波に謳う
今回は、多少言葉が荒い男性が主人公です。
俺が生まれ育ったのは漁が盛んな港町で、親父のあとを継いで俺自身も漁師になった。
国の中枢である城下町こそ、それなりににぎわっているものの、港の方は人通りもまばらだ。けれど、自分の暮らす街から少し歩いただけで海原がひろがる光景はなかなか気に入っているし、なだらかな坂は一瞬海の上を歩いているような気分にすらなる。……なんて、幼馴染のトルディスに聞かれたらまず「貴方らしくない、ロマンチックな言葉ね」なんて笑われそうなことを考え尻がむず痒くなる。俺は文学なんかにゃ全く縁のない、根っからの漁師だというのが自他ともに共通した認識だ。
数年前までは近場の魚ばかりを狙っていたが、この頃は少しでも稼ぎが良くなるようにと遠出することも珍しくない。
別段食うに困っていたわけでもないが、稼ぎが良くなったおかげでお袋や親父から仕事に関してごちゃごちゃ言われなくなったのはありがたい所だ。……あと何か不満があるとしたら、適齢期を過ぎた俺の嫁さん探しについてごちゃごちゃ五月蠅いことだろう。
若い頃は、それなりにモテた。
まぁ、漁師という職業柄たっぱもあるし、持久力もある。それに、自分で綱を編んだり魚をさばいたりもするから手先は器用だ。
稼ぎもまずまずだし、両親ともに魚屋を営む程度には健全だから、看病なんかの心配も今のところはない。
潮風にやられているせいで金髪はパサつき、肌も焼けているが、世の女どもに蛇蝎のごとく嫌がられるほど野蛮でもないつもりだ。両親と住んでいる家もメンテナンスを怠っていないし、城下町からは外れるが田舎と呼ばれるほどでもない。不便とは言われない立地だろう。
……じゃあ、なんでそんな野郎が三十も過ぎて独り身なのかと言えば、まぁいろいろタイミングやなんかが悪かったのだというより他ない。
「だーかーらぁー!俺のせいじゃねぇんだってっ」
「なぁに、馬鹿なこと言ってるんだい、あんたは!父ちゃんだって若い頃はいろんなところに女つくってたって言うのに、どーして遥かにしまりのない下半身してて、毎日娼館へ通ってたあんたが、嫁の一人も捕まえてこれないんだいっ」
「人のことを早漏れみたいに言うな!」
「やかましい!そんなんじゃ、何時まで経っても孫の顔を見られるかわかったもんじゃないよ」
ギャーギャー言い合う俺たちの横では、親父が猫を抱えながら茶をすすっている。
こうなると、いつ自分に火の粉がかかるか分かったものではないから、あえて気配を消しているのだ。もう、いっそ精霊様の姿でも見えるようになるんじゃないかという穏やかな表情は、邪念など皆無にすら見える。猫は猫で、俺が行き場をなくしたところを拾ってやったというのに、こちらになどには目もくれず気持ちよさそうに撫でられている。
その実、親父は若い頃はさんざんよその女にうつつを抜かして、おふくろも苦労していた。最終的には「……あんた、次に外へ女を作ったら、その粗末なもの切り落とすよ」と、真顔で言われて青ざめていた。あれは、お袋が愛人問題でキレて、包丁を振り回した翌日の朝のことだった。
今でこそ好々爺の振りなんぞしているが、うちのお袋は「いつ、義理の娘や息子が増えるか分かったもんじゃないよ」なんてしょっちゅう嘆いていた。
「……あれだけ親父が浮気しただなんだって嘆いていたのに、よくそんなこと言えるもんだな」
「何だってぇ?」
「あー!お袋はそんなに心配しなくても、子どもならそこの三毛が見せてくれるだろうさ」
「うーん、三毛はよく雄猫に求愛されているけど、結構年がいっているから心配だねぇ」
「ちょっとあんたまで、この子のくだらない戯言に乗らないでおくれ!第一、三毛がこの節操なしのバカ息子みたいなのに引っかかって、子どもがポンポンできたらどうするんだい」
「ババアが餓鬼、餓鬼うるせぇんだろうが!大体、うちの三毛は店で出すような上等な魚じゃなきゃ、食いやしねぇからケチな誘惑には引っかからねぇ。安心しろ」
「なぁーにが安心しろだ馬鹿!あんたがほいほい売り物やるせいで、雑魚になんか目もくれない気位の高い御猫様になったんだろう」
「あー?自分で捕った魚をやって何が悪い」
「もうっ、そんな所は、本当にお父さんそっくりだよ!」
「んー?わしは三毛のつれない所が、お前そっくりで好きだがなぁ」
「親父やめろ。息子の前でいちゃつくな。大体お袋のどこが、三毛のようなスリムな体型してると思ってんだ」
「こんのバカ息子!人の体重気にしている暇があったら、魚の一匹でも釣ってきな!」
お袋の言葉に反応したように、三毛までこちらを向いて鳴く。
魚と聞いて、あちらに味方した方が得だと踏んだのだろう。さっきまでは拾ってやった恩も忘れたように知らんぷりしてやがったのに。本当に、うちの御猫様は現金なものだ。
さすがに、日も傾き始めたこんな時間から、用意もなく船を出そうなんて思わない。
「まぁ、三毛の晩飯でも増やしてやるか」程度の気持ちで、木桶と釣竿を持って歩き出す。こんな時間から竿もって夜釣りなんて、気心の知れた街の連中には何かあったとバレバレのようだ。すぐに笑われてしまい、内心面白くない。そんななか、容赦のない青果屋夫妻の声が飛ぶ。
「お前は、まぁた母ちゃんとやりあって、釣りに逃げてんのか」
「アルクも、早く孫の顔見せてやりゃいいのに」
「あーあー、うるせぇ爺婆だな。ちょっと三毛の晩飯捕りに行くだけだ!」
「飼い猫にうつつをぬかして、嫁を取り損ねたなんて、笑い話にもなりゃしないよ」
「へいへい、悪ぅーござんした!」
「アルク!!」
本気の大目玉が飛ぶ前に、そそくさと海へと足を運ぶ。
あと少し行けば店や家なんかもなくなって、海へ向かう一本道をいくだけだ。あの夫婦は気がいいんだが、どうもお節介すぎるきらいがある。最後に「この馬鹿っ」と言って投げられた真っ赤なエプリなんか、抜群のコンディションで頭へ当たって目に星が飛んだ。
「あんのババア、こんな物投げてよこしやがって」
腹立ちまぎれに思いっきりかじりつくと、シャリッと小気味のいい音がした。
なかは蜜をたくさん蓄えていて、少しかじりついただけで果汁がしたたり落ちた。視界にちらちら浮かぶ赤を無視してエプリを齧っていると、だんだん赤い部分は無くなってくる。白へと変わりつつあるこの実を見ていると、本当に色々記憶が掘り起こされて参ってしまう。海へついてさっそく竿を垂らすが、当然あたりなんて来るわけがない。しばらく気晴らしになれば上等という気持ちで、魚がかかるのを待ってみる。
「アルクさん!」
「あんだ。今日は、お節介なやつにばっかり構われる日だな……」
釣りをしている人間を驚かすなとか、大声を出すと魚が逃げるとか言いたいことは山ほどある。……だが、それ以上にまた説教かと思えば、気が重くなってため息が出た。竿を垂らしている後ろから、なじみの娼館で使いっぱしりをやっている少女がかけてくる。
「まだ何も言っていないのに、ため息をつかないでください!」
「あー悪かった。謝るから、餓鬼は早いとこ店へ帰れ」
「そんな風に、追っ払わなくてもいいじゃない!」
少女が膨らませた頬にはそばかすが散っており、彼女にこれから待ち受けているであろう未来に胸を傷めずにはいられない。幼いのにあんな所でしか生きていくすべがないのは、なかなか酷な話だろう。娼館に世話になっている側としては、偽善だとしても同情せずにはいられない。たとえそれが、珍しくない話だとしても。中で何が行われているか痛いほどわかっているから、変な罪悪感があり生意気ながきんちょ相手でも適当にあしらえない。
思わず、ガラにもなくしゃがみこんで目線を合わせる。
「悪いがな、唯一持っていたエプリの実は食っちまったんだわ。お前だってどうせ、店主の強欲婆の使いで店から街まで来たんだろ?早く帰らないと、また叱られっぞ?」
「別に、何か欲しくて声かけたんじゃないよ」
「そりゃあ、俺だってお前と話すのは嫌いじゃない。だが、もう少しもすれば暗くなる。ケチな野郎に絡まれるのは、お前だっていやだろう?トルディスだって心配するぞ」
「だって、珍しくアルクさんに会えたのに……。トルディス姉だって、寂しがってたよ?」
思いがけず出た名前に、ドキリとする。
幼馴染だったトルディスは、両親を亡くしてから娼館で働いている。この少女は、そんなトルディスの下で使いっぱしりをしているのだ。紅い髪にそばかすの散った顔なんて、まだまだ乳臭いことこの上ないが、ゆくゆくはトルディスのように立派に客を取るようになるのだろう。
トルディスも紅い髪で、そばかすのかわりに真っ赤な頬をした少女だった。
彼女の両親が死ぬまでは、幼馴染としてしょっちゅう言い争いをしていたのも記憶に新しい。それが、あんな場所で肌を合わせるようになるとは、思いもしなかった。
「―――ちょっと、漁で遠出してたんだよ」
「遠出って言ったって、もう何日トルディス姉に逢いに来てないの?最初の頃は、毎晩のように通ってたんでしょう?」
「あいつが、寂しくてしょうがねぇって、ぴーぴー泣きやがるから、通ってただけだ」
「何その言い方!私やっ、トルディス姉の気持ちなんて知らない癖に。偉そうにしないで!」
鼻を赤くして、目まで涙目なその姿は、全身真っ赤で思わず笑ってしまう。
あいつもよく、俺に言い負かされそうになるとこんな顔をしていた。機嫌を取るにはいつも赤いエプリを森からもいでくるのが恒例で、間違って甘くないのを渡したときは、しばらく口すらきいてくれなかった。
「あーあー、そぉーんなに顔から何まで真っ赤に染めてりゃ、うちの三毛の方がよっぽど色っぽいから、襲われる心配なんてなさそうだな」
「み、三毛って、もとはトルディス姉が飼っていた老猫でしょう?」
「嗚呼。だがあいつはお前なんかより、よっぽどいい女だね」
トルディスは最後まで三毛を心配していたようだが、俺からしたら目の前の少女の方がよっぽど頼りない。あそこの娼館では一人一人に使いっ走りとなる子どもがついており、その教育は先輩となる周囲がするはずだ。……ということは、この少女の教育はトルディスがやっているはずなのだが、どうも甘やかしすぎているきらいがある。どんどん夕闇に染まりつつある海辺を見ても焦らない所を見ると、おせっかいながら忠告してやった方がいい気がしてきた。
「……こいつは、トルディスに報告だな」
「な、なによ!自分だって仕事せずにふらふら釣りしているくせに、トルディス姉にサボっていたって言う気!?」
「あー、ごちゃごちゃうるせぇ餓鬼だ」
漁師の中には夜釣りだなんて言って、わざと夜に仕事をする奴らもいる。
けれど、この辺は地形から言っても夜釣りに向いておらず、危険ばかりで実入りが少ない。ちょっと気晴らしするには向いているから時々来ちゃいるが、さほど真面目にやるつもりがなかったこちらに暗闇は不利だ。
持ってきたランプもさほど蝋が残っていないし、長くは続けられないだろう。
大見栄きった手前、ボウズで帰るわけにもいかない。小魚でも何でも捕まえなければと、焦りつつ竿をふる俺の背中に軽い衝撃が走った。
「何さっ。そんなんだから、いい年してお嫁の一人も来ないんだよ!」
「っとに、なんなんだ今日はみんなして嫁だなんだって……」
「アルクさんは乱暴で口が悪いけど、トルディス姉とはお似合いだってこっそり応援していたのに、見損なったよ!」
「うっせぇ、余計なお世話だ!」
荒い言葉を返したところで、さらなる物理攻撃がやってこなくて首をかしげる。
何時もこうなると、バシバシ人を馬かなんかのように蹴るわ叩くはしてくる。そんな奴がどうしたのかと首を巡らせると、そこにはさっきとは比べ物にならないほどか弱げにふるふると肩を震わせ奴がいた。
「おい、どーして蹴りいれた方が泣くんだよ」
「……トルディス姉、前にもましてお客を取るようになって、たまの休みすら無くして頑張ってるんだ。その上、最近では前にもまして痩せちまって、」
涙で滲んだ言葉を解放してやるように、ぐしゃぐしゃと頭をなでてやる。
こいつが、トルディスのことを実の姉のように慕っているのは、薄々感づいていた。確かにこいつはまだ青くせぇ餓鬼だが、そこいらの子どもよりも遥かに現実の汚さや辛さを知っている。
トルディスが売られていったのは娘盛りの頃だが、こいつはそれより早くに親元を離れることになったのだ。くそったれな世間は、こいつらを食い者にすることは考えても、助けの手を伸ばそうなんてしない。ましてや、無償のものなんてありゃしない。
トルディスが娼館に入った時こそ、くそったれな世間を唾棄してみたもんだが、今では己もそのなかの一部なんだと嫌になるほど実感した。
徐々にあたりが夕焼けに染まるなか、娼館からわずかにみえた海は特別赤く見えたもんだとなんという気なしに思い出す。
海が好きだと笑うトルディスは、今ではあんなみみっちい海しか見えない場所で戦い続けている。―――まったく、どいつもこいつも俺の気なんて知らずに、好き勝手言ってくるのだから本当に嫌になる。
「おい、餓鬼」
「ちょっと、私は餓鬼って名前じゃ……」
「そんな事より―――トルディスへプルァ島の『ナイナムの花』が咲きそうだと、伝えてくれ」
「ナイナムの花?何それ、何のこと言ってんの」
「いいから、そういえば分かるから。絶対に伝えろよ?後、飯はちゃんと食えって言っとけ」
「そんな事、自分で伝えなよ!トルディス姉へ逢いに来てよっ」
聞き分けの悪い餓鬼に、いい加減イライラしてきた。
本当に、こいつは人の計画を根本から破壊する気かと、八つ当たりめいた考えまで浮かんでくる。
「大人には、いろいろ事情ってもんがあるんだよ!それも分からねぇ様なガキは帰って糞して寝ろっ」
「っっ、ばぁーか!!」
バタバタと走る後ろ姿に、一瞬悪いことをしたかと思ったが、いい加減こちらもキレていいだろうと黙認することにした。イライラとしたまま釣った小魚は何ら珍しいものではなく、三毛へ持って行ってみたが見向きもしない。しょうがないから自分の夕飯用として焼いてみたはいいが、小骨が歯に挟まるばかりで、うまみなんてほとんど感じられなかった。
頭ごと齧りつく俺を不憫に思ったのか、自分の食事を終えた三毛が珍しく俺の膝へ上ってくる。背を撫でて喉や耳を掻いてやると、機嫌よさそうにごろごろ喉を鳴らすのだから憎めない。
「―――三毛のためにも、早く金貯めて『あいつ』を見受けしてやるからな」
トルディスが客を取り始めた頃こそ毎晩通っていたが、そんな無茶をやらかしていたら金が底をついた。あそこの娼館はまぁまぁ有名な店で、もちろん値段もべらぼうに高い。時々軍人や国のお役所連中なんかがやってくることもあるらしく、餓鬼の様子を見る限り、酷い扱われ方はしていないようだ。
そこで、俺はくだらないプライドや理想は捨てて、地道に未来への努力をすることにした。
あいつに逢いに行く時間を極力減らし、見受けするための金を貯め始めたのだ。惚れた女をすぐに助けてやれないなんて歯がゆくてしょうがないし、他の男に触られていると思っただけで胸糞悪い。
だが、あいつのすべての時間を買いとるなんて無茶な話だし、そのためには仕事だってサボるわけにはいかない。親父どもには嫁もとらないで娼館で遊んでいると思われているようだが、俺はトルディスのことをどうしても諦められなかった。
彼女が飼っていた三毛を見るたびに、その意思を強めていると知ったら、きっと親父たちは呆れかえることだろう。最近ではとんとご無沙汰になっているトルディスの代わりに、三毛の背を何度も撫でる。
「トルディスは、三毛が知っている頃よりだいぶ色っぽくなったから、きっとお前も驚くぞ?」
もしかしたら、匂いはあの赤毛のチビな飼い主と同じなのに、見た目は全然違うと混乱するかもしれない。……それだけの時間、あいつは苦労と我慢をしてきたのだ。
「早く、嫁さん欲しいなぁ……」
そんな切実な呟きの意味も知らず、たまたま横を通りがかった親父が余分な茶々を入れてきたので、一発軽く蹴っておいた。その後、それをみたお袋に殴られて散々な日だとため息を吐いた。
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娼館に戻った私は、さっそくトルディス姉に今日の出来事を報告した。
私はまだ見習いだから、割と自由に出入りできるけれど、お客を取るようになれば話は別だ。いつも行動を制限されて、「満足に買い物すらできやしない」とよく姉さんたちは愚痴っている。
自由に店の外へいけない代わりに、私のような見習いがお使いに行ったり、商人なんかが娼館までやってきたりする。他の姉さんたちは、自分の稼ぎでいろいろ買い物をしたりしているけれど、トルディス姉は「少しでも早く、お金を貯めたいの」なんて言っていつも頑張っている。
花の油は貴重だから、少しだけ姉さんの髪へ垂らして丹念に櫛を通す。
姉さんの中にはトルディス姉より稼ぎのいい人もいるけれど、私は彼女の髪をこうして梳くことが出来るのが自慢だった。色は私と同じ赤なのに、トルディス姉の髪はキラキラと輝いている。肌は白くて、唇は薄紅色。そのままでも十分魅力的なのに、鏡越しに化粧を施すその顔は、寝物語に聞いたお姫様のようだとうっとりする。これで着ているのが肌が透けそうなネグリジェではなく豪華なドレスなら、間違いなくお姫様だ。
「―――それで、アルクとどんな喧嘩をしたの?」
「それが、あの人ったら聞いてくださいよ!自分が飼っている三毛のほうが、私より色っぽいなんて言うんですよ?」
「あら、うちの期待の新人を差し置いてそれは失礼ね」
「そんな……私なんて、アルクさんがいうように、ただの使いっぱしりですよ」
くすくす笑う姉さんは楽しげで、これなら元気づけるためわざとアルクさんに会いに行った甲斐があるというものだ。「まぁ、三毛は確かに可愛くて利口だったけれど」なんて笑うトルディス姉は、昔を思い出しているのかわずかに表情が陰った気がする。
何とか元の明るい顔に戻したくて、さらに言葉を続ける。
「嗚呼、それから不思議な謎々みたいなことを言ってました」
「……なぞなぞ?」
不思議そうに首をかしげながらも、楽しそうな顔が嬉しくていろいろ話す。
トルディス姉は、新しいお菓子や新作のドレスの話をするよりも、あの失礼なおじさんの話をしているときが一番楽しそうなのだ。
「トルディス姉にプルァ島の『ナイナムの花』が咲きそうだと、伝えてくれですって」
「はな、が……」
「えっ、トルディス姉、突然泣いたりしてどうしたの?」
「―――花が、やっと咲いてくれるのね」
ボロボロと涙をこぼす姉さんの顔は、化粧が半端に落ちても綺麗だった。
後で教えてくれたことだけれど、プルァ島の岩盤には『ナイナムの花』と呼ばれる植物があり、海の潮が満ち、花弁に塩水がつくことで初めて花を咲かせるらしい。
そんな珍しい花があることも驚きだったけれど、どうしてそれが泣くほど嬉しいのか私にはまだ分かっていなかった。
……そして、その涙の理由が本当の意味で分かったのは、数日後にトルディス姉がアルクさんに身受けされていく時だった。潮が満ちないと咲かない花が咲くということは、『時が満ちた』という意味が隠されていた。
私は嬉しそうなトルディス姉の横で、いたずらっ子みたいに笑うアルクさんを幾度も思い出して、何とも言えない気持ちでいた。そんなこちらの顔をみて、新しくお世話させていただく姉さんにまで笑われてしまった。
「アルクさんも、人が悪いですよね。もっと早く意味を教えてくれていたら、あんなふうに蹴ったりしなかったのに」
「あら、お互いに逢いたい気持ちを抑えて身受けのお金を貯めるなんて、意外とロマンチックじゃない」
「……わたしも、そんな人見つけられますかね?」
トルディス姉さんたちのような関係は、とても特異なものだと分かっているのに聞かずにはいられなかった。私が今回ついた姉さんは、トルディス姉より年若い時にここへ売られてきたのだという。アルクさんが迎えに来たとき「わたしよりも、貴女の気持ちを分かってくれるんじゃないかと思って、今後のことお願いしておいたから頑張ってね?」なんてトルディス姉に言われた時は、その気遣いが嬉しくて涙がでた。
思わず口にしていた言葉は、どんなものを期待したのか自分でも分からない。
姉さんはここの厳しさを知っているから、これから自分を待ち受けているであろう哀哭の日々を知りたいのか、微かな希望に想いを馳せたいのか。自分の気持ちすら分からないまま口にした言葉に帰ったのは、期待以上のものだった。
「―――そんなの、頑張ってみなきゃ分からないわよ」
「がんばる……」
「そう、トルディスはたまたま良い縁に恵まれただけ。でも、縁に恵まれるにはそれ相応の努力だって必要になってくるの」
「私たちの人生は、運まかせってこと?」
不満に思って唇を尖らせた私に、姉さんはくすくす笑いながら飴玉をひとつ食べさせてくれた。驚いて目を見開くと、「トルディスのお祝いに買ったんだけど、少し余ったから」なんて笑ってる。ここの人たちは仕事をしていない時、やつれているか眠たそうにしているのに、化粧前の顔はキラキラと輝いていた。
「努力が必要だって言ったでしょう?どんなに素敵な人に出逢っても、自分の状況が悪ければ結ばれないかもしれない。そもそも、選ばれることすらなかったら、運なんて関係なくなってしまうわ」
「じゃあ、姉さんはいつか訪れる良縁のために、自分を磨いているの?」
姉さんは、この娼館で一、二を争う人気を誇るのだ。
ただ体や性技を磨くだけではない。情報通で会話にも事欠かないし、戦いで高揚した男の人たちも安らげるようにと、香や楽器にすら精通している。
当然「そうだ」と帰ってくると思った答えは、深い笑みに打ち消された。
「―――さぁ、どうかしらね」
「あ、姉さんここにきて内緒にするの?意地が悪いわっ」
「ふふっ。まぁ、せいぜい私たちもトルディスのように、いい人を捕まえられるように頑張りましょう。最初だけ尽くす男は五万といるけど、お金持ちでもない男が人生をかけてまで迎えに来てくれるなんて早々ないのだから」
「……じゃあ、お金持ちで優しい人を選びます」
「あら、甘やかされたボンボンなんて、いざ不測の事態に立たされたら簡単に裏切るわよ。もっと骨のある『本物の男』を見つけなさい」
向けられた言葉に黙ってうなずく。
トルディス姉が言っていた通り、やっぱりこの姉さんはすごい人だ。今のは仕事中の計算尽くされた艶やかさとは対極にあるような顔だったのに、力強いまなざしに心を奪われた。さすが、トルディス姉は人を見る目があると思いながら、私ももっと努力しなきゃダメだなぁと考えていた。
「恋しい恋しいと歌うのは、何も海鳥だけじゃない。
荒々しい海の中でがむしゃらに生きる花たちだって
愛しい者のために謳うのよ」
そんなトルディス姉の言葉を何故か、思い出しては自らを奮い起こした。
次話は、とある学生たちの物語です。




