風を操る執事
お時間空いてすみません(汗)
私が生まれ育った城下街を、新鮮な気持ちで眺めてみる。
石畳の道や、ごった返す人ごみなんて左程好きではなかったのに、今は妙に心躍ってしまう。珍しくない櫛付き肉の屋台から香るこげたにおいや、しつこく売り文句を並べる商人にも微笑んでしまいそうなほど、この空間にいること事態が嬉しかった。―――たとえ、慣れないコルセットや私服とは思えないドレスを着こんでいたとしても。
たまにもらった休みくらいは自由にしたいと、街を歩いている時にそれは起こった。
「あっ、ひったくり……」
人ごみの隙間から、ほんの少し見えた光景は、珍しくはないはずなのに思わず声に出していた。それは私からしたら、ただ呟いてしまっただけに他ならない。現に、屋台のおじさんや話に忙しいおばさんたちの声に簡単にかき消される……それこそ、そよ風が葉を揺らす程度の声量しかなかったはずだ。
そんな、昔であれば意味をなさない言葉に返ったのは、いやに畏まったはっきり『意思を持った』返事だった。
「―――承知しました」
えっとも、あっとも声を出せないまま、わずかな風が髪を揺らした。
「髪を結うには短すぎる」とメイド長に怒られた髪は、肩にかかる程度でもきれいに編みこまれ後ろでまとめられている。だから、わずかに揺れたのはサイドに垂らされた髪だけなので、その行動がよく確認できなかったのは髪に邪魔されたからではない。
人ごみなんてものともせずに、私の後ろにいたはずのその存在は走り去る男をとらえていた。瞬く間に男をつかまえ、気づいた時には地面に押さえつけていた。しばらくは「なんだ、お前はっ」「俺は何もしてないぞ!」なんて声が聞こえてきたけれど、膝で背中を抑え込まれて身動きが取れないように腕をとられているらしい。少ししてから、おもむろにその存在は立ち上がった。
驚く周囲と暴れる男をものともせずに、後ろ手で男を抑えたままこちらに戻ってくる。
いつもピシッと着こなしている執事服はそのままに、少し乱れた髪は軽く手で撫でつけられただけで綺麗に戻された。
「捕えて参りました」
「いやいや、いやいや……そ、それでどうしろと?」
いくら偶々ひったくりの現場を目撃したからと言っても、それをどうこうするだけの力を私は持ち合わせてはいない。困ったまま静かな瞳を見上げると、彼は心得たというように小さくうなずいて見せる。
「必要ないなら、離します」
幸い、貨幣は取り返しました。なんて男の拘束を緩めようとした彼を、急いで止める。
「えっ。ちょっ、と、そのまま逃がすのは、いかがなものかと……」
「では、街の衛兵に『押し付け』ますか?」
「そ、その前に、持ち主へきちんと謝らせてください」
何をふざけたことをぬかすのだと睨みつけてくる男に、内心怯みつつも彼から視線はそらさなかった。何せ少し目線がそれただけで、ひったくりをした男に負けてしまいそうなほど私は怖かったのだ。可能なことならこんな至近距離にひったくり犯を連れてこないでほしかったけれど、怯えていると知られるわけにはいかないと足を踏ん張った。
生まれてこのかた、ひったくりに遭った経験はあれど捕まえた経験なんてない。
同じ街の生まれとして、貧しい人間の境遇には同情の余地があるけれど、ひったくりはいけない。今後気を付けるように促すためにも、盗まれた本人にも知らせておいた方がいいだろう。彼は私の要求したとおりに、盗まれた人に貨幣の入った袋を返して、衛兵に男の身柄を引き渡していた。
そのあとは、これ以上のんびり街で買い物なんてできるはずもなく、すごすごと慣れない我が家へと戻ってきた。そう、ほんの数か月前に我が家となった大きなお屋敷に。
「―――どうして、ひったくりを捕まえる時に、あんなことを言ったんですか?」
早い帰りに片眉を上げたメイド長は、特に理由を問いただすことなく「お茶を淹れますね」なんていってトークルームを出て行った。この部屋は、葉巻を吸ったりするために使っていたようなのだけれど、本来の役割を果たさなくなって久しい。私が使わないのはもちろんのこと、前の主も病気がちで長いこと使われていないのだという。
初めてそれを聞いたときは、どうして使わない部屋なんて作ったのかと憤慨したものだけれど、今となっては狭くて落ち着くから重宝している。
ソファーと、シガーケースを置くための小さな机。物自体はいいものでも、広すぎるこの屋敷を思えば唯一親しみのもてる空間だった。
そんな場所では、この屋敷に迎え入れられてからずっと萎縮しているような私でも、ほんの少し自己を出すことが出来る。もう少しなれたら、この空間をより居心地の良いようにしてもいいだろうかと企みだしたところで、先ほどの問いに対する答えが返ってきた。
「貴女様なら、ひったくりを捕まえてほしいと望むかと思いまして」
放っておいたほうがよかったですかと聞いてくる彼に、あわてて首を振る。
いくら危険なことが嫌いでも、みすみす見逃すのは心が痛む。そこに使われる労力がたとえ他人のものであっても、許されるのなら無視したくはない。
そんなエゴ丸出しの私の気持ちを責めることも、指摘することもせず、彼は「ご意思に添えたのならば、何よりです」といって黙ってしまう。それ以上告げる言葉もなく、無理やり「彼は普段から無駄話をするタイプではないから」なんて、自分を納得させた。
……本当は、どうしてそんなに良くしてくれるのかと聞きたくてしょうがなかった。けれど以前にそれを聞いたときに、さも当たり前だというように返された言葉が衝撃的で口に出すことは叶わなかった。
「どう、すれば……私はあなたの働きに、報いることが出来るかしら」
「『風待ちの丘』を手に入れてください」
私の呟くような声に対し、はっきりとした口調で答えられたのは、以前に私が聞いたのと寸分たがわぬ言葉だった。それは、彼が私に仕えてくれるきっかけとなった、重要な誓約だった。
最近まで母一人子一人の、少し厳しい生活ながら珍しくもない一般家庭で育った私は、母を病気で亡くしたのちに思いもかけない世界に飛び込むこととなった。なんと、幼いころに亡くした父親は男爵家の二男坊で、一般人である母との結婚を反対されて駆け落ちしたのだという。
それだけでも、なんだその話はという感じでピンと来やしないけれど、話はそこにとどまらなかった。なんと彼は上級精霊の一人で、私の実家である男爵家と古くから契約を結んでいたのだというのだから驚きだ。何せ、精霊なんておとぎ話で聞くだけで、目にするのも初めてなら存在を疑う余地すらなかった。
……何せ、そんなものが本当にいるのだとすら考えてもいなかったのだから、まだ幽霊なんかの方が身近というものだ。もっとも、私はそういったものにかかわりたいと思っていないので、それを聞いたときに感じたのはえらいことに巻き込まれてしまったという感想なのだけれど。
散々疑っていた私は、表情一つ動かさずに「誓約を違えるつもりなら、男爵家を滅ぼしこの土地を返してもらうぞ」なんて言葉で脅されて白旗を振った。だって、親子二人でも厳しかった生活だ。一人になったところで食費は浮いたけれど、働き手だって減ってしまう。
ましてや、唯一の家族を失ったショックで、しばらくふさぎ込んでしまった私はちょうど日雇いの仕事先と契約を切られてしまい、いく当てがなかった。そんなところ、自分は精霊だという男とそれに疑問すら持たない使用人がたくさんいる屋敷に迎え入れられたら、誰だって生活が落ち着くまではお世話になろうと選択するだろう。
「お茶を、お持ちしました」
そんな生ぬるいことを考えている私の目を覚まさせたのは、目の前にいるメイド長であった。
「この屋敷の使用人は、みな男爵家に多大な恩があるものばかりです。そんな中でも、この土地を守護し、男爵家を支えてくださる精霊様の意に反するようなことをなされば、主とあってもただでは済みませんよ?」
なんて脅した後に、とんでもないことをしでかしてくれた。メイド長が何事かを彼に吹き込むと、微かに戸惑いながら彼は手を上げ空中で軽く振って見せる。……そう、珍しく彼は『戸惑って』いたのだ。だから、メイド長が私に「精霊だということを証明してあげなさい」なんてことを囁かなければ、私の前髪が短くなることはなかったし。
「毛先が痛んでいたようなので、ちょうどいいかと思いました」
なんて悲しすぎる理由から、かまいたちという恐ろしい方法で散髪される経験をしないで済んだはずなのだ。けれど、悔しいことにメイド長の狙いは当たり、私は彼が精霊だということを信じずにはいられなくなった。手を空で振っただけで髪がハラハラ落ちて行ったのだ。信じないわけにはいかない。
おとぎ話を信じるならば、この男爵家が治めている土地はもともと風精霊の住まう場所で、古くは『風待ちの丘』もその範囲であった。しかし、徐々に衰えつつあった男爵家は経済的な理由から祖父の数代前に『風待ちの丘』をよそにとられ、管理することが出来なくなった。
それで困ったのは、風精霊たちだ。どうやらそこは風精霊たちにとってのパワースポットのような場所で、大変重要な場所だったらしい。ましてやそこの先には、精霊が生まれるという森につながっており、侵されたくない場所なのだという。
もともと精霊などの特別な存在を感じ取れていた男爵家だったが、徐々にその力は衰え、最近ではその姿を見ることすらできないものが当主となることも珍しくなかった。そんな時代の流れとともに男爵家やこの土地を守る代わりに、『風待ちの丘』を守るという精霊との誓約も忘れ去られていったというのだから怒られてもしょうがないだろう。それなのに気のいい精霊たちは、「まぁ、もう少し待てば我々の存在に気付くものがいるだろう」なんて悠長に構えていたという。
しかし、他者に土地を売り払った挙句、その場所が採掘を目的に荒らされたとなっては黙っていられなかったのだという。
「―――こんなことをしている間にも、『風待ちの丘』は搾取され汚されているのです」
ふっと、考え込んでいた意識が現実へと引き戻された。
上級精霊である彼は、数十年前に見張り役として送り込まれたのだという。『風待ちの丘』で採れる鉱石はとても珍しいもので、深く大地を削りようやく指輪一つ分が作れるかどうかという量しか取れないのだという。
今はまだ精霊たちが邪魔することによって採掘しにくくしているようだが、放っておけば土地は荒れ果ててしまうという。不幸なことに、なかなか採掘できないことからその希少性はさらに増し、「男爵家は精霊なんて言い伝えを信じてこんな資源を得ようとしなかったのだから、愚かだな」と現在の所有者である公爵家は我々をあざ笑っている始末だ。
「……私なんかが後継者で、ごめんなさい」
思わず、渡されたカップを持つ手に力がこもる。
はちみつが少し垂らされた紅茶はゆらゆら揺れて、そんな動きを見ているだけでも心もとない気持ちになる。この家の人が私を訪ねてきたとき、男爵家を継いだというお父さんの兄にあたる人が死んだ途端、何を勝手なことを言っているのかと反感を覚えた。しかし奥さんを亡くしても、ずっと独り身を通し、後継者のいない叔父さんを憎む気持ちは湧いてこなかったし。男爵家の置かれている状況を憂い、秘密裏にお父さんたちを逃がした祖父の話を聞いた時には気持ちは固まっていた。
厳しくも、なんだかんだで面倒を見てくれるメイド長。にこにこ笑顔の敏腕家老に、うわさ好きだけど仕事はきっちりとするメイドたち。コックや庭師、上げ始めればきりがない。
叔父や祖父が亡くなったことで、血のつながった親族は本当に誰も居なくなってしまっているけれど、屋敷で働くみんなは確かに『家族』だった。
まだ数か月しかお世話になっていない私が、そう感じるのだ。みんなが何かと、不慣れな私という主を助けてくれるには、何としても男爵家を守りたいという感情が大部分を占めているのだろう。……私は、正直人生をかけてまで男爵家に仕えて後悔しない!なんて言いきれるほどの感情を持ち合わせていない。ましてや、本当に『風待ちの丘』と精霊たちの信頼を取り戻せるのか、不安なことは数え上げたらきりがない。
―――それでも、少なくとも居場所を失う悲しみなら理解できる。
彼らや男爵家を救える存在が私しかいないというのならば、辛いと言って裸足で逃げ去るようなことはできなかった。
そんな、中途半端な感情が刻一刻と男爵家を衰退させているのだとしたら……私は情けなくて泣くことすらできやしない。負い目とも打算とも異なる感情を、どう処理すればいいのかわからないまま途方に暮れてしまう。そんな状態の私の耳を、心地の良い声がふるわせた。
「貴女様は……精一杯頑張ってらっしゃると思いますが」
はっきり主張する彼にしては珍しく、独り言とも取れるような声量で発したその言葉は、私の耳から心へとまっすぐに届いて動揺する。なぜか恐る恐るといった様子で振り向いた彼は、空を眺めて視線を合わせようとしない。じっと注視していると、どこかきまず気に揺らめいた体に、励まされているのだとようやく理解した。
「まぁ、男爵家事態は衰退の道を歩んでいるのかもしれませんが、俺からすれば我々の存在を認識できているだけで、これまでの能無しよりマシです」
「の、のうなし……」
自分が思いっきりけなされているのに気付きながらも、歴代の当主たちを貶すような発言に驚いてしまう。ここにメイド長がいなくてよかったと、心底ほっとする。もしかしたら、これは彼なりの照れ隠しなのかもしれないけれど、あまりにも過激な発言にこちらが心配になってしまう。
「とにかく、『風待ちの丘』を取り返すためにも、貴女様を全面的にバックアップするために俺はここにいるのですから、遠慮は無用です」
ようやく合わさった瞳の強い光に、思わず引き込まれてしまう。
ほんの少し前まで、照れている彼なんて珍しいものを見たとうきうきともとれる感情に支配されていたのに。強すぎるその光に、思わず目を泳がせた。これまでその整った顔にドキドキすることはあっても、こんな風に胸の鼓動が早くなることはなかったから動揺を隠せない。
「何か望みはありますか?貴女が『風待ちの丘』を取り戻す足がかりとなるのならば、喜んで望みをかなえましょう」
何時も『風待ちの丘』の話を持ち出されるたびに、おまえが不甲斐ないからいつまでもあの地を取り戻せないのだと責められている気持ちになったのに、それは自分があまりにうがった見方をしていたからだとようやく気付いた。
彼は時に厳しすぎるほどまっすぐで、その言葉も飾るということを知らない。
精霊である彼に人間の情緒を理解してくれという方が間違っているのだとあきらめていたけれど、今はどこかそれが心地よい。彼は本心から、私を駄目だと見捨てないでいてくれているのだろう。
何せ、何代も精霊という存在が忘れ去られても耐えてくれて、『風待ちの丘』を取り戻すのを待っていてくれたのだ。たった数か月私があがいたところで、彼にしてみれば瞬きする間でしかないのだろう。
今まで、追われるように日々を過ごしてきたのが不思議なほど、胸につかえていたものがそっと通り抜けていく。
「……じゃあ、タロッコの実が食べたいです」
寒い地域の中でも、特別山深いところに実るという果実の名前をわざと口にしてみせる。
これは本当に希少価値の高いもので、市場に出回ったとしても値段は一般的な四人家族が、五年は楽に暮らしていけると言われている。
どんな味なのか興味があるのは本当だけれど、これは友達との間で口にすれば単なる軽口で終わる程度のものだった。
「承知しました」
「えっ!」
まるでなんてことのないように、単調な言葉で応えられて焦ったのはこちらだ。
「それでは、さっそく採ってきましょう」なんて真面目な顔で背を向けるから、あわててその背に縋り付く。
「まっ、待ってください!今のは軽い冗談で!」
「どうしたんです?心配しなくても、きちんと食べられるものを採ってきますので安心してください」
「いやいや、買うんじゃなくて採ってくる気なんですかっ。それなら尚のこと、危ないから駄目ですったら!」
「俺に不可能はありません」
「今はいらないです、そんな自信!」
そのあと、すぐにでも旅立とうとする彼をとめるのに、優に一刻は時間を有した。これにこりた私は、二度と軽はずみな気持ちで彼にお願い事をするのはやめようと心に決めたのだった。
次話は、王族という立場に生まれた双子の姉妹と、英雄をめぐるお話です。悪女感あるかもなので、注意。