はつこい
タイトルの雰囲気は可愛らしいですが、内容は苦めかもしれません。
娘と二人、向き合って恋の話に花を咲かせる。
周囲の人間から聞いたらなんてことのない事柄も、初めて恋した少女にとっては心躍るものなのだ。ずいぶん前に捨てたはずの、木苺を食べた時のような独特の感覚が私の胸を締め付ける。
「じゃあ、例の先輩に部活のこと相談してみたの?」
「そう!先輩って教え方も上手で、やさしかったのっ」
頬を染め、些細な出来事に一喜一憂する娘をみて、思わずまぶしさに目を細めた。
キラキラと輝くさまを近くで見せつけられると、昔に言われた「若くてうらやましいわぁ」という、年長者たちの言葉が頭によみがえってくる。
当時は訳がわからなくて、ただただ幼いと馬鹿にされているように感じた言葉も、今なら少しわかる気がする。
年を重ねるごとに、感情を素直に表現するのが難しくなった。
周囲の環境にあわせ、自身の置かれた状況などを客観的にみるくせがついた今、『うれしい』というプラスの感情すら抑えている自分がいることに気付く。
「いい人そうでよかったわね」
「うん、悪い噂だって聞かないんだから!」
「ふーん。じゃあ、さぞ人気もあるんでしょうね?」
からかう様に口角を上げると、ぷくぅっと血色のいい頬を膨らませてみせた。
人気がある先輩が恋の相手というのは、なかなか辛いものがある。遠目で友人たちときゃあきゃあ言い合っている時が一番楽しく。いざお近づきになれればやれ紹介しろだの、抜け駆けはするななど面倒なおきてが出来上がるのだ。
たとえ友人との好みが異なっていても、どれだけ素敵かと惚気ているうちに友人がライバルに格上げされている時だってあるし。先輩や同級生から向けられる目も、厳しくなる。
―――もっと早くに相談してくれればやめておきなさいと助言できたのだが、娘の心は単なるミーハーから恋心へ変化を遂げたらしい。一度こうなれば周囲の助言など耳には入らず、自分の納得できるところまで突き進むしかないのだと身をもって知っている。親にできることなど、本当に少ないのだとため息を落とす。
学生のころは親の干渉が邪魔くさくて、いつまでも子ども扱いをされていて何一つ自由にならなかった印象があるのに。いざ逆の立場に立たされてみれば心配ばかりが先立ち、どうすればこの子にとって一番いいのか頭を悩ませる日々が続いている。
自身の母親もこういう気持ちをあじわったのか確かめてみたい気持ちもするが、『こちらが明かしていないことまで知られていたら…』と思うとなかなか問いかける気が起きない。所詮、パンドラの箱といったところだ。もし開けば希望があふれ出そうとも、私はそれに手を伸ばす気にはならない。
どんなにやらないで後悔するよりも、やって後悔した方がいいと言われても。
過去の失敗が自分の行動範囲を狭めていく。まったく…大人などつまらないものだと時々我がことながら呆れてしまう。
「人気もあるし優しかった。でも改めて話してみて、また好きになっちゃったんだから…しょうがないじゃん」
「彼女はいないって聞いたんでしょう?
それなら、できるところまで頑張ってみれば」
「また他人事みたいに…」
「あら、だって他人事だもの。そもそも、簡単にあきらめられないんでしょう?」
頬を染め、モジモジしながら小さく頷いてみせる。
親バカと言われるかもしれないが、こんな時は本当に我が子ながらかわいいと感じてしまう。目を引くような美人ではないのだが、にこりと笑った時に出るえくぼはきゅんとする。
好きな人の前では緊張して表情が固まってしまうと本人は言うが、この笑顔は大分プラスに働くのではないだろうか?純粋な娘をまえに、そんなあざとい考えが浮かんでくる。
―――私も、娘のように素直に笑えていたらうまくいったのだろうか?
ふっと浮かんだ考えの愚かさに、苦笑してしまう。
何かと裏をかいてしまうのは子どものころからだし、笑顔一つであの状況が打開できたとは考えにくい。こんなくだらないセンチメンタルな感情も、まぶしいくらいの娘と甘やかな初恋に充てられたのだろう。首を振って頭を切り替えた。
「初恋はかなわないっていうけど、そんなことないよね?」
突然ふられた話題にびくりと体を震わせる。
ささやかな動揺を悟られない様に、両手で包んでいたコーヒーを口に含む。独特の香りと苦みが口へひろがり、私に冷静さを取り戻させてくれる。思えばこれをおいしいと感じるなど、あの頃ではありえないと思っていた。
「……さぁ?それは本人たち次第じゃないかしら」
そっけない言葉に不満そうな表情をしていたが、そのうち諦めたのか娘もカップを傾けた。娘のカップにはストロベリーティーが入っており、その甘い香りは今の彼女ぴったりだった。
「もうっ、そこは賛成してくれるところでしょう!」
「お母さんがなんと言っても、頑張った人には相応の結果がついてくるものよ?」
娘にとっては予想外の言葉だったのか夫そっくりの目を丸々とみひらき、一瞬の後に破顔した。
「うん、私がそのジンクス壊してみせる」
―――まぁ、彼女の父親は自らそのジンクスを壊すように、初恋の女性を選んだのだが。
力強く決意を口にする娘に対し、心のなかでそんな意地悪な言葉をささやく。
娘をおいていってくれ、約束をたがうことなく養育費を払い続けてくれている面には感謝してもいい。だが、腐ってもこの子の父親。いるといないでは大違いだ。高校生になった娘が寂しさを口にすることはないが、お父さんっ子だった彼女には、なかなかつらい状況だろう。
しばらくの間、夜中に一人泣いていたことも知っている。こんな風に二人笑いあって、ともすれば話しにくいであろう恋愛相談まで母親である私にしてくれるのが嬉しかった。
「それにしても初恋なんて…大きくなったのねぇ」
「なぁに?突然」
くすくす笑うその顔には、チャームポイントであるえくぼが浮かんでいた。
すこし照れくさくなったのか、「お風呂に入ってくるね」と逃げるようにリビングを出て行ってしまった。
今思い返してみれば、元夫は私の心に居ついたあの人の存在に気づいていたのだろう。いつまでも衰えることなく、きれいな思い出は時が経過するとともにさらに色鮮やかに輝いて見えた。結婚してからは幾度も忘れようと頑張っていたし、正直子育ての忙しさで淡い想いにとらわれる余裕などなかった。
―――しかし、ふとした拍子に思い出すのはあの人のことで。
病気で寝込んでいる時や、つらいとき傍にいてほしいと心が悲鳴を上げながら求めるのはあの人なのだ。それは夫や家族に対する裏切りではないかと何度も悩んだが、心にぽっかりとあの人分の空白が開いたままで埋めることができずにいた。
『あの人』とは学生時代に交際していた人であり、忘れられない初恋の相手でもある。彼のことがとにかく好きで、相手のことを理解したいと思ったし、してほしいと願っていた。それ故、幼い嫉妬や束縛をくりかえしては些細なことで口論になる。彼は私よりも年上だったから我慢もたくさんしてくれただろうし、一方的に甘えることも多かった。
私が彼を理解しようとしていたのは表面的なことだけで、本当は何も理解できていなかったのだと気付いたのは別れの前にした大ゲンカの時だ。
当時の私は仕事の大変さを理解せず、自身がしている小遣い稼ぎのバイトと比べ、不満を募らせていた。飲むのも立派な付き合いで大切なことだと言われても、楽しんでいるようにしか思えなかったし、休日がつぶれるというのも理解できず。
年上で優しい彼に甘えるばかりで、仕事が忙しいというかれに我が儘を言っては困らせた。こちらとしても、子どもだと馬鹿にされたくないから最初のうちは我慢していた。けれど不満がたまれば、いつしか彼に対する不信感がつよくなり。
「だから…浮気なんてしてないって言ってるだろ?」
「嘘よ!仕事だなんて言って、私以外の人と会ってるんでしょうっ?」
「どうしてそんな方向に行くんだよ…」
呆れたようにため息をつかれ、我慢が出来なくなった。
「もういいよっ!」
「あっ、おい!」
彼が何を考えているのか知りたくて投げかけた言葉も、軽くかわされて頭にきた。
何よりも、終始冷静で大人な彼と付き合い続ける自信がなくなってしまったのだ。自分も働いてみて、ようやく彼も慣れない仕事で大変だったのだと理解できた。彼の方は入社したてで、なれない仕事と新しい人間関係で余裕がなかったのだろう。
現在の自分より、はるかに若い彼の精いっぱいの虚勢と余裕ある姿を、すべて信じ自分ばかりが一方的に好いているのだと思いあがっていた。
今となっては、あの人の気持ちを確かめようがないし、どう思っていてくれたかは分からないけれど…優しい彼しか思い出せない。
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街で買い物をすませた帰り道。学生たちの集団の中に、見慣れた姿を見つけて表情を和らげた。背の高い男子生徒のとなりを歩く娘は、家族に見せる物とはまた違うはにかむような、とても可愛らしい笑みを浮かべていた。
頬を少し染め、すたすたと先を行く男子生徒たちに送れぬように小走りになっているさまは、同じ女としても可愛く見える。願わくば、そんな表情をさせてくれている相手にも可愛らしく映っていればいい。
そう思いながら隣にいた男の子へ視線を向ける。何気ない動作だったのだが、髪をさわる様子をみて思考が止まった。娘の混じる一団を見つけてからは、学校ではどういう風にすごしているのかといろいろ観察していたのに…。照れたようにうつむくその子から目が離せなくなった。
「―――えっ、あ…」
あんまりな幻覚に、くらりと眩暈に似た感覚をおぼえて近くの壁へ縋りつく。
『冷静になれ』と呪文を唱えるようにひたすら繰り返し、ギュッと目をつぶり深呼吸する。ここにあの人がいるわけないし、そもそも私が彼の制服姿を見たのはアルバムの写真の中だけだ。
恐る恐る目を開くと記憶のなかのあの人よりも背が低いし、髪もあんなにサラサラではなかった。そうまで考えたところで、少し癖のついた髪を撫でる感触がよみがえってくるようで、両手をぎゅっと握りしめた。
「白昼夢にしても…馬鹿馬鹿しいったらないわ」
あの人に多少雰囲気が似ている子を見かけたくらいで、ここまで動揺するなんて情けない。何十年と経過し成長した今でも、些細なきっかけでぐらつく自身を笑ってしまう。大きくなった娘をみて、『自分も年を取ったものだ』と昨日感じたばかりなのに。
よりにもよって娘の思い人を見て面影がにているなど…嫌、娘だからこそかもしれない。
「血は争えない…とでも言いたいのかしら?」
神様はときどき意地悪なことをするものだ。
親子なのだし、好みが似ているのは仕方がない。娘の話を聞いたかぎりでも、相手の子はずいぶん印象が良かった。第一、娘は元旦那に似て優しいから、私のような苦い初恋の思い出にはならないだろうと信じられる。まさか、癖や雰囲気が似ているだけで交際を反対するほどイカレタ親ではないつもりだし、その必要も感じられない。
「あの子は、私とは違う」
当時着ていた制服とは異なるのに、なぜか娘が過去の私とダブり、男の子は『あの人』であるような錯覚を起こす。当時どんなに望んでも手に入らなかった対等な立場にいる二人に、嫉妬しているのかもしれない。ふたたび体が傾くような感覚をおぼえ、足を踏ん張りまぶたを閉じる。
しばらく目を閉じたままぐらぐらと揺れる感覚と微かな吐き気をこらえていると、そこにはもう学生たちの姿はなかった。
「彼のあの癖…すきだったな」
私の愚かな未練を証明するように、つぅーっと一筋の涙が頬を伝い落ちた。
紛らわしいですが、最後の彼は思い出のなかの『あの人』です。
次話は、あこがれの存在と出会った女子大生のお話です。