雪見河童
ちゃぷんと足を湯に沈めると、しびれるような感覚を覚えた。
湯に入るより先に体を洗っていたから、それほど冷えは酷くないだろうと考えていたのだが考えが甘かった。思っていたより冷えていたようだ。
雪が降り注ぐ中で露店風呂に入るなど素敵だと考えていたのだが、予想外の寒さに肩を震わせる。こっそり持ってきた日本酒の小瓶を片手に、雪見風呂と洒落込もうなど考えるのではなかっただろうか…?
滅多にできない女友達との二人旅。
休みを何とか合わせてここまでやってきたのに、友達は先に酔いつぶれて寝てしまったから一人で露天風呂までやってきたのだ。
選んだのはそんなに大きくない宿だが、浴衣は着れたし備え付けのお茶もお菓子もおいしかった。仲居さんたちも親切で、細かいところまで気遣いの行き届いたいい宿でよかったと満足した所…今回の旅において、最大の狙いと言っても過言ではないことを却下され気分がガタ落ちするとは思いもしなかった。
酔っ払いが溺れるという事故の心配があるため、『風呂での飲酒はダメだ』と宿側から注意されてしまったのだ。どうやら、私と同じことを考え実行に移したアホな先輩がいたようで。『やるからには、風呂で酔いつぶれるなんてヘマするなよっ』と心の中で罵倒しておいた。
しかし、そんなことで気が収まることはなく。
友人からとめられたのだが、どうしても諦めきれなかった私は長年の夢を叶えるべくお店で売っていたものを買い込んでいた。そして酔って気が大きくなった所でこうして強行突破と相成った。
「あちちっ」
冷えた体が急激に暖められ、びりびりとした刺激が走る。
湯船につかる前に体を洗ってはいたが、秘密裏に今回のことを実行する為におこなったカラスの行水は体を温めてはくれなかった。
あまりの刺激につい冷酒を手放しそうになったが「意地でも放すものかっ」と、両手に力を込めた。ガラスの瓶だから、誤って落とせば飲めなくなってしまうどころか、宿側にも迷惑をかけることになってしまう。
怒られるだけならまだしも、素足で歩くような浴場でガラス片を散らばせるようなことがあれば、申し訳なさすぎる。床は一般的な露天風呂といえばこれだろう!というような石でできているため、落としたら確実に割れていただろう。
温まったはずの体が、僅かに冷えるのを感じた。
状況が状況なだけに通常であったら冷や汗を流していただろうが、残念ながら私は陽気な酔っ払いであった。軽くお酒をひっかけてしまった私は心なしか気が大きくなっていた為、冷や汗をかくまでには至らなかった。
それどころか…
「あぁーお酒がダメにならないでよかったぁ」
そう笑った。
能天気な酔っ払いと化した今、結果が良ければすべてよしっ!と言わんばかりの考えであった。そもそも、酔っていなければ禁止されている行為を堂々とする勇気はない。
かぽっと、何とも可愛らしい音を立ててふたを開ける。
透明な液体が揺らめくのを見て、思わずニンマリ笑ってしまう。はらはら落ちてくる白いものを横目に見つつ、さぁ飲もう!っと瓶に口をつけようとした途端、後ろから声をかけられてびくりと震えた。
「―――私の伴侶に、なってくれませんか?」
腰に来るような美声が耳元で響き、私は座っているのにへたり込みたくなる感覚を覚えた。驚いて後ろを振り向き、後ずさろうとしたが上手く体が動かない。目の前の存在が何かしでかしたのかとキッと睨みつけたが、「私は何もしていませんよ?……まだ」と、訳の分からないことを言われた。
どうやら、いきなりの珍客に驚いて腰が抜けてしまったらしい。
お酒をふちに置いて、ずりずりと謎の物体から逃げようと下がった。先ほどまでこのお風呂は私一人の貸切状態だったし、私が湯につかってから誰か入ってきた音は聞こえなかった。……それどころか、話し掛けられるまで気配すら感じなかったのに、どうやってこの謎の物体は私の背後に来たのだろうか?湯に入ればそれなりに水面が波立つはずなのに、それすらなかった。
いろいろと不明な点が多い謎の物体は、なんと緑色のかつらを被りその上に皿を一つ乗せた変態であった。
「うわぁ…なんて大胆なのぞき魔。おまけにアヒル口とか…」
「―――いや、一緒に風呂に入っているのだから、むしろ混浴状態でしょう?
それにこれはくちばしです」
くちばしが小さいこと気にしてるんですから、指摘しないで下さいよ…などと言っているが、私にとってそこは大きな問題ではない。
ここは女風呂なのだから、今の状態がどうであれ犯罪であるのに変わりはないし。
そして、これは覗きのほかに露出という罪状もつけられるのではないだろうか?
ふてぶてしい事にも、この謎の物体は全裸で共に入浴しているようだ。まったく勘弁してほしい。
「嗚呼、せっかくのんびりお風呂とお酒を楽しめると思ったのに。どうしてこんな変態に絡まれなきゃいけないんだろう……」
「そもそも、入浴中の飲酒は禁止されているはずですよ?」
「うるさいっ、変態のくせに正論言うな」
つい歯ぎしりしながら、相手を睨む。
人間、分が悪い時に正論を言われれば逆切れしたくなるものである。特に酔っ払いなど、わけの分からない理由を持ち出してさも正しいと主張するものなのだ。―――そう、例えば今の私のように。
「大体、何なのよそのお皿は!
どうせ乗せるなら無意味に皿だけ乗せるんじゃなくて、酒のつまみでも用意してきなさいよっ」
「…あの、そもそも私は酒を煽りに来たのではないので、そのような事を言われても困ります」
吊り上った細い目がどこか困ったように歪められているが、一種のクレーマーと化した酔っ払いには通じない。さらに私は不満を口にする。
「何よっ、じゃあ何のために皿なんて持っているのよ!
何処かの民族でもなしに、頭に乗せる必要なんてないじゃない。彼らはよっぽど重いものを頭に乗せて、何キロも生きるために運んでいるのよっ。中途半端に真似するくらいなら、酒樽でも乗せて運んできなさいよ!」
私が飲んであげるからっ!そういった瞬間に、なぜか目の前の変態はこちらを睨みつけたかと思うと、私の近くに置いてあった酒瓶をひったくってゴクゴクと飲みだした。
「あぁぁっーー!何てことするのよ変態っ!!
あんたふざけるんじゃないわよ、人の楽しみとっていいと思っているのっ?」
小心者なりに、ドキドキしながらここまでお酒を持ち込んだのだ。
着替えの間に忍び込ませ、瓶のぶつかる音がしないように、そろそろ歩いてきたというのに…この男はそんな努力をいとも簡単に奪ったのだ。
散々喚き散らした後に「この盗人―!」と叫ぶと、なぜかいい顔で変態から盗人に昇格した男は笑った。まさしくニンマリといったその表情は、まるで狐が悪だくみしている時のようだと思った。
「……どうしてそこまで思考が向かったのに、別の妖怪と結びつけるんですか。
そろそろ私の正体に疑問を持ちましょうよ」
「本っ当に、許せないっ!人の酒勝手に飲むなんて、あんた馬鹿なの?」
「何で私が突然現れた時より、お酒を飲んだ後の反応のほうが大きいんですか。
女性として間違っていますよ」
「うっさいっ!私の酒返せっ!」
「―――駄目だ。
最早、人間としても間違っているかもしれない」
「なんか知らんが、腹立つから殴らせろ盗人」
どうして何を言ったのかすら理解していない酔っ払いに、黙って殴られなければいけないんですか…などと言って逃げる男の手には、いまだに愛しい私のお酒が握られている。
「まだ、飲んでいないのが一瓶あるじゃないですか」
「嗚呼…恨めしいぃ……」
心の底から声を出したら、思ったより低くドスの利いたものになった。
ギンッと相手を睨みつけた刹那、男の顔がひきつり蒼ざめた気がするがどうでもいい。
「こっわ!
思いっきり目が座っていますから、すみません…謝るので勘弁してください!」
「恨めしいぃ~」
うるうると目に涙すら浮かんでくる。
恨めしい…本当に、今すぐお酒が返ってくるなら目の前の男を殴り飛ばしてもいい。裸にタオルを巻いた状態ですら、思いっきりボコれる気がする。
「あの…こんな時にあれですが、お酒をいくらでも飲まして差し上げるといったら伴侶になってくれますか?」
「上等じゃっ、とっとと酒もってこい!」
「はい、分かりました。約束ですよ?
おつまみも、きゅうりのお漬け物とか沢山用意して迎えに来ますから。…楽しみにしていてくださいね?」
その言葉を聞いたのを最後に、私の視界はブラックアウトした。
✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾ ✾
「全く…あんたって娘は。人を酔わせてまで露天風呂でお酒を飲みたかったの?
おまけに倒れるなんて、いろんな人に迷惑までかけて―――」
「……はい、すみません」
どうやら私は、お風呂でお酒を飲んだ上にのぼせて倒れていたらしい。
先輩を馬鹿にした罰が当たったようだ。面目なくて、何も反論出来やしない。あれだけに入念に練った計画の上、他のお客さんに発見されて仲居さん達にやんわり怒られるわ…酔い潰した友人に烈火のごとく怒られるわ。散々だった。
しかし、それ以上に最悪なことがまだ残されていた。
夢の住人だと思っていた妖しい変態であり盗人であった男が、酒樽を抱えて翌日訪ねてきたのだ。
「昨日ぶりですね。のぼせていたようでしたが、大丈夫でしたか?」
「いや、あんた何で私が一人で風呂に入っているのを見計らってくるのよっ。
…というか、どうして私しか入っていないってわかった!?」
「はい、約束を果たしに来ました」
それじゃあ答えになっていない…っていうか、夢じゃなかったの!?
声をかけられ後ろを振り向くと、絶対に女風呂で出会う訳がない…緑髪に皿を乗せた男が酒樽を御供に風呂へ入っていた。謎の変態盗人と混浴した夢を見たなんて、まさか怒っている友人に言うことが出来ず。『一人でお風呂に入ろうなどとするんじゃなかった』と、昨日とは違い冷静な思考で後悔し頭を抱えた。
「眠いからもう寝る」
「えっ!お風呂は?」
「私は朝に入るからいいや、あんたは風呂好きだから入りたいんでしょう?
一人でどうぞ」
「そんなぁ…」
あれこれ問答した後、しぶしぶ一人で此処まで来たのが敗因だ。
―――それは分かるが、どうやって音も立てずに酒樽込みでお風呂に潜り込んだのか分からない。大体、約束とは?
「…なにその恰好」
「いや、だからどうして大切な約束より、些細な事を気にするんですか?」
私にとっては充分、重大な事なのだが…。つりあがった目にとがった口元。
緑色の髪の上にはお皿が乗っており、よくよく見ると背中には何か背負っているのが分かる。どう考えても普通ではない。
「それより。私のことを覚えていてくれているということは、お酒をたらふく飲ませたら伴侶になってくれるって言ったことも覚えていますよね?」
「……はぁ?」
「うーん、現代風に言うと…私のお嫁さんになって下さい」
「いや、無理だから」
私はその時…まさかその後この男にずっと付きまとわれる事になるとは思ってもいなかった。酒は飲んでも飲まれるなっ!これをこの時ほど心に刻んだことはない。
私の人生は、酒とこの男に今後狂わされることになる。
……出来心と勢いです。季節はずれですが、私の願望(雪見風呂)を実現させる話を書いたら、あんな罰が当たりました。皆さん、今こそ奴をエロ河童と罵ってください。
お粗末さまでした。次話はナルシストが奮闘します…?