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ツマにもなりゃしない小噺集  作者: 麻戸 槊來
盲目的なハイカラ猪
88/132

婚前契約書


それは、今にして思えば、おままごとのような内容だった。


「何見てるの?」


不思議そうに手元を覗き込んでくる少女から、逃れるように手をひっこめる。

普段甘やかしている私のそんな態度に、不満を覚えたのだろう。頬を膨らませ、どうして隠すのかと怒りだした。


「なに、浮気相手からの手紙とか?」


どうして、自分の孫娘にそんな眼差しを向けられなければならないのか。そんな言葉が浮かぶほど、成長したのかと喜びなど浮かぶはずもなく。若干、憤慨しながら否定する。


「いや、まさか。……これは、芙美ふみおばあちゃんとの婚前契約書だよ」


「婚前契約書?」


不思議そうに首をかしげたのちに、きらきらと目が光りだすのを見てしまったと後悔しても遅かった。とっさに眼前から遠ざけたのも良くなかったのだろう。気づいた時には、手元にある物の内容を説明しない訳にはいかなくなっていた。


法律に携わる者が見れば、笑いとばすようなお粗末な内容だが、当時の私達はひどく真剣だった。






✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾






私が結婚したのは、今から四十年ほど前のことだ。

あの頃では珍しい恋愛結婚で、周囲には散々いろいろな言葉を頂戴した。見合いや許嫁との結婚が当たり前の時代、「心配していただけるのは光栄だが、有難迷惑だ」と何度口走りそうになったかしれない。幼馴染だった妻のことは良く知っているし、こちらの短所も嫌というほど知られた仲だ。


「そんなの、直接本人へ言っておやりなさいな」


ちょっと気が強い妻などは、そう言って本当に近所の人間と言い合いになっていて心底焦った。それを聞いた孫娘は、わくわくと楽しそうにしているのだから困ったものだ。さっきまで「なんで夏でもないのに、こんなに暑いの」と騒いでいたのが、嘘のようだ。まったく……こちらは本気で、詫びの菓子折りでも持って行かなきゃならないかと、悩んだというのに。


「嗚呼。芙美ふみさんなら、たとえ自分よりずいぶん年上の人でも『四の五の噂話している暇があるなら、シャキシャキ働け!』とでも、説教しそうね」


「そう。本当に『そう言ってしまう』のが、彼女なんだよなぁ」


当時の様子が、昨日のようによみがえる。

まったく、彼女ときたら後先考えない性格で、何度下げたくもない頭を下げたかしれない。人が良くて激情家で、放っておけばすぐに犬や猫、しまいには家出した子どもなんかを拾ってくるような女性だった。黒く癖のない真っ直ぐな髪を一つに束ね、きりっとした眉。意志の強そうな瞳で見つめられると、元来気の弱い性質の自分なんかは、すぐに謝りたくなったものだ。


「おじいちゃん。それじゃあ、何か謝らなきゃいけない事をしたって、白状しているようなものよ?」


くりっと、どんぐりのような眼で見つめられて、どきりとしたのは致し方がないことだろう。どうしてこう、家の女人たちは嫌に察しが良いのだろう。人がわざと隠していた事を、何の気なしに言い当てるのだから。


「そんな事より、もうそろそろ出る準備をした方がいいんじゃないか?今日は友達と約束があるんだろう?」


「おじいちゃんったら、まだ約束の一時間前にもなってないよ?スマホですぐに連絡はつくし、こうも静かだと、少しでも面白いことがないとやってられないよ」


数年前まで一緒に暮らしていたこの孫娘は、どうやらすっかり都会の生活に染まってしまったらしい。大学に進学してからは髪も明るく染め、ここいらの友だちと会うのも久しぶりだという。子どもの成長は早いものだと眩しく思うとともに、ここに芙美が居れば、間違いなく「そんなに髪を染めたら、つやつやの髪が台無しじゃない。服の露出だって激しすぎるわ!」なんて、目を三角にして怒っただろう。


「ねぇ。そんな事より、その婚前契約書読んでもいい?このままじゃ気になって、出かける準備も進まないよ」


「おや、さっきの発言と真逆を行くようなことを言うね。自分で言ったことをもう忘れるとは、私より先にぼけてしまったのかな?」


「うわぁ、おじいちゃんが意地悪言った。罰として勝手に読んじゃおう!」


一度気になったら、梃子でもひかない。本当に、こういう所は芙美に似ている。


「やれやれ、しょうがない子だねぇ」


呆れ半分、諦め半分。孫可愛さに手元にあった紙を、ふわりと蝶を逃がすかのように手放した。


「ええっと、何々。ひとつ、結婚記念日は必ずお祝いする……って、これから始まるの?」


「なんだ、そんな所で驚いていたら、最後まで読むことなんてできないぞ」


くりくりとした目を見開く孫娘を見て、あれだけ抵抗があったのに現金なものだ。これまで頑なに隠してきたものを読まれても、少し愉快な気持ちになってきた。


ひとつ、毎日家に帰ってくること

ひとつ、浮気はしない

ひとつ、異性との手紙のやり取りは控える

ひとつ、露出は控える

ひとつ、暴言は吐かない

ひとつ、派手な化粧はしない


「ねぇ、おじいちゃんこれって……」


「誓って言うが、私は浮気なんてしたことないからな?」


「でも、こんな風に契約書を書いた上に、初めからこんな風に書かれるなんて……」


「これは、芙美が勝手に勘違いして、嫉妬しただけだっ!」


まったく、なんて恐ろしい誤解をしてくれるのだと内心冷や汗を流す。

可愛がっていた孫娘にそんな誤解をされたなんて知られたら、芙美に酷くどやされてしまうだろう。


疑いの眼を向けたまま、孫は更に読み進める。


ひとつ、洗濯物は必ずかごに入れる

ひとつ、服は裏っかえしたままにしない

ひとつ、好き嫌いしない

ひとつ、なんにでも醤油をかけない

ひとつ、しょっぱい物ばかり食べない

ひとつ、お酒は程々にする

ひとつ、煙草はやめる

ひとつ、年に一度は必ず健康診断に行く


四分の一ほど読み進めたところで、何か思う所があったのだろう。ふっとこちらを見た顔は、どこか気遣わしげにしているように見えた。


「これって、婚前契約書って書いてあるけど、だんだん継ぎ足された物なの?」


「良くわかったね」


「だってこれは、おじいちゃんが若い頃に手術した時のことでしょう?」


察しの良い孫娘の頭を、久しぶりに撫でてやる。

ポンポンと撫でていくうちに、大したことないと分かったのだろう。実際に、時々ひきつるように感じた腹部の傷も、今は多少跡が残る程度で痛みすらない。


「さぁ、もういいかい?」


わざと茶化すように契約書を取り上げようとすると、慌ててしっかりと抱きかかえた。


「ひとつ、具合が悪い時はすぐにいう……って、これあからさまに、やせ我慢していたのを怒られたんでしょう」


くすりと笑った孫の顔は楽しそうで、取り上げようとした手は止まってしまう。


ひとつ、夜更かしは控える

ひとつ、毎日一緒に散歩する

ひとつ、夜に緑茶を飲みすぎない


「なんだか、ここら辺は健康に気をつけろって、芙美さんによる無言の意思を感じるね」


「うーん。そうは言っても、おじいちゃんだって色々芙美さんとの極まりを作ったんだよ。ここなんて、ほら」


ひとつ、勝手に動物を拾ってこない

ひとつ、喧嘩しても挨拶はきちんとする

ひとつ、朝ご飯は必ず一緒に食べる

ひとつ、待ち合わせには遅れない

ひとつ、帰りが遅くなる時は連絡する

ひとつ、ご飯がいらない時はすぐに伝える

ひとつ、無断外泊はしない


読み上げるたびに、孫の笑顔が深くなる。

「芙美さんは、動物好きだったのに飼っていなかったのは、これが理由だったのね」なんて、訳知り顔でうなずいている。動物を飼っていないのは、芙美さんがアレルギーだからなのだが、訂正する機会を失ってしまった。孫の関心は、次に移ったようだ。


「けど、おじいちゃんが決まりをつくったら、その倍近く芙美さんは作ってない?」


「まったく、本当にそうなんだよ」


ひとつ、定期的に家族旅行に行く

ひとつ、困っている人間は放っておかない

ひとつ、いきなり友人を家に連れてこない

ひとつ、身だしなみを整える

ひとつ、髭は生やさない

ひとつ、春は必ず一緒に花見をする

ひとつ、帯はきちんと締める

ひとつ、トイレットペーパーを使い切ったら必ず補充する

ひとつ、大きな買い物をするときには相談する

ひとつ、必要以上に買い溜めしない


「読めば読むほど、芙美さんを思い出すなぁ……」


「ん?何か言った、おじいちゃん」


「嫌、なんでもないよ」


微かに聞こえてくる車の走る音に、視線を向ける。

息子夫婦が帰ってきたのかと思ったが、隣家へ宅配に来た車のようだ。考えてみれば息子は仕事で、義娘は同窓会だと言っていたから、こんなに早い訳がなかった。

宅配のドライバーは、うまく小回りを利かせて細い路地にも入り込むのだから、感心してしまう。自分の若い頃などは田畑がほとんどで、通っているのは農業用のトラックがほとんどだった。小さな畑を持っていた我が家も例にもれず、自分で運転する機会も多かった。記憶を巡れば、そのトラックに友人を五、六人のせ、家に招いてしまって怒られたりしていた。


ひとつ、頼みごとをする時は、目を見て言う

ひとつ、昔の話を掘り返さない

ひとつ、口論する前に、一度目を閉じる

ひとつ、長電話はしない

ひとつ、人の手紙をのぞかない


そんな、一文を読んだところで、明るい声が一瞬詰まった。

敏い彼女のことだ。そんな約束を決めたのには、以前人の物を勝手にいじって芙美さんと私が喧嘩になったことに思い至ったのだろう。恐る恐ると、こちらを除く顔が、当時の彼女と重なって笑いをもらす。


「そろそろこれはやめにして、お茶でも飲むかい?以前に貰ったまんじゅうがあるから、それも一緒に頂こう」


「おまんじゅう?粒あんなら食べる……」


こちらを窺いながらも、自分の好みを主張するところも本当に似ている。まんじゅうを出してやると、ふんわり黒糖の風味がした。先ほどのしょんぼりした様は嘘のように、「黒糖と黒ごまが美味しい」と口一杯に頬張っている。


この子が中学に上がる前には、芙美さんはすでにこの世を去っていた。それだというのに、二人の好物である粒あんのまんじゅうを、競うように食べていた光景が、昨日のことのように思い出せる。


「それで。結局おじいちゃんたちは、どれだけこの契約書を守れたの?」


「自信を持って言えるのは、最初と最後くらいかな」


「えーおじいちゃん、それじゃあ全然少ないじゃん」


「そうだなぁ。今考えてみれば、少ないかもしれないな」


当時は、何か言い争ったり、芙美さんを怒らせるたびに増やされたこの『決まりごと』は、最後には50にもなっていた。それだけの数になれば当然守れないものも出てくるし、むしろできないからこそ、少しでも気をつけさせようと増やされた物すらある。要は、お互いの意思確認の一種のようになっていたのだろう。


ひとつ、相談なしに、人へお金を貸さない

ひとつ、相談なしに、人からお金を借りない


孫娘のいなくなった居間で、そんな言葉を目でたどる。


この時は、本当に参った。安請け合いをしてしまって、危うく闇金に借金をしてまで友人に金を貸そうとしていた私を、芙美さんは必死に止めてくれた。いくら気が弱くお人よしの傾向がある私だって、泣きながら三行半を突き付けようとする妻を前に、肝が冷えない訳がない。下手をすると、幼いわが子を抱いて荷物をまとめていたあの時が、一番の離婚危機だったかもしれない。


ひとつ、妻の留守中は花の水やりをする

ひとつ、夫の留守中はメダカの餌やりをする


妻が病気になった義母のために、里帰りした時は色々参った。

きゃらきゃらと笑う我が子の声が一日聞こえず、静かな一軒家はそれこそ耳が痛くなりそうなほどさびしいものだった。

だからこそ、芙美さんは「貴方がいない時はメダカの面倒を見てあげるから、私が留守の時はお花をよろしくね」なんて、少しでも私が寂しい思いをしないようにと、気遣ってくれたのだろう。


―――ただ、これには続きがある。


ひとつ、原則料理は妻が作るものとする

ひとつ、原則大工仕事は夫がするものとする


彼女がいない間に、私が相当調理場を汚してしまったのがお気に召さなかったらしい。その上、彼女気に入りの皿とグラスを二、三割ってしまったのだから、面目なくて反論も出来なかった。まぁ、そのかわりと言っては何だが、彼女が襖にあけた大きな穴は、私自ら張りなおした。彼女はどうも家事以外のことが苦手らしく、小さな棚や小物入れを作ってやるたび褒められて、くすぐったい思いをしたものだ。


最後の方は、もはやおまけか何かのように付け足された。


「だって。どうせなら切りよく50個にしたいじゃない」


なんて、笑っていたのを今でもはっきり思い出せる。

孫に言った通り、『婚前契約書』なんて名ばかりのものだ。ただただ、お互いを大切にする。そんな気持ちが多分に含まれた、口約束よりも重く、規則というには緩いものだった。


ひとつ、互いに敬意を払う

ひとつ、常に感謝を忘れない


「感謝なんて芙美さんに結婚してもらってから、しどうしだったんだがなぁ」


ぽつりとつぶやいた言葉は、仏壇の線香の煙と共に淡く消えた。






✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾  ✾






とある昼下がり、おじいちゃんに芙美さんとかわした婚前契約書を見せてもらった。

「自分が年を取った気がするからやめて」と、『おばあちゃん』なんて決してよばせてくれなかった芙美さん。私が小さい頃に亡くなったけれど、今も記憶には確かに残っている。


「これは、芙美ふみおばあちゃんとの婚前契約書だよ」


「婚前契約書?」


友だちとの約束の時間が迫っているだろうと、心配してくれるおじいちゃんを無理やり納得させてそれを覗き込んだのは、自分が知らない『おばあちゃん』の姿を、のぞき見れるのではないかという好奇心からだった。


「まったく。こんな契約をさせるなんて、芙美はとんだ悪女だったよ」


おじいちゃんの手元を除くとそこには、『婚前契約書』という言葉のあとに、「私が死ぬまで好きでいること」と書かれていた。

意識をしていなかったけれど、これが最も大切な約束だったのだろう。一度読んだ文章を、再びするすると目を走らせる。おまんじゅうも食べ終わったし、手も拭いた。おじいちゃんには少し申し訳ないけれど、ここまで読んだら最後まで気になってしょうがなかった。


しっかり読み返す気はなくて、何と気なしに最後の一文へ視線を止める。そこには「妻、芙美より長生きして、見送ること」という言葉で締めくくられていた。


おじいちゃんは、本当におばあちゃんとの約束を守ったのだ。

自分はその約束には全く関係ないというのに、なぜか誇らしいような感情が湧きあがってきた。

おじいちゃんの目元に、うっすら浮かんだ光る物を見ないふりして、私は友達との約束の場所まで急いだ。





次話は、獣人×お針子のお話です。

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