きっと、あなたが想う以上
それを夫に言い渡されたのは、数十日前のことだった。
どうやら、今回私は夫と共に国王陛下主催のパーティーへ招待されているのだという。何せ、国の主要人物が集まるパーティーだ。もっと以前から招待状が届いていたことは疑う余地ないが、イファムート様は相当抵抗したのだろう。「ドレスをはじめとする手配はもう済ませているから、お前はせいぜい家名を汚さぬよう気をつけろ」なんて、苦々しい表情で宣言された時は、本当に肝が冷えた。
普通、国主催のパーティーともなれば、1シーズンどころか2シーズンより前から準備を進めるものだ。何か粗相があっては困るし、ここぞとばかりに貴族たちは自らの資産をアピールするように飾り立てるのだ。数日そこらでできることではない。
忙しさにより、不安で押しつぶされそうな自らを何とか保っていたような日々も、ようやく終わりを迎えた。夫はさすが抜かりがなかったようで、こんなこともあろうかと前々から準備を進めていたらしい。いつの間に用意をしていたのか?とか、聞きたいことは大地を埋め尽くすブナの葉のように心へ降り積もったけれど。……そうまでして参加を渋っていたのかと思えば、深く追求することはできないでいた。
何はともあれ、無事今日という日を迎えられてよかったと、鏡へ笑顔を作っていた所で夫が部屋にやってきた。
「そろそろ時間だ」
「はい、今日はよろしくお願いします」
「今回は、国王陛下から直々に御招きいただいたから『致し方なく』お前を連れていくが、くれぐれもご無礼のないようにしろ」
「畏まりました」
なるべく、会場の隅で目立たないようにしていよう。
きっと夫はいつもの如く仕事で忙しいだろうし、私がいては話しづらい話題も多いだろう。内心、面倒な人たちの相手をしないでよいことに安堵の息をこぼしながら、朝よりも軽くなった足でドレスをさばき会場へ向かった。
会場について国王陛下へのあいさつを早々に済ませると、夫は「くれぐれも粗相のないように」と、怖い顔をして背を向けた。凛とした後姿は、さほど筋肉質ではない夫の背中をいつもより大きく見せている。元軍人だった侯爵家の方と並んでも引けを取らないそのさまは、さすがとしか言いようがない。体つきは違うのに、堂々たる振る舞いは女の私が見てもすごいことなのだと分かってしまう。
屋敷とは異なる『仕事中の顔』をちらちら盗み見ているのがバレているのか、時々鋭い目線でにらまれてぱっと顔をそらす。
そんなことを何度かつづけた頃だった。自らの顔を売ることや、腹の探り合いをするのに誰も彼もが大忙しな合間を縫って、ズンズンとイファムート様がこちらへ歩いてきた。少し不機嫌そうな顔はすでに仕事中のそれとは違っていて、何事かと身構える。
「お前に挨拶したいと、煩い人間を連れてきた」
夫の言葉を皮切りに、私と同じか少し大きいくらいの背丈の男の子がニコリと彼の後ろから顔を覗かせた。人懐っこそうな少年が夫と並んでいるさまは少し違和感があって、まじまじと見つめてしまう。こんな感情を以前も味わったことがある気がして、必死に頭を巡らせる。
「奥様とは、以前に一度ごあいさつしたきりになっておりましたね。改めてイファムート様の右腕として働かせて頂いております、ロハンと申します。今後お会いする機会も増えるかと思いますので、どうぞお見知りおきを」
恭しく礼をする少年は、その見た目よりずいぶん早熟して見えた。
もしかしたら、私が考えるより年齢が上なのかもしれない。少年に言われて初めて、以前少し顔を合わせたことがあったのだと納得した。
「まぁ……、主人がいつもお世話になっております」
「こいつの面倒を見てやっているのはこちらだ。そんなことより―――」
人が挨拶しているのに、そんなこと呼ばわりですか。そうですかと、うなずくロハンを無視して、すっと夫が一歩近づいた途端、少年の姿は見えなくなった。そして、険しい表情の夫にお叱りを受けきゅっと身を縮める。
「おい、少しは大人しくできないのか目障りだ!」
「も、申し訳ありません……」
叱責を受けるのが恐ろしく、舞踏会という公衆の面前で非難される羞恥心も忘れてさらに縮こまる。彼は仕事上の縁者に挨拶している最中だというのに、会場の端でどうしようかとうろつく私は目障りだったのだろう。こんなことなら、出席を辞退しまえばよかったと後悔した。いつの間にか周囲の喧騒はなくなっていたのだけれど、その時の私に気付く余裕などありはしなかった。ただただ、申し訳なくて縮こまる。
夫の迫力にはどうしても慣れなくて、こうやって糾弾されるとどうしていいのかわからない。何時ものように、なるべく声が震えないように気を付けながら再び謝罪の言葉を重ねようと思った時、澄んだ声が私の言葉を遮った。
「可愛らしい奥様が殿方に声をかけられていると、おちおち仕事相手に挨拶することも出来ないから、どうか壁の華になっていてくれとおっしゃっております」
「…………」
まるで聞いたことがない言語を聞いたような気持ちで、夫の後ろに控えているであろう少年を覗き見る。今聞いた言葉をそのまま真実だと思うことなど到底できる訳もなく、いっそそんな勝手なことを口にして、主人の怒りを買わないのかとハラハラしてしまう。後ろに控えた少年は、目があった瞬間ニコリと笑うと、「口下手なイファムート様の代わりに、気持ちを代弁させていただきました」なんて平然と答えて見せた。
驚きの発言に続く、慇懃無礼とも取れる振る舞いに、主人はどんな表情をしているのかと恐る恐る顔を夫まで移した。……そこには、まるで拗ねた男の子のような表情をした男の人がいて、今度こそ目を丸めた。
しかし、驚きはここでとどまらなかった。
「どうせなら、ダンスの誘いなど断って、甘味でも味わっていてはどうだ?知ってのとおり、俺はここにあるようなしゃれた菓子を用意してはやらんぞ」
「テスタ様が他の殿方と踊る姿など見たくはないので、お菓子を召し上がってはいかがですか?自分は甘い物が得意ではないから、用意することが出来ないためゆっくり味わってください」
「……あの、ダンスは、私も得意ではないので」
つい、どう返していいかわからずどもってしまった。
何せ、烈火のごとく怒りだすかと思った夫は、まるでロハンの声が聞こえないかのように全く反応を示さないのだ。もはや、その発言が真実かどうかよりも、この異様ともいえる光景に対する戸惑いのほうが色濃かった。これは私がおかしいのかどうなのか、嫌に静かな周囲をうかがってみようと視線を泳がせた途端、再び声をかけられ肩を揺らす。
「ふんっ、限度をわきまえれば、料理にかじりつく妻の姿にも目をつぶってやろう」
「体調を壊すほど召し上がらない限り、テスタ様が満足するまでどうぞお楽しみください」
「あ、ありがとう……ございます?」
そんなに私は、食い意地が張っているように思われているのだろうか?
そもそも、少年は何を根拠にこんな発言をしているのか。頭の中を疑問ばかりが占め、呆けた顔をする私へまた夫の叱責が飛んでくる。
「―――それにしても、なんだそのドレスは!ショールをかけている時ならまだしも、肌の露出が多いんじゃないか?」
「魅惑的なドレス姿に、ドキドキしてしまいます。ショールをしているからと安心していたのに、他の男の目に貴女の素敵な姿を見せているかと思えば嫉妬してしまいそうなので、隠していてくだっ、……痛っ!」
何するんですかと目に涙を浮かべる少年だったが、彼を気遣う余裕がない。
まさか、ショールひとつでそんな反応をされるとは思わず、ぎゅっと胸元を強くつかむ。そんな私の行動に目元を赤くしたかと思うと、夫が厳しい表情で後ろにいるロハンの頭を思いっきり殴ったのだ。
「お前が余計なことを言うから悪いんだ。あと、軽々しく人の女房の名を呼ぶな」
「うっわ!実はイファムート様って独占欲強いタイプだったんですね。奥様も大変だなぁ」
「じろじろテスタを見るんじゃない」
「今までは、便利だと思って黙っていたくせに!」
「うるさいっ」
少年と言い合うその姿は、まるで普段の夫とは違う人物のように見える。
私といる時はいつもどこか不機嫌そうで、くつろいだ姿すら見たことないというのに悲しくなってしまう。身も心も休まる場所を用意しようと、彼の好きな料理や色、香りにいたるまで気を使っていてもどこか難しい顔をしていることが多くて、この頃はいっそ妻失格なのではないかと考えだしていた。
うつうつと落ち込む気持ちに混じって、少年に対する嫉妬心のようなものが浮かんでくる。
本当は私も、イファムート様と気安くおしゃべりしたりお茶を飲んだりしてみたい。それが自然にできているロハンが、心底羨ましい。
「第一、いつも奥様にそんな風に話しかけていたんですか?」
「……なんだ、悪いか」
「僕は、まるで喧嘩をしたいのかと思いましたよ」
「そ、それは……」
「よくそんなので離縁状を突き付けられませんでしたね!奥様が我慢強いことに、僕は今とっても感謝してます」
「離縁状……」
夫が碌に口をはさむことが出来ないまま、口ごもる姿を初めて目の当たりにした。
もう驚きの連続で、もしかしたら私が知らないだけでこの少年は大物なのかもしれないと凝視する。
離縁状なんて……私の方がよっぽど離縁を切り出されるのではないかと考えていたのに、すっかり黙り込んで落ち込んだように見えるイファムート様に、不謹慎ながら嬉しくなった。
「旦那様……」
「テスタ……」
そっと近づいて背中へ手を添えると、力ない瞳がこちらを見下ろしてきた。
ともすれば可愛らしくすら見えるアイスブルーのその瞳は、初めて見るものでドキドキする。普段なら、相手の心の底まで見透かしてしまいそうな、強いまなざしなのにどうしてこんなことになっているのだろう?
「奥様、あまりイファムート様を甘やかせては駄目ですよ!いくら自分の気持ちを明かすのが苦手だからって、あれではまともに会話すらできないじゃないですかっ」
「うっ……」
「会話、できない……」
思わず口ごもってしまった私を見て、「そうか、俺のせいで口数が少なかったのか……」なんて彼が落ち込んで焦ってしまう。もちろん、イファムート様が話しやすいタイプだなんて言えないけれど、メイドと会話するのを見てうらやましかったなんて言われても、同じように言葉を交わすなんてできない。
どう気持ちを伝えればいいかと悩んでいる間にも、会話はどんどん続いていく。
「本っ当に気を付けてくださいよっ?奥様に見捨てられたら、うだうだ、ぐじぐじ言うこと間違いなし!なんですから」
「み、見捨て……られ、る」
まるで雷に打たれたように固まった後に、恐る恐るこちらをうかがってきた旦那様の瞳は、わずかに水気が増している気がした。何時も自信満々な彼のそんな表情は初めて見た。人に弱みを見せることを嫌う夫の憐れみを誘う顔は、ギュッと胸が締め付けられる。
―――私が、彼を守って差し上げなければ。
これまで浮かんだことのない使命感のような想いが、胸を満たしていく。
今までは常に夫がいない間、家を守らなければいけないと考えてきたけれど、彼を守るなんておこがましく感じていた。しかし、この場で彼を守れるのは私しかいないのだと思えば、どんどんやる気がみなぎってくる。
貴族の妻としては夫のそばに控えて大人しくいるのが正解かもしれないけれど、時には戦わなければならないときがあるとお母様も仰っていた。尊敬するお母様の言葉を胸に、勇気を奮い起こさせる。
「た……確かに、私たちは世のご夫婦より会話が多いとは言えませんが、旦那様はどんなに疲れて遅く帰宅なされても、お話しする時間を下さいますし、」
「あの様子を見ると、どうせ一方的な質疑応答形式か、注意をされる程度でしょう?」
「そ、そんな事はありません!」
自身の言葉を遮られたことよりも、少しでもイファムート様に対する不名誉な疑いをぬぐわなければと手をぎゅっと握る。旦那様はすっかりおとなしくなって肩を落としてしまい、大きな背中も小さくすら見える。
「旦那様はいつも私を気遣ってくださいますし、この前だって……」
記憶に新しい、嬉しかった出来事を回想する。
あれは、パーティー招待のことを知らされる少し前のことだ。
近頃はすっかり帰りの遅くなった夫は、今考えてみればきっと今日という日のためにいろいろ忙しくしていたのだろうと想像できる。
しかし、そんなことも知らない私は、何か私が粗相でもして彼を怒らせてしまったから帰宅が遠のいているのではないかと、不安でいっぱいだった。遅くまで夫を待っていたり、思い悩んでいたのが悪いのだろう。まんまと私は風邪をひいて寝込んでしまった。
「もうし、わけ……ありまっせん」
かすれた喉を酷使して、ベッド際まで来た夫へ謝罪する。
何時も厳しいまなざしに、ほんの少し不安げなまなざしが混じっている気がして迷惑をかける自分を心底恥じた。ただでさえ彼は忙しくしているのに、妻である自分がこんなことで寝込むだなんて情けない。自らの不甲斐なさに、「身の置き場がない」と思っていた私の頬へそっと大きな手が触れる。
ぎゅっとつぶっていた瞳を開くと、夫は「まだ熱が高いな……」と言い、濡れた布を額へ乗せてくれた。そのあと一晩中看病してくれたから、今日こうして元気にこの場に参加することが出来ているのだ。
「旦那様が忙しく働いていらっしゃるというのに、熱を出してしまった私へ『深夜まで私をまっているから体調を崩したのだろう。お前のせいだけではないからゆっくり休め』なんて気遣ってくださいました!」
普段厳しいイファムート様の優しい言葉は、不思議なほどに心を軽くしてくれた。
どれだけあの言葉が嬉しかったかしれない。熱い頬がさらに熱を持ったのは、何も風邪のせいだけではなかった。
「わざわざ厨房で、私のためにリンゴをすりおろしたのを作ってくださいましたし!」
「やけに変なところへ怪我していると思ったら、リンゴと一緒に手もすりおろしたんですか……」
少年はあきれたように彼を見るけれど、私にしてみればそこまでしてくれたのかと胸が熱くなる。あの時は熱が高くて気づかなかったけれど、どこか疲れた様子だったのは慣れないことをさせてしまったからなのかもしれない。あの時は朦朧とした意識のなかで夫に移してはいけないと必死だった。気遣うつもりが「風邪をうつしては大変なので、出て行ってください」なんてそっけない表現をして、不機嫌に曲げられた口元をみて萎縮したのも記憶に新しい。
こちらを心配してくれているのに、『なんて言い方をしてしまったのだろう』とずっと気になっていた。けれど、あんなことを言っても朝まで看病してくれたことや、今日の話を集計すれば……もしかしたら、拗ねていたのかもしれないという自惚れた考えが浮かんでしまう。
「それにしても、リンゴひとつまともにすりおろせないなんて、根っからの貴族ですね。もう少し色々自分でできるようにしないとだめですよ?」
「め、面目ない……」
「そ、そんなっ!」
これだけイファムート様の素晴らしさを語っているというのに、まだ否定するようなことをいうロハン君にだんだん腹が立ってきた。こちらをうかがっている多くの視線にも気づくことなく、私は反論しようと口を開いた。
「そんなことはありません!だって、体を動かすのも辛いだろうと、優しく食べさせてくれたじゃないですか!」
私が声を上げた途端、一斉に会場中の人がこちらを向いた。
大きな声を出しすぎたかと赤くなる私に対し、イファムート様はあきれたのか手で顔を覆ってしまう。極めつけは、「うわぁ……自分の上司のそんな姿想像したくないのに、想像してしまった」なんてロハン君がげんなりした顔しているから、本当にまずいことをしてしまったと反省する。周囲もどこか痛々しいまなざしで見ている気がして、マナー違反をした私を物言わず攻めているように思えて恐縮する。
こんなに騒いで誰かに怒られないかと周囲に目を走らせたとき、上座から威厳のある声が聞こえてびくっとする。
「……イファムートは口下手で心配していたのだが、何だかんだでうまくいっているようで何よりだ」
そんな国王陛下の一言で、会場中が笑いに包まれた。
自分がしてしまったことの大きさに震えていた私は知らない。のちに『世界で一番愉快な夜会』と語り継がれ、イファムート様夫妻は国一番仲がいいと呼ばれるようになるだなんて。
「……きっと、貴女が思っている以上に、俺は貴女を好いているぞ?」
「そ、そんな事をおっしゃるなら、私だって貴方が想ってくれている以上に、貴方の事が好きです!」
「---そんな会話は、二人っきりの時になさってください迷惑です。こらっ、見つめ合ってないで人の話聞けやバカ夫婦!」
次話は、約束にこだわる恋人たちの話です。