スティンガー 後編
今年も一年お世話になりました。
再び長くなった作品のため、前後編に分けます。
仕事にも男にも逃げ場がなくて、空虚な気持ちを抱いていたときに、初めてあの店を訪れた。会社から徒歩で来れるこの距離は、あまり好ましくなかったけれどかまわなかった。彼氏とけんかし、憂さ晴らしも兼ねていたのかもしれない。癒しを求めてふらりと目についた店へはいった。
だから正直、たまたま偶然が重なって空いていたあの男が私の横に座った時は、何の嫌がらせかと内心嘆いた。どうせなら、もっと優しく可愛らしい男に慰められたかったのに、相手は可愛さとは真逆の愛想すらない男だった。
思い切りの良い啖呵を切った日から数日、私は妖艶な女を演じるべく研究を重ねた。勝負に勝つには、できるだけボロを出さないように早めに店を出るのが利口だろう。
色々不安は残るものの、あまり時間をかけすぎて彼に賭けの内容を忘れられるのも悲しいからと、次の休みには全身を磨いた。
普段はいかないエステにも行ったし、夕方には美容師だった友人に頼んで髪をセットしてもらった。めかしこみ出迎えた私を見て彼女は驚いていたけれど、すぐににやりと笑って見せる。
「お見合いパーティへ行くなら、きちんとした美容院とかに行ったほうがいいんじゃない?」
「違うの。けど……どうせなら、私のことをよく知っている人にセットしてほしくて」
「あら、じゃあおめかししてデート?」
いたずらに笑う彼女のかわいらしいえくぼを見ながら、なぜか嬉しくなって笑顔のまま首を振る。
「ううん、振られに行くの」
そういった途端、彼女はわずかに眉を寄せた後に普段と変わらない表情に戻る。
さすが、客商売をやっていただけのことはある。今は産休だといっても、その姿勢は変わらないようだ。訳ありだと気付いて深く追求しないでくれる優しさが、今はありがたかった。「こんなにいい女を振るなんて、見る目がないわ」なんて、軽く怒って見せる様子に、首をすくめてみせる。
「でも、きちんと気持ちを伝えたいほど好きになった人なのね」
「―――うん」
彼女がえくぼを浮かべながら、笑ってくれるのを見るのが好きだった。
だから、こんな時でも変わらずそんな表情を見ることが出来ると思えば、男一人に振られることなどなんてことないのだと思える気がした。
扉を開け、「こんにちは」と挨拶一つにすら気を遣いながら歩みを進める。
早速迎え入れてくれたボーイの男性が、おやっといった様子で視線を走らす。普段愛想が良くも、お行儀良い対応をしてくれる彼にしては珍しい行動に、笑みを刻む。彼は屈強なその見た目に反し、気遣いのできる人なのだ。ひそかにお気に入りとなりつつある存在の好意的な笑みに、早くも勝利を確信した。
今回の賭けは、仁に指摘された通り我ながら訳の分からないものだと思うけれど、肝心なのは私という女を彼に印象付けることと、普通では到底得られない思い出を得るためだ。勝ったときの罰ゲームは随分とこじつけだったとは思うけれど、なかなかいい判断だったろう。
「今日は、一段と御綺麗ですね」
「あら、ありがとう」
何時もであればもう少し気軽に話すことができるのだけれど、今日だけはボロが出そうで言葉少なに返す。もう、勝負は始まっていた。家で支度を整え、髪をセットし終わった瞬間が戦闘開始だった。いくらなんでもそこまで演技上手じゃないから、ここに来るだいぶ前から気分を上げておかなければならなかったのだ。なにせ、一番手ごわい存在を相手取るのだ。十分に備えておきたかった。
「今日は、ずっと勝てない『ラスボス』相手に初勝利をおさめて見せるわ」
だから、見ていてね?っと悪戯めかして笑ってみせると、「貴女が本気を出せば、わが店の『キング』とはいえただでは済まないでしょう」なんて言葉とともに背中を押してくれた。彼は私にとって、『キング』というより大魔王やラスボスといった表現の方がしっくりくるのだけれど、お気に入りのボーイに言われれば言い得て妙だ。
「さぁ、お嬢様。貴女のご到着を待ちわびたあの方が、お迎えを寄越したようですよ」
「ふふっ、お嬢様なんてガラじゃないのにね」
「いえいえ。今日の貴女なら、『バタフライナイト』のナンバーワンですら、恐れをなすことでしょう」
「あら、褒めすぎね」
奥からやってきた新人の男の子が、わずかに頬を染めたことで、見え透いた褒め言葉すら心地よく感じてしまうのだから不思議だ。この界隈でも有名な『バタフライナイト』には腕利きのホステスがたくさんいて、同業者であるはずのホストたちですらそそられるなんて噂するほどだ。
『バタフライナイト』なんて名前に似合いの、数多の男という蝶たちを招きよせる匂い立つような美人たちに例えられ、自分の演技もさほど悪いものではないのかと思えてきた。今まで見てきた、『いい女』と呼ばれる人たちの動作を思い出しながら、ゆっくり見せつけるように歩いていく。日常生活ではまず着ない服装で、気恥ずかしく思えていたのは店に入るまでだった。これでもかといった風に煌びやかさに磨きをかけた女性客の中には、私のようにパーティードレスと言っていい服装をした人も少なくない。
こちらがお金を出す立場だというのに、お気に入りの存在に気に入られようと必死になっている姿を見て、完全には馬鹿にすることが出来ない自分をずっと感じていた。私だってたった一人に逢いたくてここへ通い、短い時にお金をはたいてきたのだ。澄まして横目で眺めてきた娘たちに、必死になる姿を見られるの恥ずかしさは確かにあるけれど……。それ以上に、重要なことがあったのだからしょうがない。
「割り切った女の恐ろしさ、篤と味わうがいいわ」
ぼそりと呟いた言葉は、幸い近くにいた男の子には聞こえなかったらしい。
着ていたコートを渡しニコリとほほ笑むと、普段とは異なる熱っぽい瞳を向けられて苦笑する。ここまでわかりやすく手のひらを返されてしまっては、本当に今日が勝負と言えそうだ。
店の奥へ案内されるなか、ずっとドキドキしどうしだった。
いっそ口から心臓が飛び出すのではないかと心配したけれど、彼の姿をとらえた瞬間、嬉しさと共に胸を支配した切なさが、なんとか鼓動を落ち着かせてくれた。下手をすると安っぽくすら見えそうな明るい店内も、彼の周りだけは気品があるように思える。
珍しく立ったまま出迎えてくれた仁を見つけ、緊張しながら笑いかけた。
「こんばんは」
「あ、あぁ……」
目を泳がせて、微かに動揺するさまをみて自らの勝利を確信した。
何時もならすぐに席についてはくれない癖に、今日はそのまま相手をしてくれるらしい。顔見知りとなったお客と視線を交わす余裕もないまま、優雅さを装って席に着く。
「―――それで、どうかしら?」
手に取るように、今なら彼の気持ちがわかる。
大きな体をちょっと震わせ、悪戯を見とがめられた少年のように仏頂面でにらみを利かせてくる。この苦々しい表情を見れば、結果は火を見るより明らかだろう。
「私も、努力すればなかなか悪くないでしょう?」
最近ではちょくちょく財布を軽くしてくれる友人の結婚式でも、ここまで気合を入れていないかもしれない。それほど頑張り、相応の決意を抱いてここまで来たのだ。そろそろ年齢的にいろいろ焦りを募らせる時期だというのに、こんなところで恋愛ごっこに興じている場合ではない。そう何度言い聞かせても、どうしても甘い夢や一時のときめきに救いを求めて断ち切れずにいた想いを、今日こそ断ち切って見せる。
「っっ!」
小さく鳴らされた舌打ちが、こんなに心地よく思えるのは最初で最後だろう。
「はい、じゃあ動かないでね」
「やめっ……」
「―――まさか、約束を違えたりしないわよね?」
険しい彼の顔に負けず鋭くにらんでみせると、やっと抵抗が弱まった。
近くで見ると、意外と荒れている肌にどぎまぎさせられながら、頬へ手を添える。少し緊張して手が震えたけど、彼に気付かれていないことを祈りながら唇へ狙いを定めた。
仏頂面で顔を寄せる彼の唇へ紅をさす。
わざと目立つよう真っ赤なルージュを選んだおかげで、薄い仁の唇でもくっきりわかる。刷毛を使わずに直接塗ったから少しムラが目立つけれど、思い出を一つ手に入れる事ができた。これは今後つかわずに、思い出の品として保管しようとこっそり誓った。
「さぁ、勝者にキスを」
周囲にあおられながら、彼が苦渋の表情を浮かべる。
まるで何かのイベントのようになっていることに内心たじろぎつつ、協力的な周囲に感謝する。ここの人はみんなノリがいいから、仁狙いの客ですらうまく丸め込んでくれた様だ。長年通っただけのことはあると、この店に払った金額はさておいて彼に笑いかける。
こんなに嫌そうな顔をしているのに、『今度私が見違えるような姿で来店したら、私の頬へキスマークを頂戴?』なんて言葉を守ってくれるなんて、大概律儀な男だと感心してしまう。
「ったく、普通キスするのは女神だろうが」
「ほらほら、負け犬が騒がないの」
それとも、女装までしてくれるの?なんてわざと甘えた声を出すと、眉間のしわを深くした。
負け犬扱いされたことが屈辱だったのか、こんな状態に追い込んだのが気に入らなかったのか。彼の顔はわずかに赤くなっていた。めったに見ることのない彼の表情に、いいものを見れたとにんまりとする。ほんの少し、彼の『女神』には私では力不足だと言われた気がして体の片隅が痛んだけれど。どうしても、この人と居ると深読みしたくなる自分がいる。
ぐいっと腕をつかまれたと思った時にはもう、私の頬には独特の感触がおちていた。
「おら、これでいいんだろっ!」
投げやりに言い捨てた彼へ、にっこり笑って返す。
心なしか頬が熱くなった気がするが、すぐにグラスを煽ってお酒のせいだと言い訳する。こんなくだらないことで馬鹿みたいだと思うのだけれど、やはり嬉しくて。緊張と興奮が混ざり合って、気分が高ぶっていた。……それなのに、どうして素直に喜べない己に気付いてしまったのだろう。こんなゲームとしての戯れですら、彼は不快なのだろうか?乱暴にぬぐったルージュは、落ち切れずよれてしまっている。
これ以上考えてもいいことはないだろうと、感傷的な思考を断ち切った。
キスされた瞬間に上がった歓声も混じり、ボーイに声をかける。
「はぁい、じゃあ勝利を祝して、ドンペリーニョいれちゃおうかな!」
「お、おい」
彼が何か言いかけたのに気付かぬふりをして、声高らかに注文する。
一部のお客さんは眉をしかめているが、今日だけは許してほしい。もう二度と、彼の前にもこの店にも顔を見せることはしないのだから。
「はぁ、はぁ……っすみません、駅までお願いします」
喧騒にまぎれて、さっさと会計を済ませると店を出た。
地上への階段を駆け上ったせいか息は上がっていたけれど、誰につかまることもなくタクシーに乗れて一安心だ。
精いっぱい、己なりの艶やかな女を演じてみたのだが、うまくいっただろうか?
とりあえず彼が指定してきた通り、唖然とさせることはできた。けれど、これは最後に彼の好み通りの女性を演じて、多少は印象付けたいという下心ありきの行動だった。
願わくば、単なる『お客』が店に来なくなったと、流されるのではなく。
『美希』という女が店に顔を出さなくなったと―――。
それがたとえ少々厄介で扱いにくいという注釈つきの物でも、私はよかったのだ。
まさか彼の心に踏み込めるとは思っていないから、せめて中に入れてもらえないのなら厚く強固な扉にひっかき傷をつけたかった。
今回選んだのがたまたま赤いルージュをつけた女の真っ赤な爪であっただけで、それはキャバ嬢のように派手な化粧をし、髪を盛った女のデコられた付け爪でもよかった。
ただひとつ条件を付けるとするならば、ろくに整えられておらず、甘皮すら取り除いていない『私自身』の爪であってはいけなかったのだ。いってしまえば、人形のように綺麗に着飾り猫をかぶった私であるのが、条件なのだ。
普段の野暮ったい私では、到底彼の扉に太刀打ちできるはずがないと信じて疑っていなかった。
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それは、数日後の真昼間に起こった。
「―――おい」
低い声が鼓膜を揺らし、思わず心も震えたのを感じた。
こんな所にいる訳がないと思うのに、酷く動揺してしまう。それは……私が今、OLとして制服を着て働き、明るい陽の元にいるからかもしれないし、非日常のなかの住人が外の日常的な世界へ飛び出しているからかもしれない。
どちらにしても、あの声を聴き間違える訳がない。毎夜通ってでも聞きたいと願った人の声だった。固まった体と思考へ焦れたように、再び威嚇するような呼びかけが聞こえる。店で酒を酌み交わすときなど、この人は『何故ここまで機嫌が悪いのだろうか』と、何度となく疑問に思ったものだけれど。日差しが燦々と降り注ぐ今日のような場合でも、機嫌の悪さは変わらないらしい。明るい日差しもビルによって影が作られている。そんな影の部分から目を離せないこちらの思考を遮るように、再び鼓膜が震える。
「聞こえてんだろ?美希」
やけに甘く響いた声音に堪えられず、諦め嘆息する。
彼が優しげなのは、決して機嫌を取ろうとしているのでも、慈しみの気持ちから行っている訳でもない。彼に関して言えば、ただの最終警告だ。獣が体勢を低くし、これから行くぞと脅しているに他ならない。
どうせ逃がしてもらえないのならば、喉元へ噛みつかれる前に歩み寄った方が賢明だ。もしかしたら相手はお腹が減っていないかもしれない。たまたま目についた弱そうな動物を見かけ、強者らしくからかっているのではないかという期待を持ちつつ息を吐く。
恐る恐る振り返ったそこには、予想通り機嫌が悪そうな『彼』がいた。
考えてみれば、お金を払って接客業をしている時ですらあの振る舞いだったのだ。
お金も絡んでいない今、彼が殊更優しくしてくれるわけがないとは思うのだけれど。わざわざ逢いに行っていた時ならまだしも、偶然逢ってまでその態度を貫かれることに不満を持つ。
「―――なに?」
動揺するあまり忘れていたけれど、声をかけてきたのはあちらで。
私はそれへ答えただけに過ぎない。何ら怯える必要はないはずだ。それに、あの店は店外での勧誘などは禁止されていた。声を掛けられたとしても、応える義理などないはずなのに…。
一度無視したことが気まずいのか、はたまた彼が席を外した隙に逃げるようにして帰ったことがいけなかったのか。そもそも禁止されずとも、勧誘どころか自ら女を探すようなことをしなさそうな彼に声を掛けられ、大分混乱していた。例え昼だろうと、深い闇のなか煌々と光を発している印象のあの店の住人であるはずの彼は、存外こんな健康的な日差しの下でも違和感を覚えなかった。―――けれど、違和感を覚えないことに違和感を抱く。店の外ではまず逢うことのなかった彼が仕事休憩のときに現れたことで、今の私は混乱の極みにいた。
不機嫌そうな彼を見て、何故か無性にスティンガーを飲みたくなる。
初めて飲んだのが、ちょうどこんな喉の渇いた状態だったからだろうか?口の中はカラカラで、舌すら所在なさ気にしているような気がする。元彼を思い出すから、あれ以降飲んでいなかったというのに、どうして今さらスティンガーなんて思い出すのだろう。余所事に気をやっているのが分かったのか、眉間のしわは深みを増している。
「あれきり来てなかったが、最近仕事忙しいのか?」
店へ通っていた時ですら、こちらを気遣うような言葉を滅多に口へしていなかったのに、思わぬ言葉に瞑目した。あんまりに驚きすぎたのだろう。どうしてそんなに驚くのかと、あきれた様子で先の言葉の意味を教えてくれた。
「しょっちゅう酒飲みに来ていた大酒のみが、いきなり酒をやめられる訳ねぇだろう」
「……別に、」
お酒がなくても、支障はないし。
そもそも、どちらかといえば一人酒のほうが周囲に気を使わずに済むから好きだったのだ。どうしても飲み方の違う人間とではたくさん飲むことができないし、おいしいお酒が飲みたいのに店を選ぶ段階で気を使い思ったように飲むことができないのは不満だった。
「もうすぐクリスマスだし……いい子にならなきゃ、サンタさんに嫌われちゃうから」
内心何を言っているんだかと、自分に呆れながら目をそらす。
気まずくなった私に気付いたのだろう。何時ものようにくっと唇をゆがめると「恋人はサンタクロースってか?」なんて言って、声を出さずに笑っている。
「お前に、男の影なんてなかったはずだがな?」
「……うるさい」
恋人なんて、選り好みをしなければ私にだってすぐにできる。
ただ、『選り好みをしない』という点が、何より難しいのだ。これまで散々貢いできた男を前にすると、尚のこと難しく思えて胸が痛くなる。どんなに無謀と言われようと、不毛なことだと言われようと、彼を想わずにいられない。
「黒い……酒好きの無愛想なサンタが目にちらついて、なかなか素敵なサンタと付き合えないのよ」
ふとぼやいた言葉は、想像していた以上に弱弱しいものになった。
うつむいた私の視界に、磨かれたブランド物の革靴が目に入り、一人追い込まれた気持ちになる。意味もなくどうしようという言葉が頭を巡り、頭のてっぺんから爪の先まで動かせなくなった。
「サンタだなんだって、お互いに似合わねぇ話だな」
頭のうえに振ってきた名を呼ぶ声に全身が震えて、そっと伸びてきた腕に身を任せる。
彼に抱きしめられながら、そういえば『スティンガー』には針や毒牙という意味もあったのだと思いだす。
やはり、私には不釣り合いなカクテルだったのだ。
あの甘いだけではない毒牙へ、確かに捕らえられ。ぱくぱくと空気を求める金魚のように何を言うこともできずにいる。現在私は、分不相応なお酒を飲み干した時のような酩酊状態にいた。
足元はおぼつかず、彼に寄り掛かるしかないし、手には力が入らず引き離すことすらできない。
「まぁ。他のサンタに渡すには、ちょっともったいないかもな」
その言葉を理解するより前に、私は温かい腕の中考えることを放棄した。