意地悪な彼 後編
彼を意図的に避けるようにしていたのだが、思いがけない知らせを聞いた事で私は彼のもとへ走り出した。
紅粉くんが倒れて、保健室に運ばれたというのだ。高校三年の秋であり、推薦が決まっている私は自習の時間に抜け出して彼のもとへと急いだ。この時期にもなれば、受験生である生徒のために実習の時間を取ることも多い。教師達は下手に騒がしくしているよりも、多少抜け出しても邪魔をしないほうがいいと考えているのだろう。『気分が悪いから保健室に行ってくる』と言ったら、驚くほどあっけなく許してくれた。
先生は受験生にかかりっきりになり、他の生徒は割と自由にさせてくれている。
保健室につくと、これまで見たことがないような弱弱しい姿の紅粉くんがベッドのなかにいた。熱があるのにもかかわらず、無理をしたのが祟って倒れてしまったという。
そのことを保健師に聞いたときは、思わず「自分の体は大事にしてくださいっ」と叫びたくなったが、寝ている彼を無理やり叩き起こす訳にはいかず、顔に浮かんだ汗をぬぐった。
「悪いけれど、彼の親御さんに連絡してみるからしばらく様子を看ていてもらえる?」と保険室の先生に言われた言葉も、もちろん私は受け入れた。彼女に反対されても紅粉くんに付き添いたいと考えていた為、嬉しいくらいだった。
しばらくして微かに呻き声が聞こえたかと思ったら、ゆるゆると彼の瞳が開かれた。
「体の調子はどう?
とりあえず、水とスポーツドリンクがあるけどどっちがいい?」
「……なんで君がいるの?」
軽く訝しがりながら、彼は水を受け取ってくれた。
本当はスポーツドリンクの方が汗をかいた時にはいいのだけど、紅粉くんは甘い物が好きではないと聞いた事があったのでこちらの方がいいだろうと買ってきたのだ。
すっと彼の額に手を置いてみると、だいぶ熱が下がっているのが分かる。念のため体温計を渡して、汗をかいたままでは気持ち悪いだろうと、ぬるま湯で再びタオルを濡らした。
「ねぇ、いい加減俺の質問に答える気はない?」
人の質問を無視するなんて、君は意外といい度胸してるよねと、嫌味とも文句とも取れない言葉をかけられた。返された体温計は微熱の域を超えていた。彼の口からこぼれる吐息もその熱の高さを表しており、平熱ではないであろうことは明らかだ。さすがに、このまま答えないのは失礼だろうと私は重い口を開いた。
「……紅粉くんが倒れたって聞いて、心配になって」
「嗚呼、君もしかして両親が仕事人間だってことも知っているの?」
「…ごめんなさい」
別に謝られるような事じゃないけど…と、拗ねたように言われても安心できない。
彼とご両親の仲が希薄だということも、紅粉くんから直接聞いたのではなく噂を聞いて知ったのだ。留学の件も、仕事の拠点があちらにある両親に合わせての事だといわれている。
特に悪いことをしたのではないが、前回彼と話してから考えていたのだ。
自分のうかがい知れないところでプライベートなことを広められているのは、確かに気分のいいものではない。それが事実にしろ嘘にしろ、そんな形で注目を集める
のは私としてもごめんだ。
こんな当たり前のことにも思い至らなかった自身が恥ずかしくて、軽はずみに人の心に踏み入ってしまったと反省した。ただ、今回倒れたことに関してだけは口出しすることを許してほしい。
「どうして、熱があるのに無理なんてしたの?」
「―――べつに」
「何か理由があったんでしょう?
どうしても学校に来なきゃいけない用事があったの?もしそうなら、私が変わりに……」
「…あのさぁ、本当になんなの君?
オドオドしていると思ったら、急に強引になったり」
横たわりながら、うんざりといった顔をして紅粉くんがそういった。
やはり余分なことを言ってしまったと反省しつつも、前回のように後悔することはなかった。具合が悪い人間を心配することなど当たり前だし、無理をして倒れた彼が間違っていることは明白だ。
「好きな人を心配して、何が悪いの?」
彼の言葉を無視してそう返すと、しかめ面を隠すように私とは反対へ顔を向けた。
右腕で顔を覆ってしまったため、何を考えているのかもわからない。こんな時に告白するなんて不謹慎だったと落ち込むが、彼から返されたのは意外な言葉だった。
「そんなに優しくされる事なんて、慣れていないから。手放しに甘やかされても、気持ち悪いだけなんだよ…俺は」
思わぬ言葉に息が詰まる。―――何でこの人はこんなにも不器用なのだろう。
言葉の最後に『自分はそうなのだ』とつける事で、人の意見を尊重する面を見つけてしまったから、悲しいとは思えなかった。
「厳しいことを言うから怖い」などと言われている彼の、不器用な優しさに触れられたようで嬉しくなった。熱にうなされていた彼のことは心配だったが、此処までに口が回るのならば、安心かもしれない。何も答えない私を訝しんだのか、紅粉くんはそろそろと腕を離した。
「……何笑ってるの?
気持ち悪いって言われているの、分かってる?」
「ごめんなさい」
笑っているつもりはなかったのだが、つい口元に笑みを刻んでしまったようだ。
熱で参っている彼の横で笑ってはダメだと思うが、彼の素敵なところを新たに見つけられて、この想いは間違っていなかったと確信を持てた。
私の反応を受けて、彼は思いっきり蔑むような眼差しを向けてきた。ベッドに寝ている状態だというのに、そのまなざしは私の心を凍りつかせそうだ。
……これは流石に応えるかもしれない。彼から目線はそらして、首をすくめる。
「君は…本当に、どんな人間なのか分からないな」
「……ごめん、なさい?」
先ほどは不機嫌そうに眉を寄せていたのに、気付けば呆れたような顔になっていた。怒っているのか分からなくて思わず謝ったら、「どうして君が謝るのか分からない…」とまた彼はため息をついて、瞳をそっと閉じた。
紅粉くんが寝てしまう前に許可を取ろうと、「保健師さんが戻ってくるまでここにいていい?」と聞いてみた。だるそうにしている彼だったが「好きにすれば」との返事をもらえたので、私は保健師さんが返ってくるまで濡らしたタオルで顔を拭いたり、好きにさせてもらうことにした。
紅粉くんが倒れた翌々日、彼は普通に学校に来ていた。
昨日は念のため休んだだけであり、熱はすぐ下がったらしい。放課後にたまたま会った彼は、不本意だという様子を隠すことなく声をかけてきた。
保健室に持って行った水が私の買ったものだと、保健師にばらされてしまったようだ。憮然としながらお金を返すと言われたけれど、大した金額ではないし断った。
お礼を言われたのは意外で嬉しかったけれど、酷い雨が降っているため湿気で私の髪はぐちゃぐちゃだ。朝からおさまりなく跳ねているくせ毛を紅粉くんに見られるのが嫌で、何度も頭を撫でつける。
そんな私をしり目に彼は目頭をもみほぐしたり、米神を抑えたりしている。
あまりの不機嫌そうな表情に、常だったら気にしないようにしているのにじりじりと下がってしまう。―――もしかして、彼は保健室で好き勝手に看病していたことを、怒っているのだろうか?
『こんなにも近くで彼の寝ている姿を見るなど、もう二度と訪れないかもしれない』と思って、観察するようにじっと見つめてしまったためばつが悪い。
みんな帰った放課後の廊下はとても静かだ。再び彼から視線を外して外を見ると、さっきまでは酷い雨だったのに突然陽がさしてきて思わず窓辺に寄って空を仰いだ。
そこには先ほどの雨が嘘のような青空が広がっていて、その透き通るような空を彼と共有したくて、「今日はいいお天気になりましたねっ」と声をかけた。
無視されるか、そんなことで感動するなと嫌みでも言われるかと思っていたのに、帰ってきたのは彼の笑い声だった。
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正直言って、こんな人間初めて見た。
不器用でとろいくせに、お人好しで他人のことばかり気にかける。
一部の男からは、『天然っぽくて可愛い』などと言われているのだから、とっとと諦めてそちらにでも行けばいいというのに、彼女は酔狂にもこの俺を好きだというのだ。
彼女のことを、世でいう『空気がよめず、何を考えているか分からないボケた女』と、感じたことはない。もしも彼女が天然などと思われる要因があるとすれば、優しすぎて様々なことを頭で考えるだけにとどめている点だ。
優しすぎるから、相手を傷付けないように言葉を選び反応が鈍るのだ。俺から言わせてもらえば、少し考えただけで、あんなにも柔らかい表現を出来る彼女の頭に脱帽する。
周囲からは多少頭が回るといわれる俺だが、彼女のような柔らかな優しい言葉をひねり出そうとすれば、ヘタをしたら数時間を要してしまうかもしれない。
そして、相手の注意がほかに移った頃に昔の話をほじくり返して嫌がられるのが落ちだ。
―――こんなにも違う人間同士だから、彼女に好かれても困るのだ。
俺はあんなにも優しい彼女を傷付けたくはないのに、口から発せられるのは欠片ほども優しさの感じられない言葉と、効率化を望み過ぎて人間味にかけるとまで言われた行動だけだった。
そんな状態で、どんな話を彼女としろと言うんだ。
『いい天気ですね』とでも話していればいいのか?―――ありえない。
そんな無意味で大した重要性も感じられない話を続けていたら、俺は発狂する自信があるぞ。
大体、留学だって両親があちらで仕事しているため強く進めてこられて迷惑していた。英語ができないわけではないが、自分たちの仕事に合わせて俺を呼び寄せているのが気に入らなかった。拠点がいつ映るかなど分からないし。
それなのに、彼女はそれを応援するなど言うから一人苛立っていただけなのだ。
勝手に期待をかけられても迷惑だし、俺の進路を強制的に決められるのも我慢ならなかった。そんな子供のような八つ当たりをする俺に、彼女は困ったように微笑みながら構ってきた。熱を出した時だって、親どころか保健師にすら怒られなかったのに、彼女だけは「もっと自分の体を大事にして欲しいっ」と、珍しく声を荒げていたという。俺本人に言わず、保健師に伝言を頼むところが何とも彼女らしくて笑ってしまった。
野良犬が人間に心を開くように、彼女が土足で自分の心に入ってくる感覚が不愉快だった。彼女の柔らかい雰囲気は心地よかったし、好かれているという事実も嬉しかった。…しかし、そんな自分の感情ですら俺をいらだたせる原因になった。
俺は彼女のように、癒やしてくれる存在がいなくても何の問題もなく生きてきたし、これからも生きていける。両親に必要以上に干渉されないのも、俺にとっては気楽でよかった。
…それなのに、いきなり優しくされて裏切られたら俺はどうしたらいい?辛いのは何度も捨てられる犬なのだ。『簡単に懐いてなどやるものか』と、気圧の変化で痛む頭を理由に俺はギュッと眉間に力を込めた。
―――こんなにも彼女を警戒していたのに、たった一言でそれは崩される事になる。
「うわぁ、いいお天気になりましたね」
酷い雨だったのが嘘みたいっと、呟く彼女に思わず吹き出してしまった。
俺がそんな会話をしたら発狂するとまで思っていた言葉を、彼女は何の違和感もなく言ってしまう。不快になると思っていた社交辞令や世間話も、どうしてか不快に感じなかった。何がそんなに嬉しいのか微笑んでいる顔を見つめていると、窓の外を指さされ視線を移す。
「ほらっ、虹が二本も出ていますよ」
「嗚呼…二本はさすがに初めてみた」
開けた窓からさわやかな風が吹き込み、不快なはずの雨も悪くないものだと思い始めていた。
やはり、彼女はすごいのかもしれない。
こんな風に流れに身を任せていれば、予想していたよりも悪い結果にならないかもしれない。彼女を見ているとそんな気持ちにすらなってくるのだから不思議だ。
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急にくすくす笑い出した彼に面食らう。
滅多に笑うことがないと噂されてるのに、どうして突然笑い出したのだろう…?
もしや、空を見上げた私の顔があまりに間抜けで、笑われてしまったのだろうか。思わずそう問いかけると、さらに彼は笑い声をあげた。
「普段はこっちがあきれるほど前向きなのに、君は突然マイナス思考になるんだな」
「…それはっ」
好きな人に間抜けな顔を見られ笑われただなんて、どんな女の子でも嫌がると思うのにぜんぜん分かっていない。つい普段はしない膨れ面を披露すると、彼はより笑い転げた。意外と紅粉くんは笑い上戸であったらしい。
「いいね、君」
―――手放すのが惜しくなった。これからは天気の話でも花の話でも、付き合ってあげるよ。唐突にそう言われ、きょとんとした顔しか返せなかった。彼は反応の遅い人間を嫌うから、これまでは気を付けていたのに…。でも彼はそんな私さえも、柔らかい雰囲気が君らしいと笑って受け入れてくれた。
その日私は、初めての恋がスタートした。
次話は、この二人のその後を描いています。少しは甘くなって…いるはず、です。宜しければお付き合い下さい。