鏡の魔女
少し皮の香りが残る、使い込まれたソファに全身を預ける。
顔の向きを整える余裕もなく、襲いくる頭痛に耐えていた。このさして綺麗ではない事務所が、さっきまでいた環境を思えばずっと素晴らしく思うのだから、大概私もやられている気がする。
カチカチとなる時計すら止めたいけれど、そんな事を口にすることすら困難なほど、疲労していた。少し前までは知らなかったのだけれど、人間あまりに長時間痛みに耐えていると、疲れるものらしい。若い頃なら「これぐらいで、動けなくなるわけない」と思っていたのに、今ならわかる。これだけ痛ければ、疲れてしまうのもうなずける。精神的に追い込まれていれば、コンクリートに囲まれた殺風景な部屋にも、愛着がわくというものだ。
ちょっとでも体の痛みを和らげようと、ぐりぐりとソファに頭をこすりつける。
鈍い痛みが少しでも遠ざかるようにと思ったけれど、あまり効果は見られなかった。そんな風に、苦しんでいる私の手に、突然熱が落ちてきてうっすらと目を開ける。徐々に開けた視界の中に、夏の青空のような輝きを見つけて思わずぼぉっと見とれる。
「君の手がすき」
「そこは、『手も』好きっていいなよ」
もし、そういわれたのなら、私だってもう少し態度を改めるのにと考えて、馬鹿なことを思ったと首を振る。けれど、先ほどまで死にかけていた体には、そんな動きすら辛いものだったようだ。ソファに寝かされている状態ですら、重い頭痛にソファにめり込みそうな重みと、ずっと続く痛みにうめく。
本当に、こんな時になんてことをいいだすのかと、睨みつけたいのはやまやまだけど、あまりの痛みに涙が浮かんだ目を開きたくなくて、ぎゅっと眉間にしわを刻む。すると見計らったかのように、再び手に触れられたのが分かった。「人の許可もなく、勝手に障らないで」と言いたいところだけど、彼を意識しているような台詞が嫌で別の言葉に挿げ替える。
「―――そちらが興味あるのは、手じゃなくて、この能力でしょう?」
「えー、そういうこと言っちゃう?」
こんなに、献身的に尽くしているのにというけれど、彼の行動はすべて自分の思い通りに事を運ぶためのプロセスだと知っているから、同情心なんて湧かない。
「ここまで運んであげたし、飲み物だって持ってきた。君が望んだらすぐに動けるように、ずっとここに控えてあげているのに酷いよ」
「だからそれは、私の能力をうまく活用するためでしょう?」
「うーん、それも立派な『君のための行動』だと思うんだけど」
この性格破綻者は、さも不思議でしょうがないというように、首をかしげている。
もう少し顔が良くなければ、そのニキビすらない頬を思いっきりひっかいてやるのに。それも我々にとっては立派な『資産』と知った今は、勝手なことも出来やしない。
私たちは、一緒に美容系の仕事をしている。
彼が経営する店で、彼は接客と肌に優しい化粧品を販売し、私はそれらを使って女性たちに化粧を施す。
口下手な私にしてみれば、こんな風に人へ化粧を施す日が来るとは思ってもみなかった。確かに化粧をするのは好きだったけれど、それは全て自分のコンプレックスを隠すためのものだった。自分の腫れぼったい目元や丸い顔を、少しでも隠したい一心で覚えた技術だ。
「メアがそんなに化けるなんて、思わなかったよ。ぜひ、俺とコンビを組もう」
同窓会で、そんな風に彼に話しかけられなければ、今頃ただの事務員として地味な生活をしていただろう。……本当に、何故あの時にうなずいてしまったのだろうと、後悔しない日はない。
何せ、多少具合が悪くて辛い時も、忙しすぎて碌に眠れていない時も、仕事は待ったなしで増やされていく。それというのも、はちみつのような髪に、青空のようなブルーの瞳を持つ彼は、笑顔が素敵だと学校中のみんなが注目するような男子だったのだ。
それが今となっては、道行く人がみんな振り返る男前にと成長し、白い歯を輝かせながら女性たちを「俺が君を、とびっきりの美人にしてあげる」なんて口説きおとす。それに文句を言えないのは、私の力では一日一人でもお客を連れてくるのが難しいと実感しているからだ。
まだまだ実績のないうちの店は、お客様を選んでいる暇もなければ、忙しいからと断る権利もない。お客様に化粧を施すという仕事柄、何件もまとめて相手するわけにはいかないし、中途半端なこともしたくない。第一、私は少し美容について学んだ程度で、まだまだ仕事に対して自信もない。ただただ女性たちを笑顔にしたい思いから、この仕事を引き受けたのだ。
いくら自分を綺麗に飾り立てても、埋められなかった心の空洞が、「貴女のお蔭で、鏡を見るのが楽しくなった」と笑ってもらえることで、満たされていくのを感じた。まぁ、始めたきっかけは純粋な感情だけではなかったかもしれないけれど、今は純粋にお客様の笑顔を見たくてやっている。
だからついつい無理だってするし、期待に応えたくなってしまう。
「いくら微妙な時期だからって、少し頑張りすぎじゃない?」
「……今日は、たまたま具合が悪かっただけよ」
「そんなこと言って、昨日も一昨日も、碌に休憩もとらず働いていたでしょう」
「そっちだって、プライベートですら熱心にしているようですけど」
「いやぁ、ついつい女性を見ると、いいお客様になってくれそうだと営業をかけるようになってしまったよ。職業病かな?」
笑う彼を横目に、半身を起こし手元にあった飲料水を飲む。
いつもは寂しすぎると馬鹿にしている事務所も、今はチカチカした明るい部屋ではなくてよかったと思う。気休めにでもなればいいと持ち込んだ観葉植物は、暑さに負けているからそろそろ水を上げなければいけなそうだ。いくら植物の世話に慣れていないからと言えど、観葉植物まで枯らすようではちょっと悲しすぎる。
ぼんやりとした頭も、水分を取ったおかげか落ち着いてきた。
夏バテと貧血にやられた状態で、いろいろ余分なことを口走ってしまった気がする。反省する私に、彼は想像もしない言葉を投げかけてきた。
「そもそも俺は、君の曇り空みたいなグレーの瞳や、ヘーゼルナッツのようなはしばみ色の髪も気に入っているよ」
「……全体的に、地味で悪かったわね」
「あれ?親しみやすいという意味で、いったんだけど」
この男は、良くもまぁ人のコンプレックスを煽るような表現をえらべるものだと感心する。そのくせ、本気でけなしている自覚がないのだから、いつかその綺麗な顔がシミやたるみに染められるのを腹を抱えて笑ってやりたい気持ちにさせられる。
「あ、笑ってる。何楽しそうな顔しているの?」
「貴方が、とんでもなくかっこ悪い年の取り方する想像をしてた」
「えー、それは酷いなぁ」
あまり気にした様子もなく、わずかに眉を寄せただけで笑っている。
日焼け止めも滅多に塗らないみたいだし、スキンケアだってしている様子も見られない。以前「こんな職業をしているくせに」と文句を言ったら、「何も肌につけていないフラットな状態の方が、試作品を利用しやすいじゃないか」なんて言っていて苛ついた記憶がある。確かに、何時間もかけて手入れされた私の肌では、厳選なる審査はしにくいだろう。
手入れなんてほぼしてないのに、こんなにも綺麗な顔をしている彼は狡いと思う。女性の味方のような顔をしているけれど、彼は本質では私たちのような人間のコンプレックスや、苦労とは真逆のところにいるのだと胸がつきりと痛む。
「やっぱりどうやったって、ゆくゆくは剥げ散らかして、赤ら顔のダサいおじさんになってほしいわ」
幾らか前に、「美形は世界遺産だ」なんていう人がいたけれど、その人も私がこんなにもこき使われていると知ったら、少しは同情してくれると思う。それほど、二人だけで切り盛りしている状態は、限界を迎えようとしている。
「うーん。でも、よぼよぼの爺さんになっても傍にいてくれるなら、思いっきり俺のこと笑ってもいいよ」
「…………」
突然の言葉に、返事が出来ないでいた。
何をいまさらという気持ちもあったし、そんなにこの仕事が大事なのかと感心する気持ちもある。そもそも私が彼の誘いに乗ったのは、ちょうど前の事務所との契約が切れ職を探そうと思っていたことも関係あるけれど、ある種の復讐と見返してやりたいという気持ちからだったのに。彼にしてみれば、学生時代の事なんてなかったことに去れているのかと思えば、いっそこだわり続けているこちらが馬鹿らしく思えてくる。
「そんなになるまで、こき使うつもりなの?」
「ん?仕事としてだけじゃなく、プライベートでもパートナーになってほしいって意味なんだけどなぁ」
「っふざけないで!」
私が美容に興味を持つようになったのは、スクール時代に彼に手ひどく振られてからだ。当時の私はそばかすがあり、髪もくるくると天パだった。今でこそファンデーションや縮毛でごまかしているけれど、野暮ったい私の告白を、彼は仲間たちと笑いものにしたのだ。
「私が告白した時に、馬鹿にしたくせにっ!」
「……確かに口は悪かったかもしれないけれど、メアをバカにしたつもりはないよ」
「もっと、鏡を見てみろって、言ったじゃない!」
「それは、もっと自分を良く見て、いいところを伸ばしてみろって言う意味だよ」
その証拠に、君はこんなにきれいになっただろ?
彼が言う言葉は納得がいかないのに、何故か反論できなかった。
「あのころの君は、自分に自信がなくてろくに笑ってすらいなかった。えくぼのでた頬を見るのは好きだったのに、自分に自身がないせいでうつむきがちで。俺は当時から美容に興味があったのに、努力が足りない君に苛立ったって、無理はないと思うんだけど?」
「鏡を見ろって……私程度が、貴方に想いを寄せることすらおこがましいって、言われているのかと思った」
「君は可愛いって、ずっと前から言ってるじゃないかっ。今はスクール時代より洗練されたし努力だってしているのに、メアは昔より笑わなくなったし!」
私は何故、怒られているのだろうと疑問に思いながら、目を丸める。
次から次に出てくる言葉は、本当に予想もしていないものだった。学生時代の苦い思い出をくれた相手を、見返したくて頑張ってきた。開店当初は、彼が当時のまま嫌な奴だったら店が起動に乗った所で、突然姿を消すのもいいかも知れないとまで考えていたのに。思わぬ反撃は、どうしてか不快ではなかった。
これからは化粧の勉強だけではなく、鏡をみて笑う勉強もしてもいいかもしれない。「本当は、えくぼもコンプレックスなんだけど」なんて言葉はのみこんで、言葉足らずの彼に笑いかけてみる。
今までは嫌な部分を消そうと必死だったけど、これまでより楽しみながら、化粧が出来る気がした。
次話は、少しマイナー?なグリム童話をアレンジした話になります。
ただ、正直こういったお妃選びをする物語には抵抗感があるので、その気持ちが前面に押し出された話になったかもしれません。