楔ーくさびー
楔…二つのものを固くつなぎ合わせようとするもの。きずな。「デジタル大辞泉」より引用。
今回は前、後編に分けるほどではないですが、長くなりました。
彼女と向き合い、聞きたいことをすべて問いただすつもりでいた。
それなのに……逢うまでに、言ってやろうと思っていた半分の内容も言えずに黙り込む。
「私はもう、なにもいらないから。ーーー必要ならあなたが『全部』持って行って?」
俺は彼女の言葉に、何も返すことが出来なかった。
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目が覚めてみれば、俺はなぜか白い部屋に一人寝かされていた。
体が重く思うように動かせなかったが、なんとか首を持ち上げ辺りを見回してみると、ここはどうやら病院の一室であるらしい。よくドラマなんかで見るのと同じ光景が、そこにはあった。
最初に入ってきた人間に事情を説明してもらおうと待ち構えていたが、始めに部屋へ入ってきたのは見知った人間ではなく、見知らぬ女性だった。花瓶に水を入れていたらしいが、看護師にも見えずどうすればいいのか分からず戸惑っていると、目を大きく見開いたその人は突然踵を返して走り出した。
「あっ、ちょっ……まっ……」
なぜか声がうまく出せずに、走り去った人を引き留めるのは不可能だった。
しばらく呆然としているだけだったが、そうこうしている内にここはどうやら病院であることが分かった。どうして自分が病院で寝ているのかは記憶にないが、見知らぬここがひとまず安心できる場所であろうことにほっとした。
冷静になったところで目線を上にあげ、なんとかナースコールを鳴らそうと奮闘してみるが、結果は芳しくない。手はかすかに反応を返すだけで、上手く枕元に延ばすことすらできないのだ。何とかならない物かと考えているうちにばたばたと騒がしい音が響き、ガラッと勢いよく扉が開かれた。そこには数人の看護師と白衣を着た医者がいた。
しばらくの間、あわただしく脈を測られたり様態を確認されていたと思ったら、今度は勢いよく俺の両親が突進してきて心なしかのけぞった。あまりの勢いに出た咄嗟の動きだったのだが、医者には大人しくしろと怒られ、両親には「目が覚めてくれてよかった」と号泣された。初めて見るそんな親の態度に多少引きながら、俺は水を要求することにした。
突然病院で目が覚め、数か月が経過した。
自分としては少し長く寝すぎたかという程度の感覚なのに、感じている以上に体の筋力は衰え月日は経過していた。髭はある程度整えていてくれたようだが、髪はこれまでにない長さに到達していた。「こんなの、売れないロックミュージシャンみたいだ」なんてぼやくと、そんなこと言えるようになったのかと泣かれたのには正直堪えた。相当心配をかけたらしい。
なんと事故にあって、目覚めた俺は周囲によると事故に会う前の数年間分の記憶をなくしているのだという。数年間分というのは、「不幸中の幸いなのか怪しいところだ」なんて昔馴染みと笑いあえるくらいには、体の回復は早かった。
―――ただ一つ疑問だったのは、目覚めたとき傍にいた見知らぬ女性だ。
どれだけ記憶を掘り起こそうとしても、彼女のことは思いだせなかった。
安藤│那奈という名前を聞いてもピンとこなかったし、出会いのきっかけすら不明だ。
だとするのならば、俺がなくした記憶の中に彼女との出会いが隠されているのだろうけれど。周りの期待を裏切るのは心苦しいが、俺は記憶を取り戻すのにだんだん抵抗を覚えるようになっていた。何せ、これまでのことを全く覚えていない訳ではないのだ。思いだそうと無理をすると体に不調が出るし、たった数年の記憶のために堪えたいと思える程度の苦しみではなかった。
何度も、記憶を思い出させようと写真をみては、知らない話を聞かされた。
メールやSNSを見たりもしたが、どうもピンとくるようなことはなかった。どうやら恋人と呼べるような存在もいたみたいだけれど、メアドを変えているのか、名前を知ることも連絡を取ることもできなかった。正直、俺の記憶がない間ずっと付き合っていたみたいだから、興味がないと言えば嘘になる。
しかし、周囲に聞いても写真は見せてくれないし、詳しく聞かせてくれる事もないからあまり綺麗な別れ方をしなかったのかもしれない。
「もしかして、君は俺の元カノだったりする?」
いつだか、軽く安藤さんに聞いた事があるが、彼女は珍しく眉をひそめて強い言葉で否定した。相当怒らせてしまったのだろう。言葉を返してはくれるが、棘のある言葉を向けられ早々に謝って二度と話題に挙げることはなかった。
もしかしたら、以前に告白されて断った経験があるのかもしれない。
うすうす勘付いてはいたが、彼女の献身的な様子は友達だという以上のものを感じずにはいられなかった。
周囲は、彼女が記憶を取り戻すカギだと思っているのか、しつこく彼女との記憶を語って聞かせた。入院中に記憶を取り戻すと考えていたまわりの期待もむなしく、彼女に関する記憶はかけらすら戻ってきてはくれなかった。
俺としては恋人であったことを強く否定されて、少し落ち込んでいたし。それもきっかけになり時間がたつにつれて、記憶を思い出すよりも、現在の環境に慣れることを優先していくことにした。
日々のできごとに忙殺されていくうちに、次第に那奈さんを気にかけ、記憶を取り戻させようとすることにいら立ちを覚えた。こちらは必至で何とか目のまえにある状況をやり過ごそうとしているのに、どうして更なる負荷をかけるような真似をするのか。何も、俺も好きで記憶をなくしたわけではない。ましてや、思いだそうと努力しなかったわけでもない。それでも、思いだせないのだからしょうがないじゃないか。
いっそ、事故に遭うまえに何か嫌な事があって、それを忘れているのではないかとまで考えだしていた。もしもそうだとするのならば、那奈さんの存在が気にかかる。何せ、俺に逢いに来る人間のほとんどは大なり小なり思いだせてきているのに、出逢いから何まですべて記憶がないのは、彼女の事くらいなものだ。疑いたくなるのも無理からぬことだろう。
そう考えると、徐々に彼女の存在自体も疎ましくなる。
周囲が記憶を取り戻させようとするのは、どこか彼女が関係しているように思えてしょうがなかった。視界の端に映るだけでも気になって目が追うし、ざわざわと胸が騒ぐ。これはもしかしたら、思いださない方がいいというサインなのではないだろうか。そんな事を思ってしまえば、毎日のように通ってくる那奈がさらに疎ましく思えた。
彼女をみるだけで、直接言われたわけではないのに、『どうして記憶をなくしたのか』と責められている気分になる。徐々に俺は何かと気遣い、構ってくる『知らない女』にきつく当たるようになっていった。
思いつめたような顔の那奈に話しかけられたのは、日々のストレスがたまりまくっていたころのことだ。
最近では、二人きりでいると禄に返事すら返していなかった。日数がたつにつれ、みんな普通に接するようになってきているのに、彼女だけはまだどこかよそよそしい。俺に遠慮したように接するのは、記憶がない俺など『俺じゃない』と否定されているようでもあり尚、不愉快だった。ほかの連中と話していると飾り気のない笑顔を見せるのに、俺の前では借りてきた猫のように澄ましている。
自分では抱えきれない苛立ちをぶつけずにはいられず、少し話しかけられただけで刺々しく答えてみせる。ここ最近はそれが普通になりつつあった。
「もう二度と姿を現さないし、逢いに来たりもしないから……。
最後に一度だけ。一度だけ……だきしめてもらえませんか?」
彼女の言葉に目を見開いた。これまで散々周囲をうろつかれて迷惑していたから、その申し出は俺にとって都合のいい物だ。―――それだというのに、どうしようもない胸のむかつきを感じてこぶしを握り締める。
「へぇ?あんたを抱きしめる苦痛に耐えたら、俺を開放してくれるんだ?」
自分でも攻撃的な表現だと感じながらも、口は止まらなかった。
散々なくした記憶のことを語られて、いい加減苛々していたところなのだ。記憶をなくしたのは何も俺のせいではないというのに、周囲はこぞって俺と彼女を引き合わせたがる。
俺が失ったのは数年余りの記憶であるため日常生活には問題ないし、仕事だって徐々に慣らしていけばいい。幸い知識だけは残っているから、細かい説明を受ければ特別困ることはなかった。―――それなのに無理やり苦しみに堪えろといわれ、思い出させようとする周囲が苛立たしかった。思い出そうとするたびに頭が痛むし、酷い時は吐き気だってする。ぐらぐら揺れる視界から、立っているどころか座っていることすら困難になるのだ。
知っているような、いないような…もやもやとした感情を抱えているのは俺だって気分がいいものではないのに、いつも『お前が悪いんだ』と言われている気分になる。苛立ちを込めて睨み付けると、ふっと寂しげに彼女は微笑む。
「えぇ……お願い」
ゆっくりと近づき、頬へ伸ばしかけた手を腕へそらす。
思わずしたこととはいえ、どうしてそんな事をしたのか自分でもわからない。何故か無性に、慰めなくてはいけないと気が急いたのだ。そんな己の行動は彼女を前にすると珍しくはなく、ここ最近は苛ついてばかりで顔をしかめる。
やや乱暴に腕を引っ張り抱きしめると、ふわりと『懐かしい』香りがした。
頬に触れる髪や、俺より微かに低めの体温。腕の中にすっぽりと納まる感触までもが、確かに知っているもので混乱する。彼女のことなど何も覚えていないはずなのに、この感覚をずっと探していた気がするのだ。まるで……脳みそをひっくり返してでも思いだしたかったことを、ようやく取り戻せたような。
ぎゅっと力を込めて抱きしめると、ハッと息を吸う音が聞こえた。強く抱きしめているというのに、どこか物足りなさを覚える。そんな俺の要望へ応えるように、そろそろと背中へ手が回された。窺うようなその行動へ、今度はこちらが息を詰める番だった。
「もう、これ位でいいだろっ!」
さらに踏み込むことが唐突に恐ろしくなって、肩を抑えて引きはがした。
手に伝わる温度を手放しがたく思っていることすら苦痛で、やはりこんな事はするべきではなかったと後悔した。
己の愚かさとこんな事を頼んだ彼女に対する苛立ちで、憎しみを込めて睨み付ける。
「あり、がとう……」
どうしてここで笑えるのだと、痛みに耐えるような顔をしている相手にいら立ちを隠せない。どうせ泣くなら、泣いてしまえば謝ることができるのに。俺が立ち去るまで、その瞳に溜まった涙が零れ落ちることはなかった。
あの日から数日は、あんなことを言ってもどうせ暫くすれば、目の前に現れるだろうと考えていた。しかし、一週間が経ちひと月が経過しても、一向に彼女が姿を現すことはなかった。周囲にそれとなく様子をうかがおうとしても、「おまえが拒絶していたから悪いんだろう」なんてことを言われて、元気でやっているのか知ることすらできないでいた。
家に帰る道すがら、姿を見かけて後を追いかけたのは、咄嗟の行動だった。
「ちょっ、待てってば!」
「ごめんなさいっ」
掴んだ手をそのままに、低い位置にある頭を凝視した。
俺より小さな姿でうつむかれてしまうと、こちらは表情を窺うことが出来ない。こんなことをして何がしたいのかと問われても、答えるすべを俺は持たない。本当に本能のおもむくままに動いてしまっただけだった。―――敢えて言うなら、逃げられたから追いかけた……というのが一番近い気がする。
「何、突然謝ってるの?しばらく会わなかったけど、その間に何かやましい事でもしていたのか?」
そう、例えば浮気とか…。
自分でも意外な言葉が浮かび、つかんでいた手の力が抜ける。これではまるで俺が嫉妬でもしているようだ。すぐさま逃げ出しそうな雰囲気だったのにもかかわらず、目の前の小さな体は震えながらもその場にとどまっている。怯えた様子もこちらを見ない事も苛立ちを募らせる。あれだけ拒否しても傍にいて、引っ付いて回っていたくせに突然いなくなったことに怒りを隠せなかっただけだ。理由がつかめなかった苛立ちの原因が分かり、胸糞悪い気持ちがすこしは収まった。
「―――で、どうなの?」
言外になぜ逃げたのか、会いに来なかったのかと彼女を責める。
最後に会った時の様子が普段と異なったのは気が付いていたが、まるで『子どもが古いおもちゃを捨てる』ときのように興味が無くなったと言われているようで腹が立った。
「もう二度と逢いに来ないといった言葉に嘘はないの。ただ、預かっていたものを返しに来ただけだから」
「そう……何を預けていたのかなんて覚えていないけど、とりあえず礼を言っとく」
目を合わせることなく顔をそむける姿にいらだち、そんな言葉を吐き捨てた。
俺の態度が悪かったのは認めるが、一度として『会いに来るな』などと言ったことはない。そんな俺に対し彼女は「……もう、名前を呼ぶことすらしないわ」なんて呟き視線を避けて見せた。これではまるで俺が弱い者いじめをしているようではないかと思ったが、早くここから立ち去りたいといった様子の彼女を開放するべく、家路を急いだ。
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まだ記憶をなくして間もないころに、実家の自室で途方に暮れていたことがある。いろいろ考えることがあふれて、長時間座りこんでいた。あまりに同じ体勢でいたがゆえに、骨がきしむ感覚で正気に戻った。
「ずいぶん寒くなってきたな……」
低めに設定していた暖房の効果も薄れ、窓に近づいたのは思いつきで起こした行動だった。窓が曇り、夜だとはいえあまりに外の様子がわからないから、寒いのを覚悟してサッシに手をかけた。
すぐに開けたことを後悔するような冷たさに頬を刺された後、俺は思わず口を開いた。澄んだ空気は星の光をまっすぐに届け、あれが何億光年先で燃えているという事実を俺に実感させた。微かなきらめきを注視してみると、ろうそくを眺めているときのように揺らめきを感じる。常であれば寒いばかりで星を眺めようなどとは思わないはずなのに、その光は力強くも健気に思えて目をそらすことができずにいた。
ずっと放さずにいたサッシには水滴がこぼれ、手がぬれる感触を覚えた時だった。すっと一筋の光の線が空を割き、瞬く間に消えていくのを目撃した。
「っ!」
流れ星なんて、生まれて初めてみた……と思う。
都会へ中途半端に近いこの場所では、透き通るような空など珍しいのだからこの予想は当たっているだろう。
自分でも、どうしてこんなに興奮するのかわからないが、この感情を誰かと分かち合いたくて意味もなくうろつく。ガラにもないことだとわかってはいるのだが、どうしても『だれか』に伝えなくてはと焦っていた。深夜にもほど近いこの時間に、こんなことを連絡できる相手など今の俺にはいない。両親だってもう寝ているだろうし、明日の朝にでも初めて流れ星を見たのだと自慢するしかないかと思ったところで、控えめにドアをノックする音が聞こえた。
「まだ、起きてる?」
「あ、嗚呼……」
思わぬ訪問者に、言葉がうまく出てこなかった。
あの時はまだ俺が心配だからという理由で実家に安藤さんも泊り込んでいて、いきなり部屋を訪れてもさほど驚くべきことではなかったのかもしれない。……それでも、友達にしては不自然に礼儀正しかった彼女が夜に一人部屋を訪れてくるなんて初めてのことだ。
「どう、か……しましたか?」
おそるおそる声をかけてみると、どうやら彼女も流れ星を初めてみて感動したのだという。
頬を染め、嬉しそうに目をキラキラさせる様子をみて、無性にうれしくなった。
「じ、実は俺も、今の流れ星みていたんです!」
思い返してみれば、あれが記憶をなくして初めて心を開いていいと思った瞬間かもしれない。それがたった一年足らずで、どうしてねじ曲がってこんな結果になってしまったのだろう。
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必死に走って、走って求める場所までたどり着いた。
探していた人物を見つけた瞬間、思わず足の力が抜けへたり込みそうになったのは根性で何とかこらえた。上がった息もそのままに、走っている間ずっと抱えていた言葉を音にする。
「なんでっ」
俺の必死の叫びにも、彼女は目を伏せるばかりで一言も発しない。
その様子に、また怒りが煽られる。今日、彼女が返しに来たという『俺の私物』をみなければ、疑問すら湧かなかったことを母親に聞かされたのだ。その衝撃は、決して仕事帰りの疲れた頭で受けたいものではなかった。
「何で、俺の婚約者だって言わなかったんだよっ!」
微かに震えた言葉は、怒りのためだと思いたい。
何も、彼女の気持ちを考えず勝手にふるまっていた自分を恥じて、泣きたくなっているわけではないのだと思いたかった。何しろ、苦しんでいる一番の被害者は自分だと信じて疑っていなかったのだ。まさか、婚約者に自分のことだけ忘れ去られているなんて現実が、どれだけ残酷なものかなんて想像すらしたくない。その上そんな残酷なことをしていたのが自分自身だなんて、信じたくなかった。
考えてみれば、ずっと不思議なことばかりだった。
はじめは親しげに接してきたし、なんて事ないように着替えを手伝おうとしてきたくせに、いざ記憶がないとわかれば急によそよそしくなったりして。
それでいて甲斐甲斐しく世話を焼いたり、空いた時間のほとんどを俺に捧げている様子だった。その様子が不思議で、不思議で……ときどき苦痛だった。
どうしたって彼女がそういうことをするのは、『過去の俺』を取り戻したいがためだと考えずにはいられなかった。優しくされるたび、世話を焼かれるたびに「どうして思い出してくれないのか」と責められている気持ちになるのだ。
いつからか俺は、彼女の口から直接記憶をなくしたことを責められるのが怖くて、まともに顔を合わせることができないでいた。―――それなのに、今はその瞳が合わされないことに不満を覚えている。
「……った?」
「えっ?」
望んでいた視線がようやく絡んだのに、その瞳に見据えられて思わず息をのむ。
これまで見てきた、どこか困ったような表情の彼女はそこにいなかった。オドオドした雰囲気にイラつくことも多かったのに、見慣れない様子にたじろぐ。
「言ったところで……何か変わった?」
冷めた眼差しで問われ、ぐっと言い詰まった。
気づけばあたりは暗くなり、彼女の輪郭もぼやけて見える。街灯に照らされた姿に、なぜか焦りを募らせていた。
「貴方はずっと思い出すことを拒否していて、苦しみから逃れようとしていた。
そこに来て私のことを知れば、余計重みに感じるだけでしょう?」
だからわざと、自分が恋人だとわかりそうな写真やペアのものなどは隠したのだという。これまで散々余裕がない姿を見られ、荒れていた俺には何も言うことができなかった。
「本当は、貴方と過ごした日々が本物だと実感できるものを近くに置いておきたかっただけかもしれない。―――でも、もうそれも必要なくなったから。不要なら処分してください」
「そんな、」
勝手だと、一方的すぎると続けようとした言葉を音として吐き出さなかったのは、微かに残った理性のおかげだ。あれだけの仕打ちをしても見捨てず寄り添おうとしてくれていたのに、俺は彼女ひとり忘れているだけだと心のどこかで軽んじていた。
言葉だけではなんとでもいえるが、その場しのぎで口にした空々しい台詞などすぐに見破られてしまうだろう。なんと返せばいいのかわからないまま黙り込むこちらを見限るように、ふっと彼女は息を吐いた。
「もう……疲れちゃったよ」
ため息とともに零された言葉は、俺たちの間に重く落とされた。
―――音もなく、彼女は背を向け歩き出す。
今まで隣だって歩くか、後ろにいることが多かったから去る姿を見るのは初めてだった。迷いなく歩く彼女はどうしてか魅力的で、思わず引き止めたくなる。未練たらしくその姿から目をそらせずにいると、すごいスピードで彼女に迫る車がみえ衝動的に動いていた。
再び、目を開けた俺が見たのはボロボロ涙を流す那奈の姿だった。
何故かその様子にデジャブを感じて、目を瞬く。考えてみれば、前回に記憶をなくすほどの事故に遭った時も、こうして下から彼女を見上げたのだ。記憶をなくす前に見た光景と同じだなんて、縁起がいいのか悪いのかわからない。
「よかっ……、よかったぁ……」
しゃくりあげる声に交じり、どうして車の前に飛び出すのだと罵る声が聞こえる。記憶をなくしてもやっぱり馬鹿なのかという言葉に、なんだか酷い言いぐさをされているとふっと力が抜けて笑う。
「人がっ心配しているのに、何わらっ、笑って、いるのよぉ」
化粧した顔がぐしゃぐしゃになるほど、涙をこぼしている姿を見て、何故だかこいつを好きになってよかったと実感した。こんなに嬉しくてしょうがないのに、笑うなという方が無理がある。
「二回とも最愛の恋人を守れたんだから、結果さえ良ければいいじゃん」
「に、かいって……、記憶が?」
くしゃりと顔をゆがめる彼女の頬へ手をやり、びしょびしょに濡れた頬をぬぐう。
それより、二度も事故へ巻き込まれそうになるなど、それこそ運がなくてそちらの方が心配になる。本当に彼女を守ることが出来て良かったと、内心胸をなでおろした。
「おい。俺がまた記憶喪失になる前に、お祓い行こうな」
絶対にお前にはよくないものが憑いているぞと、声を潜めていうと、今度こそ顔をゆがめて泣き笑いをした。彼女のことだからどうせ、自分のせいで俺が記憶をなくしたのだとずっと自分を責め続けていたのだろう。今となっては、彼女のためにも記憶を取り戻せてよかったと胸をなでおろす。
望んでいたような笑顔ではなかったけれど、轢かれそうになった後にしては成功だ。こいつの笑顔が好きだったし、一番笑わせることができるのは俺だと自負しているのに、長いこと好きな笑顔を見ることができないでいた。記憶がない間にみた笑顔なんて、他人行儀過ぎて納得いかない。そんな事を考えている所で、突然髪を梳かれて目を細める。
「『また』なんて……二度と、ごめんよ」
あまりに神妙に言われた言葉に実感がこもりすぎていて、思わずにが笑う。
元カノといったことを引き合いに出され、想像以上に根に持っていることが分かった。
「じゃあ、約束だな」
「『また』忘れないでよ?」
周囲にはわからない内容で、そっと笑いあう。
何でもないようなことでも、二人笑っていられる日々が欲しくてプロポーズしたのだ。もう二度と、冗談でもこの手を離すなんて言いはしない。どんなに記憶をなくしても、遠くに離れていても……こうして出逢い、思いだせるように目印をつけよう。記憶をなくしている間もずっと、どうしても手放すことのできなかったポケットに入ったエンゲージリングを、そっと互いの指へはめて見せた。
次話は、無理やり違う世界へ引きずり込まれた女の子と幼馴染のお話です。




