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ツマにもなりゃしない小噺集  作者: 麻戸 槊來
互いの想いを推しはかる羊
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忘却

季節感ガン無視のお話です。すみません!

(追記)予約したまま忘れており、説明が足りないままで失礼しました。訳が分からないという方は、あとがき読んでくださると嬉しいです。

蝉がカタカタ鳴き声を上げる重圧の中、近頃急に暑さが増した気がした。

吸い込む空気すら熱く、呼吸をするたび息苦しく感じる。数年前まで、それなりに体を鍛えたりもしていたものだが、最近は忙しさに負けてとんと怠けてしまっている。


時間さえあれば剣道場や柔道の道場に通って友人に手合わせを頼んだりもしていたが、今はそんな場合ではなかろうと、ほとんどの時間を妻に費やしている。鍛えていた自分でさえ息が上がるのだ。こんな状態では参ってしまうだろうと、氷水を二つ慌てて購入した。


「ほら、氷水こおりすいはおまえの好物だったろう。食べると良い」


食の細い妻はほっそりとしており、せめて水分だけはこまめにとらせろと周囲から言われた言葉を思い出し、がま口財布をとりだした。この暑さで氷も溶けやすく割高になっているのか、だいぶ財布を軽くしてくれたが、暑さに参るよりいいだろうと冷たいそれを受け取る。最近では、苺なんかのハイカラな味がするかき氷もあるというのに、彼女は昔ながらの透明なこれを好んでいた。


「まぁ、まぁ。どなたか存じ上げませんが、ご親切にどうもありがとうございます」


「阿呆、私はおまえの旦那だ」


誰が、赤の他人とこの蒸し暑いなか散歩なんぞをし、値の張る氷水を買ってやるものか。

朝も早いうちに、新しく買ってやった日傘をさすのだと妻は家を飛び出した。何時も身ぎれいにしているのがあだとなり、こちらがとめる暇もなく少女らしくクルクル白い日傘を回しながら歩く妻を、着の身着のまま追いかけた。




妻はどうやら、記憶をなくしてしまったらしい。

この一年連れ添った夫である私に向かって、かたくなに他人として接してくる。毎日寝食を共にし、こうして口下手な私が会話だってするようにしているのに、一向に記憶が戻る様子は見せない。


「まったく……、先が思いやられるな」


つい愚痴が口をついて出た。

厳格な父の教えに従ってきた私は、伊達男のようにべらべらしゃべったりしない。むしろ、無駄話を紡ぐのは苦手と言って差し支えないだろう。

そのせいで親戚の勧めにより出逢った妻とは、ほとんど互いを知ることなく結婚した。このご時世では見合いどころか、互いの顔を見ることもなく結婚なんてことも珍しくはないが、こんなことになって困り果ててしまった。


いままでお互い近くにいても妻は掃除をしているか、着物や布巾を繕っており会話もさほど多くはない。



互いに隣り合って庭を眺めたこともあるが、そんな時でも口数があるとは言えないだろう。時には昼ばかりではなく、ちょっと気障を偽り月を眺めながら有名な一説を口にしてやろうと思ったこともあったが、そういったものに明るくない妻に伝わった様子は見られなかった。当然だ。勉学に励む学生たちすら、文豪が妻に贈った言葉やその意味を知る者はさして多くないだろう。直接口にするのは、到底はばかられる軟弱者が言いそうな台詞を、わざわざ口にしようとしたと知られるのも気恥ずかしくて、つい不機嫌を装い席を立ったのは苦い記憶だ。





思い出せば思い出すほど、自分は仕事にかまけてばかりで妻に何かしてこれただろうかと疑問に思う。とりあえず、若いうちは地盤を固めるのが第一優先事項だろうと考えがむしゃらに働いていたが、こうなってみると考え物だ。家のことは妻にまかせっきりで、こちらは爪切りの場所すら分からない。つい数日前だって、記憶をなくした彼女に「耳かきはどこか」と聞いて呆れられてしまった。

ありがたいことに、ここ数年の記憶をなくしていてもそういった習慣は変わらぬようで、おおよその見当をつけて耳かきを探し出してくれた。



こうしてみると、本当に我が家は妻が掌握していると言って差し支えないのだと、改めて感心してしまった。―――妻が記憶をなくして、気づいたことがいくつかある。結婚してから、ずっとこちらが生活しやすいように、小物一つにしても整えてくれていたことや、こちらが頼む前に買い足してくれていたこと。


いつも突然の出費があっても困らぬように、財布の中身を一定額そっと入れてくれていた心遣いや、自分好みに用意された食事。日常でのささやかな不自由に、これまであたりまえに受け取ってきた気遣いを自覚した。




周囲も、そんな妻の貢献を理解してくれていたのだろう。

これまでよく尽くしてくれた妻のために、しばらく仕事を休んではどうかと勧めてくれた。


「いくら大変な時期とはいえ、寝たきりでもないのに仕事は休めんよ」


「いやいや、もう会社には連絡しているし、貴方の上司にもご了承いただいています」


「なに?いくら仕事が落ち着いた頃だとはいえ、あの課長が許してくれたのか?」


正直、その手回しの良さにも驚いたが、仕事人間である上司が長期間休むことを許してくれたという事実に驚いた。妻の調子が悪いから休ませてくれなんて言おうものなら、もう二度と仕事に来るなと言われそうだと考えていたが、あの人も一応は人の子。赤い血が流れていたようで有難い。幸い、数日休んだところで生活に困るわけではないし、こんな時くらい妻の近くについていてやろうと決めた。


「ふふっ、こぉんなによもぎが沢山あれば、いくらでもお団子が作れそうね」


「……私は、よもぎ団子は好きじゃない」


「まぁ、好き嫌いしていては駄目ですよ。第一、私は好きですわ」


「……知っている」


よもや、幼い子どものように「好き嫌いするな」などと怒られるとは思っておらず、口元が尖るのを止められない。叱られて「うるさい」なんて返そうものなら、もっと馬鹿にされるし大人げないだろうとぐっと我慢する。どうして日も登りきらないうちから、したくもない散歩に付き合わされ、注意されねばならないのか。休み休み気ままに歩く妻を追いかけていたら、とうとう店も開きだす時間になってしまった。



腹ごなしには少々過ぎる運動で、どうも調子が上がらない。

いくら妻の方が年下だとはいえ、何故妻は平気そうなのかとやっかみまぎれの不満を抱く。


「暑いなぁ……」


果たして、夏はこんなにも暑いものだったか。

それに、いくら都会に近いとはいえ、ついこないだまであった畑や田んぼはどこに行ったのだろうか。下町育ちの妻がそんな光景を見て、散々驚いていたのも記憶に新しいというのに。東京から嫁いできてくれた妻は、黄金に輝く稲穂を見ては目を輝かせ、カエルや蛇を見ては悲鳴を上げていた。こちらからすればそんな姿を笑うと同時に、少し可愛らしく感じたものだ。何せ、ここいらの人間でカエルなんかを怖がる者などまずいない。下手すると、食料とし嬉々として捕えようとするだろう。


「こんなに田畑が少なくなってちゃ、あんな姿みるのも難しくなるだろうな」


「何かおっしゃいました?」


不思議そうに首をかしげる妻へ、何でもないと笑って返す。

人をさんざん、他人だ知らない人間だなどと言っているくせに、こうして気遣ってくるのだから期待してしまう。きっと頭の端では分かっているのだろう。じきに記憶も思い出すさと期待して、数日が経過している。


焦りがないと言えば嘘になるが、記憶がないながらも最近では家事もしてくれるし、妻の親戚だという人もちょくちょく顔を出してくれる。特に、一人とてもよくしてくれる青年がいて、はじめて会ったときに妻のことを「母さん」なんて呼んだ時は度肝を抜かれたが、なんてことはない。どうやら彼のお母さんと妻はとても似ているらしく、つい自分と年の近い彼女をそう呼んでしまったらしい。


だからと言っても、私より年をくった男に母親などと呼ばれて、年若い妻は怒り出すだろう思っていた。しかし、そんな心配をよそに妻は冗談なのか「はい、なぁに?」なんて、笑って返すものだから、青年は懐かしさも相まってか泣いていたのが印象的だった。



しばらく、そんな出来事が頭を占めていたが、ずっとこちらをうかがっていた彼女に意識を向けなおした。「ぼぉっとしてどうしたの?」なんて問われ、首を振って大丈夫だと笑って見せる。こんな妻の気遣いに不安はあれども、どうにかやっていけるのではないかという自信を持たせてくれる。


異常がないのなら用はないとばかりに、前を向き再び歩き出した彼女へ思わず声をかける。


「―――おい」


「はい、何ですか」


妻の背中へ向かって呼びかけると、記憶がある時と違わぬ答えが返ってくる。

背中越しに振り返った横顔は少し老けて見えるが、苦労をかけさせた分、自分が面倒見てやらなければと固い決意を胸に刻む。


「ゆっくりでいいんだ。記憶を取り戻すための時間はいくらでもある。お前の調子で焦らず思い出していけばいい」


「ゆっくり……?」


「嗚呼、そうだゆっくりだ。もしも思い出せないのなら、それまでの間新しい思い出を作っていけばいいのだし、焦ることはない。気長にやっていこう」


昔の自分ではまず口にしない本心を、音に乗せて彼女へ贈る。

どうにも、むず痒い感覚を抑えきれないが、大事なことだからとまっすぐ見つめる。しかし、どうしたことだろう。まじまじと見つめていた妻の表情が、急にしっかりしたものに変わったかと思えば、ふんわりと笑って見せる。


「―――いやだわ貴方ったら、私たち銀婚式も過ぎているんですよ。あんまり気の長いことを言っていると、来世でも引きずることになりますよ」


驚き、すぐに声が出てこなかった。

ころころ笑う妻の言葉に違和感を覚えるとともに、ようやく夫だと思い出してくれたのかと喜びが沸き起こる。そんな喜びのままに彼女との距離を詰め、思わず強く肩を揺さぶった。


「お前、私が夫だと思い出したのかっ?」


「……?私には、夫なんておりません」


まるで先ほどまで笑っていたのがウソのように、清廉な泉のような透き通った瞳でこちらを見つめてくる。それは今まさにわき出た水のように純粋で、冷たさすら感じさせられる。今しがた見たのは、私の願望が見せる幻だったのだろうか……?あまりにはっきりと見聞きした顔に言葉にあきらめがつかず、自分は確かに記憶をなくす前の彼女に逢えたのだと首を振る。


「来世……までとは、気の長い話だな」


それでも、彼女が許してくれるのならば。


「たとえ、思い出してくれないとしても……生まれ変わってもお前を探すよ」


そうしたら、今度は好いてもらうために多大な努力をしなければならないだろうと、苦笑する。何せ、今回は縁あって結婚が決まったが、来世でもそんな幸運なことがあるとも限らない。縁でもない限り、口下手で特別色男でもない自分が彼女の目に留まるのは難しいだろうから、今から必死になる己のさまが目に浮かぶようだ。


―――始まりは周囲の決めた結婚だったが、今は確かに愛がある。


これまで尽くしてくれた彼女のために、たとえ記憶をなくしたままであったとしても、互いに協力しつつやっていこうと固く心に誓った。ふと彼女が口にした不思議な言葉の意味が気にかかったが、きっとただの間違いか気のせいだろうと、頭の隅に追いやる。まだ三十路も迎えてないはずのわが身が、いやに重く老熟しているように感じる……暑い夏の出来事だった。




すみません、多分わかりにくい内容なので、追加情報を。

痴呆の症状として、旦那さんであるおじいさん(定年もずいぶん前に迎えてる)は、記憶が後退して自分を若いと思い込んでおり、おばあさんは痴呆が原因で自分の事すら忘れてしまっている(おじいさんと違い、時々思い出す)…という、設定です。


次話は、とある刺激的なお酒に魅了されホストクラブへ足を運ぶ女性の話です。

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