酒は天の美禄
「酒は天の美禄」……酒のうまさ、酔いの心地の素晴らしさを賛美する言葉。『故事ことわざ辞典』より引用。
バタンっと、ドアの閉まる音に続いて「ただいまぁ~」という、やけに間延びしたのんきな言葉が聞こえてきた。両親は「今夜はデートしてくるから、適当に晩御飯すませてねぇ」と朝に忠告されていたため、きっとまた兄が気まぐれに帰ってきたのだろうと見当をつける。
兄が一人暮らしを始めて、最初のうちは寂しいなどといっていた私たちだったが、金欠になるたびにふらりと立ち寄る兄に慣れつつあった。ひどい時は私が大学に行っている間にリビングで寛いでいるような事もあって、「嗚呼、三年にもなれば楽になるのかなぁ」と羨ましく感じるものだ。
何せこちらは入学してようやく半年経過したくらいなのだ。
慣れない生活にようやく慣れたかとおもえば、前期と後期では科目も日程も変わり生活リズムも微妙に変化する。
私はサークルに入っていないため、文化祭の時期は他の友達より楽だったが、冬を迎えるにあたって前々からテストやレポートの準備に入らないと大変な事になると聞いている。
未知のことに戸惑いながらも、友人と勉強会を開いたりして何とか乗り越えたが、後期は前期の倍近くテストやレポート提出があるから大変なのだ。
―――少なくとも、あの兄みたいにバイトに明け暮れる時間はない。
バイトをしているくせに、それを上回るお金の使い方に呆れてしまう。
そんな事を考えながら自分で作った野菜炒めをモソモソ食べていると、「うわぁ、美味しそう」という声が至近距離できこえ飛び跳ねた。
「だ、だれっ?」
そう、目の前にいるのは見ず知らずの青年だったのだ。二つ上の兄とさほど変わらない年齢の男は、にこにこと愛想よく笑いながら上着を脱いだ。
「ただいまぁ」
「はぁっ!?」
私はこんな男のことなど知りもしなければ、見たこともない。
ましてや「ただいま」などと挨拶される間柄ではないと思うのだが、堂々と入って来た男に戸惑ってしまう。
「お水ちょうだぁい」
イスに勝手に座ると、男はべたりと机に顔をつけた。
四人掛けの机なのに、なぜそこを選ぶのか?そんな疑問を持ちながら、箸をもったまま動けない。男は私の正面へ座り、苦しそうに呻いている。
「お水ぅぅ」
「あっ、はい」
家族にもそんな素直な返事をしないだろうに、私はワタワタと慌てて立ち上がった。男の呼気からはアルコール臭がして、頬が赤らんでいる。明らかに、酔っぱらって、部屋を間違っているのだろう。
夜に誰もいない家で見知らぬ男と二人っきりだというのは恐ろしいが、いつまでもここにいられても迷惑だ。相手は水を欲しがっているのだから、とっとと酔いを醒まして帰ってもらおうと考えたのだ。
なけなしの防御としてクッションを一つ胸元に抱えて見守るが、男はこちらの心情など気にした様子もなくゴクゴクと水を飲み干していく。
「ぷっふぁぁ!おかわりっ」
「………」
にへらぁと締まりのない笑みを向けながら言われたことで、若干苛立ちつつも大人しく従う。両親がいない時間を一人でゆっくり過ごそうと考えていたが、酔っ払いの世話など予定には入っていなかった。
いきなり入ってきた珍客に苛々しながら、私はくるりと振り返って悲鳴を上げた。
「何してるんですかっ!」
男はなぜか冷蔵庫の中に、財布をしまおうとしていたのだ。
テレビなどでよく聞く話だが、まさかそれを自分の目で確かめる羽目になるとは、思わなかった。
「冷蔵庫に入れようとしてるぅ」
「財布なんて、冷蔵庫に入れないでくださいっ」
「じゃあ、冷凍庫にするぅ」
どっちも一緒だっ!と、出かかっていた怒鳴り声をぎりぎりのところで飲み込んだ。お酒の飲めない身としては、酔っ払いの相手など面倒なことこの上ない。時々父や兄が絡んでくるが、冷たくあしらうだけでちゃんと引く。だから、手に負えない酔っ払いなど初めてみた。
ものの数分でこいつは自分の手に負えないと判断した私は、助けを呼ぶために自分のケータイをつかんだ。
「ちょっとぉぉ!」
ケータイをつかんだ直後、私は信じられないものをみた。
かちゃかちゃとベルトを弄り「トイレいきたくなっちゃったぁ」などといいながら、私の部屋につながるドアを開けようとしているのだ。
「やめてやめてやめてっ!トイレはそっち!」
がしっと服をつかみ、おぼつかない足取りの男をトイレまで連行する。
本当はそれでさえも不安だったのだが、流石に用を足している姿を見張るわけにもいかないので、扉の前でハラハラと出てくるのを待った。
なんとかまともに出てきた男をみて安心したが、トイレにある芳香剤の中身がぶちまけられていることに唖然とする。こんなものわざわざ振り回しでもしない限り、勝手に出てきやしないだろうに。
丁寧に容器だけ元の場所へ戻されているのをみると、わざと嫌がらせしているのではないかと勘繰りたくなる。
粉状のそれはなかなか取れず、後で掃除機でもかけなきゃダメそうだ。
「はぁー」
深いため息をついている私の横をぬけ、男は再びリビングへ向かっていく。
「ちょっ、そろそろいい加減に帰りなさいよっ!」
「あはははは」
赤ら顔の男におちょくられているような気がして、ついつい腕を引っ張る手に力を込めてしまう。
「ぎゃぁー何脱ごうとしているのよっ!」
「放してくれないから、暑いしいいかなぁって」
何がいいのか全く分からない。
引っ張る私を利用するように、体を曲げて腕を伸ばし子どもがするように脱ごうとしている。なんとしても男を半裸にしないよう今度は逆に服を下へ引っ張ると、「じゃあ…」といってズボンを脱ごうとするから驚いた。
「もういやだ、この酔っ払い!」
服を脱ごうとするのを、アイスを与えることで止めて今度は私が机に突っ伏した。
デザートに食べようと買ってきた好物のアイスは少しお高いため一つしかなくて、それを男に差し出してしまったのだ。いくら妥協案だったとはいえ、目のまえで美味しそうにスプーンを咥えている姿をみると殺意が湧く。
「これ、新作だぁ。俺初めてたべるぅ」
「そりゃあ、よかったですね!」
「うん、美味しい」
語尾にハートマークがついているのではないかと疑いたくなるような、間延びした応え方をされて頬をひきつらせた。
終始にこにこ笑っている見知らぬ酔っ払いと、何故に私は向いあって座らなければならないのだろう。誰に聞けばいいのか分からない問いが頭を占める。
あえて聞くとすれば、目のまえの酔っ払いに聞くしかないのであろうが、まともな答えが返ってくるとは思えない。
「あっ、そうだ電話!」
酔っ払いに振り回されていたお蔭で、すっかり助けを求めるのを忘れていた。
両親に連絡がつかないのなら、この際頼りないがお兄ちゃんでもいい。
案の定、両親はひさしぶりのデートを楽しんでいるようで連絡がつかない。
時々うちの両親は『二人の時間が足りない』などといって、出かけていく。それは食事だけのときや一日中出かけときと色々あるのだが、母がデートと言うときは決まって連絡が取りづらくなる。
これまではなんてことはなかったのだが、非常事態である今は勘弁してほしい。
ここは兄に頼るしかないとアドレス帳を開く視界の端で、ちらりと男が動いて目線をあげた。
「うわぁ、ちょー眠いんだけど。風呂入んないとだめだよねぇ」
「なっ、ちょっと待って!確かに眠られても困るんだけどっ」
とっとと帰って、自分の家の風呂にでも浸かってろ!そう叫びたいのを堪えているのだが、酔っ払いにそんなこと言って逆上されないか怖くて、声に出すことはできない。
「なんでお風呂の場所は間違えないのよ!」
「えぇ?そんなに俺の服引っ張って、一緒に入りたいのぉ?」
「何ぬかしてやがる、この酔っ払いっ」
男の背中にタックルをして止めようと試みるが、ずるずる引きずられて動きを封じることすらできない。
「もうっ、本当に帰ってよ!」
「何騒いでいるんだ?」
「あっ、お父さん!」
両親の「ただいまぁ」というのんきな声を聴いてほっと肩の力を抜いた。
これでやっと『見知らぬ酔っ払いの面倒を見る』という恐怖と『貞操の危機』から脱することが出来るかと思うと、いつもはうざく感じている二人も有難く思える。
普段生意気な口きいてごめんなさいっ!今ならいくらでも謝れる気がする。
「たすけてっ!この酔っ払い勝手に入ってきたの!!」
「あら、潦くんじゃない」
「はぁ?」
いきなり入ってきた酔っ払いを知っている様子の母親に、若干いやな眼差しを向けてしまう。こんな酒癖の悪い人間と、どこで会ったんだ?…そして、どういう経緯があって顔見知りになった。
私の言いたいことを知ってか知らずか、逆に呆れた眼差しを向けられてしまう。
「あんた、上の階に住んでいる人の顔も知らないの?」
薄々勘付いてはいたが、やっぱり酔っ払いはこのマンションの住人だったらしい。
時々エレベーターのボタンを押し間違えて、異なる階にでることもあるが部屋へ入る前に気付くだろう。……もしや酔っぱらうと、そんな事まで分からなくなるのか?これが普通だなんて認めたくなくて、ついまじまじと酔っ払いを眺めた。
「嗚呼、両親が海外赴任中だから一人で住んでいるんだっけ?」
父親がそんなことを言いながら、酔っ払いに挨拶している。
両親をみてきょとんとしていた酔っ払いは、挨拶をされた途端ににこぉっと笑い「こんにちはぁ」と、元気に返した。
「お酒弱いんだって言ってたのに、またお友達と飲んじゃったの?」
「はいぃ、最初の一杯を飲んだら止まらなくてぇ」
「おっ、弱いと言っても酒は好きか。今度一緒にゆっくり飲もう」
「うわぁ嬉しい、ありがとうございますぅ」
「あら、もう帰るの?」
「はいぃ、お邪魔しましたぁ」
「こ…、これまでの苦労は一体……」
いくら言ってもいうことを聞かなかった酔っ払いは、やってきた時と同様に突然帰って行った。翌日、昨日よりも顔を真っ赤に染めて謝罪しにきた彼は、案外普通の人だった。
間延びした喋り方などせず、むしろこちらが恐縮するほど詫びてきたため、嫌味の一つも言えなかった。「迷惑かけたお詫びに」と渡されたアイスは昨日彼に譲ってしまったものと同じメーカーだった。通常より一回り小さいカップアイスが箱に収められているものと、個別のもの両方あって頬がゆるむ。
「以前に、お嬢さんもここのアイスが好きだと聞いていたので。
ちょっと安っぽいかと、思ったのですが…」
恐縮する彼に、なにをおっしゃるのかと反論する。
たしかにコンビニ袋を直で渡すのはいただけないかもしれないが、このメーカーのアイスを全種類買ったらなかなかいい金額になっただろう。ましてや値引きなしのコンビニでかうなど、このお兄さんは相当な善人だとお見受けした。
そもそも、この美味しさを理解できる人間に悪い人はいないと思う。
―――酒は善人さえも狂わせる。
そう深く心に刻み込んだ。
「本当に、ご迷惑おかけしてすみませんでした」
「いやぁ、もうこんなにアイスを貰えるなら、また来てほしいくらいですよ」
「いえもう、飲みすぎないようにします」
苦笑する潦さんを、昨日とは真逆のにこにこ顔で見送った。
どうやらお酒に弱いと言っても記憶は残っているようだし、『早々同じような目にあうわけがない』という私の甘い考えは、一週間もたたないうちに裏切られる事になる。
「ただいまぁー」
「ぎゃあぁぁーまた来たぁぁ!」
この日を境に、酔っ払いこと上の階の住人は何かというと我が家を訪ねてくるようになる。…しかも決まってひどく酔った状態で。その後、私はまだ酒が飲める年齢でもないのに、酔っ払いのあしらい方が飛躍的にうまくなり、飲み会などで何かと介抱を押し付けられるようになったのは悲しい事実だ。
酔ったうえでの失敗談は聞くだけなら面白いものも多いですが、周囲や自分が巻き起こすと笑えないので、お気を付け下さい。
…おまけに、ハロウィンについての短編を一作あげているので、時間があればお付き合いくださると嬉しいです。
次話は、頑固なおじいさんと孫のお話です。