綺麗好きの妖怪
注意!
日本の妖怪のなかでも独特な存在を扱っております。多少覚悟してお読みください。
おまけに、章はジャンルごとには分けられそうにないので、投稿年ごとに分けてみました。
そっと、誰もいないことを確認して扉を開ける。
深夜のこの時間帯には、当然家主も寝静まり。都会というには不便の多いこの地域では、外を歩く人などまずいない。住宅地だし、大通りからは少し離れているから大丈夫なはずだ。
まったく。一昔前であれば、こんな夜更けにこそこそする必要などなかったというのに。最近では人口の光源が赤々と周囲を満たし、照明の目的ではない光などを含めれば明かりのない場所など皆無ではないだろうか?
その点、ようやく見つけたこの家はいい具合に古びており、趣がある。
見慣れた日本家屋で、ところどころ改装したのか現代的な作りになっている箇所も少なくないが、数十年は経過しているのだろう。足を進めるまでに見た、ギシギシなる廊下や土壁は懐かしく嬉しくなる。何より、がらがらと横開きの上にガラスで作られた浴室の扉なんて、俺にしてみれば大当たりだ。これで、木のスノコが下に敷かれていたら懐かしくてたまらないのだが、床だけはタイルだったのはご愛嬌だ。
「久しぶりに、こんな理想的な風呂を見つけたな」
長年使いこまれていると思わしきこの風呂は、俺にとっては夢のような空間だ。
浴室へ入り適度に湿った壁に触れると、ざらりとした感触がある。端々に見える黒ずみは、丁寧に使ってきているからこそだろう。新築とはまた違った独特の香りに混じって、カビのにおいを鋭い鼻が嗅ぎ取った。
「おっと、こんな所に石鹸カスが……」
夜目の利く俺には、かすかな汚れも手に取るようにはっきりわかる。
おそるおそる風呂桶へ手を伸ばした時に、それは起こった。
「あんた、何しているのっ!」
「っっ!」
ぱっとついた明りに、目を覆う。
夜目が利く瞳には、人間たちがつかう光源は凶器になる。特にこのように暗がりだったのに、突然明かりをつけられた時などは目が痛くてしばらく動けなくなってしまう。普段であれば少しの物音でも家主に姿を見られぬよう、姿を消すように心がけているのだが……。久しぶりに食事へありつける興奮で、気が急いていたようだ。気づいたときには目を刺す痛みに苦しみ、姿を隠すのも忘れうずくまった。
「人の家でなにしているのかって、聞いてんのよ!」
バシリと、背中へ鈍い痛みが走る。
目をつむり、掌で覆っても行燈より明るい光をふさぐことができない。うずくまる俺に容赦なく、家主は長い何かを振りかざしたようだ。背中で受け止めたそれは、べちべちと音を立てている。柔らかさのあるそれはさほど痛みを感じなかったため、とりあえずやめさせようと謝罪を繰り返した。
「すみませんっ、すみません!」
しばらく目を瞬かせてようやく直視したそれは、なんとプラスチック製のハエ叩きであった。この家同様使い込まれているらしいそれには、黒い転々とした汚れや……小さな羽が付着していた。
明らかに本来の役割を果たしていたであろうそれで、俺は背中を叩かれていたようだ。―――そう、それこそ『何度も』。
「うっわぁぁぁ!」
今度は、目の痛みとはまた違う衝撃に声を張り上げ、のけぞった。そこまで叩かれた痛みはなかったはずなのに、なぜか精神的な傷はやけに深い。
よもや、背中に死骸の欠片などついてはいないかと、首や体を必死によじって確認しようとしている俺に、更なる攻撃は続く。
「うわぁって、叫びたいのはこっちよ!
こんな夜更けに人んちに侵入して、ただで済むと思っていないでしょうねっ」
その瞳には、はっきりとした怒りと軽蔑が含まれていた。
口調も荒く興奮しているのに、手に持っているのはハエ叩きというのは傍目で見ていればシュールだと笑ってしまう光景だろう。……だが、侮ることなかれ。
台所などでよく見かける黒い虫をふくめ、いろいろな害虫を葬ってきたと思わしきそれで殴られるのは、存外嫌なものだと身をもって知った。
「あ、頭を……頭を、『それ』で殴らないでくれ!」
「夜中に不法侵入しておいて、なに偉そうに主張しているのよっ!」
手のスナップを利かせたハエ叩きは、びゅうびゅうと風を切るような音をたてている。
以前にちらりと見た、やけに筋肉の発達したテニスプレイヤーのごとく、嫌な染みつきのハエ叩きが俺の頭に何度も振り落された。武器がもっと固いものであれば、確実に殴り殺されているだろうレベルで叩かれている。あまりの勢いに、ハエ叩きが髪に絡みつくのが分かり泣きそうになる。
「違います!俺は妖怪ですっ」
信じてもらえないかもしれないけれど、本当に俺は妖怪なのだ。
こんな状況では信じてもらえず、もっと怒り狂うかもしれないとも考えた。だが、ハエ叩きから落ちたと思われる昆虫の足が、ぽとりと目の前を通過したことでさらにパニックに陥っていたのだ。人より少し舌が長いこと以外は、多少身長が低いだけの自分の体が、このときばかりは恨めしい。
俺の予想に反して、彼女はゆっくりこちらへ目線を合わせた。
少しは話を聞く気になったのかとほっとしたのに、ぴたりと合わさったその瞳には温度がなく背中に汗が流れていく気がした。ごくりと思わず飲み込んだつばの音を境に、ふぅっと言うやけに長い溜息をついたかと思えば無言で首を振って見せる。
「最近子どもたちの間で、何でもアニメに出てくる妖怪のせいにするのが流行っているというのは聞いていたけれど……」
変質者までこんな言い訳するなんてと、先ほどよりも冷ややかな目は明らかに俺を蔑んでいた。本物の変態ならばここで喜ぶのもありかもしれないが、本物の妖怪である俺は人と目を合わせることすら稀なのだ。
久しぶりに接した人間……しかも年若い女性から、ここまで冷ややかなまなざしを貰うなんて耐えられず泣いてしまう。なんとか分かってもらおうと絞り出した声は、震えていた。
「違うんです。俺は、垢嘗めっていう妖怪で!」
「アカナメ?」
「そうです!」
つい、話を聞いてもらえるのが嬉しくて熱く語る。
普段人間のまえには姿を見せないようにしているし、そもそも妖怪を見ることができる人間自体が数十年前と比べ減っている。科学の発展などにより、目に見える物しか信じない人間が増えたからだと妖怪仲間の泣き婆などはぼやいていた。
もっとも、泣き婆はいつも泣く材料を探しては嘆いているのだが。
信仰心が薄れたことや、迷信を信じない人間が増えたからなのか理由は定かではないが、姿を見られたとしても寝ぼけた子どもばかりで、こんなに長いこと人間と話したのなど久しぶりだ。
一番近くで言えば、50年ほど前に風呂場で自殺を図ろうとしていた女性へ姿を現して、阻止したときか。あれは良いことをしたと胸を張りたいくらいなのだが、数日後に心配で様子を見に行けば「お風呂場で寝ぼけて、変質者に説教される夢を見たの」なんて、恋人相手に話していて落ち込んだ。
全裸で剃刀を手首に当てながら「彼氏に振られた腹いせに、死んでやるー!」なんて叫んでいたところを助けてやったのに、恩じ……恩妖相手に酷い言いぐさだ。散々聞いた恋人の愚痴とは異なる容姿だったから、とっとと新しい男を見つけたのだろう。
現在もあのとき同様、垢の素晴らしさや垢嘗めという妖怪の尊さなどを語って聞かせたのだが、彼女の反応はまったく異なるものだった。
「なに……。あんた不法侵入のみならず、垢なんて舐めてたの……」
明らかにどん引きしている彼女を前にして、今の説明は確実に間違っていたことを知る。
薬を飲んで意識朦朧としている人間の女だったから前回はうまくいったが、目の前にいるのははっきりと覚醒した人間なのだ。
おまけに、殺傷能力はないとはいえ違う意味で効果抜群の武器をもって、不法侵入者の前にやってくるほど豪胆な女なのだから、ここは熱く語るのではなくすみやかに逃げるところだったのに、完全に見誤った。
「うわぁ……警察に厳重注意だけお願いしようと思ったけど、これは駄目だわ」
ぽそりと呟かれた言葉は、何より彼女の内心を表しているようでだらだら汗が止まらない。これまで以上に、彼女から険悪なオーラが放たれている。その時の俺は、目くらましの術で姿を消せばいいという考えすら浮かばず、ひたすら怯えるしかなかった。
その後、警察を呼ばれるまえに彼女の家族が起きてくることになる。
だが、幸いなことに彼女しか妖怪を見ることができる者はおらず「どうして手ごたえまであるのに、私にしか見えないのよっ」と、八つ当たりで殴られまくることになるとは……、知りもしなかった。
日本の昔話である『力太郎』を初めて知った時は、自分たちの垢で人形つくるとかどうなっているんだと、子どもながらにお婆さんたちの頭を疑いました。しかも、それが人間の赤ちゃんになるとか「これはホラーだったの?」と、恐ろしかったです。
今回扱った妖怪も、初めて知ったときの衝撃はなかなかな物でした。
日本書紀といい、過去の日本人の想像力の計り知れなさは半端ないと思います。
次話は、友人と同じ人に恋した女子高生のお話です。