刷り込み、必要以上に厳しい練習を強いることで『洗脳』を行う偽サイコパスが影で操っているのだから。
ただ病にまで堕ちた弟とは違って彼はその性質を良しとはしなかった。
(あのころはそんな自分を封じ込めようと、戦っていたな)
幸いに若いころにありがちな一過性のものだったのだろう。大人になった今では誰かを『正論』で叩きのめしたり、それによって自分が優位に立とうなどとは微塵も思わない。
それでも生まれつきの性が完全に消えることなどありはしない。
今でも時々、特に、この、電話……
『……だから世間の親は文科省の不必要性というものを客観的に捉えて、それに変わる新しい機関を擁立するべく行動を起こすべきなんだよ』
適当に相槌っているうちに随分と話が膨らんだものだ。そろそろご自身のご高説に気持ちよく酔ったころあいだろうか。
『そもそもがなぜ文部省だったものを2001年の中央省庁改変に伴って……』
まだだったらしい。だが、そろそろ風呂にも入りたいしスポーツニュースも始まるころだ。
マコトは冷蔵庫から二本目のビールを引っ張り出して、ぷしっと勢い良くプルを引いた。
「ああ、そういえば部活をはじめたらしくって、冬休みは合宿だって言ってたなあ」
いっそ馬鹿に聞こえるほどに間の抜けた声など、もちろん嘘だ。
『だったら顧問に直接話をつけてやるよ。そもそも課外の活動である部活動ごときに子供達の自由時間を拘束する権利など無いはずだ!』
「うん、そういう難しい話じゃなくて『気持ちの問題』だな。たかだか部活でも一定の結果を出すためには最低限の努力は必要なわけじゃない? 少し遅れて入ったから、冬休みまでにみんなと同じレベルまで追いつくことが彼のひそかな目標らしいよ?」
全ては嘘だ。帰宅部の息子は冬休みも自由気ままに暮らすに違いない。
「やっぱりさあ、スポ根にあこがれる年頃って『誰にでも』あるじゃない?」
世間全ての人間に当てはまる事象であるような言い回しもこの弟を黙らせるテクニックの一つ。
彼が全ての話を壮大に持ってゆき、政治や歴史の話にすり替えてしまうのはそれが得意フィールドだからではない。知ったかぶりがばれにくい領域だからだ。彼の病的性質は自分自身に知らない知識があることを許しはしない。虚飾に満ちた知識だろうが捏造した常識であろうが相手を納得させ、優位に立つことだけが目的なのだから。
「運動部だったことは無いけどさあ、ああいう『気持ち』ってのはよく解るんだよね」
電話の向こうが無言なのは、おそらくパソコンで検索をかけているのだろう。マコトもノートパソコンを引き寄せ、グーグルを開く。
「俺なんかも馬鹿だったからさあ、本気でサンダース○ークボールを投げようと練習したりしたもんなあ。あれ、なんていう漫画だったっけ?」
知らないわけが無い。画面には既に童○くんと打ち込み終わっている。
『ミラクルジャイ○ンツ童○くんだろ? それに魔球の名前が間違っている。正しくはレインボース○ークボールだ』
「そうそう! でも、サンダー何とかってのもあっただろ?」
これでフィールドは変わった。別にマンガの知識なぞで優位を見せるつもりは無い。
そんなことをしなくても、電話の相手は知識などでは絶対に埋められないものが欠如しているのだから。
「『俺たち』男って基本馬鹿じゃん。今考えればあんな魔球が本当に投げられるわけないじゃんね? でも子供のころは本気で投げられるとか、思わなかった?」
『現実的に可能な魔球というのも有るだろう。例えば水島新○の作品の中では……』
「違う違う! そういう物理的な話じゃなくって、お前も解るだろ? ロマンっていうか、ユメっていうか……『気持ち』の問題だよ」
さあ、ググれ。検索ワードは『人の心』だ。
仮にヒットしたとしても知識で理解できるものではないけどな……
「そういう『年頃』なんだよ、うちの子も」
ぐびっとビールを煽りながら再び窓を見る。暗く磨かれたガラスに映るその男は、冷酷そうな微笑に染まっている。
(よう、久しぶりだな)
その姿に軽く乾杯の仕草を捧げてから、マコトはホップくさい液体で唇を湿らせた。
このサイコな弟相手に吐く嘘には一つの罪悪感も感じはしない。善悪すらも超えた家族を守るための『本能』だからだろう。
それでも、わずかばかりのアルコールが回れば弁は滑らかに滑る……
久々に本質を解き放つ陶酔感に酔いながら、マコトは缶の中身を一気に呷り干した。
今回10パーセントぐらいは話盛った。
さあ、スッキリしたからスライムだ!
200パーセントぐらい盛ってくるぜぇ!




