キッチンの妖精
ある日突然、私が乗った車に小さいおじさんが落ちてきた。
その日はいつも通り、定時に出社して家に帰ろうとしている所だった。私は実家を出て一人暮らしをしているため、駐車場に向かいながら『今日は何を食べようか』と思考を巡らせていた。
都合よく実家から白菜が送られてきたので、豚肉と一緒に煮る簡単料理でいいかなぁ。そうすれば、豚肉は冷凍庫にあるし買い出ししないで済む。そんな事を考え車に乗り込んだ。それなのに突如、それは空から落ちてきた。
「いてて…まったく、酷い目にあった」
―――それはこっちのセリフだ。そう言いたい気持ちはあるが、何とか言葉を飲み込んだ。正確に言うとフロントガラスにべちゃりと落ちてきた小さいおじさんが、何か文句を言いながら、助手席の窓から器用に入ってくるのを見ているしかなかっただけなのだが。呆然とした私を無視して、小さいおじさんは車内に侵入してくる。
「あのカラスの野郎、何もこんな所で降ろすことないじゃねぇーか」
……まったくだ。
後で文句を言ってやると愚痴っている彼に、激しく同意する。洗車したての愛車になんてことをしてくれるんだ。
たとえ中古とは言え、必死に働いて自分のお金で買った愛しい車なのだ。
カラスごときに馬鹿にされる言われはない。新車と比べ光り方はだいぶ鈍いかもしれないが、定期的に洗車しているしそこまで汚くない。私の数少ない財産であり宝物なのだ。ガラス玉やハンガーを集めるような鳥に馬鹿にされたくない。
今猛烈に、空気の入れ替えをしようと窓を開けてしまった数秒前の私を、思いっきり怒鳴り散らしたい。そんな気持ちを汲むこともなく、びりっという音の後に冷静な声が再び聞こえた。
「あーあ、少し服が破れちまったよ」
ようやく助手席のイスにたどり着いた小さいおじさんは、自分の服を見ながら溜め息をついていた。おじさんの下にある桜色のクッションが、何ともちぐはぐな感じで笑いを誘う。
普段の私だったら、いつも偉そうな四十路ちかい中年の上司が若い奥さんをもらい、ハートが沢山ちりばめられたお弁当を真っ赤な顔して食べているのをみて、吹き出したとき並みには笑っていただろう。あのときは笑いながらも、海苔も煮物のにんじんもすべてハートだったのをみて、これはどれだけ時間をかけているのだろうと疑問に思った。……だが、今は深刻な状況なので笑う気は起きない。
髭の生えた文庫本サイズのおじさんは、よっこいしょなどと言いながら立ち上がりシートベルトを締めている。ガタイはいいのに、その体は何処か丸々とした印象を受ける。「そんな小さな体でよくベルトを引っ張れるな」と思いつつ、私はひそかに冷や汗を垂らしていた。…どうして、この小さいおじさんはシートベルトを締めているのだろうか?
これではまるで、これから私と一緒に車で移動するようではないか。
「さっ!ベルトも締め終わったし、出していいぞ」
「やっぱりか!!」
最早、窓から中へ入ってきたおじさんを見た時点で薄々勘付いていたのだが、この不思議生命体は厚かましい事にも相乗りするつもりでいるらしい。その上、小さいおじさんは『何を言っているのか分からない』というように、こちらを見て首をかしげている。
「いきなり大きな声を出したら、驚くじゃないか」
「誰のせいだと思っているんです!」
「体格の差を考慮してくれと言ってるんだ。
あんたの様に大きな人に大声をあげられたら、耳が痛くてかなわない」
勘弁してくれというように耳を抑える彼に、思わず歯ぎしりしたくなる。『大きな人』というところは気に食わないが、確かに彼が言っていることは正論だ。
聞きたいことは山ほどあるのに、先に耳をダメにされては意思の疎通がとれるのか怪しい。これがもし、数年前に話題になった有名な小さいおじさんだったら一大事だ。一時期は不思議系と言われる人間ではない、芸能人までもコレを見たことがあるといったことで、この不思議生命体は世に広く知られるようになった。
いわく、よく水回りに表れてしばらくすると、水に飲み込まれて消えていくとか。
そっと車に座った状態で空を仰ぐが、綺麗な夕焼け空が広がり、到底雨など降りそうにない。これで、雨に流して車外へ捨てるという案は消えた。
「……綺麗な夕焼けか」
「ああ、今日はよく晴れているな」
では、目をそらした瞬間にふっと消えていたというのはどうだろうか?
こういう不思議生命体を見たときのセオリーと言えば、白昼夢のような不思議な感覚を味わって終わるはずだ。―――というより、終わるべきだろう。おそるおそる左斜め下に視線を送る。すると、非常に不本意なことに、某小さいおじさんはいまだイスに座っていた。その姿を見て、私は思いっきり脱力した。
「…何を人の車で和んでいるんですか」
「いや、縄なしバンジーなんてダイナミックな事をしたら小腹がすいてな」
「縄なしバンジーって聞こえはいいですが、単に落ちただけですよね」
私の横ではどこから出したのか、握り飯に喰らいついている小さいおじさんがいた。
さっきから、こちらはどうやってこの非現実的な事態を打開しようかと頭を痛めているというのに、どうしてその原因はこんなに能天気なのだ。これまでは理解不能な状態と未知のものに対する恐怖で忘れていたが、だんだん腹が立ってきた。
これは決して八つ当たりなどではないだろう。そんなことを考えている私をしり目に、小さいおじさんはのんきな言葉を返してくる。
「落ちるだけとあんたは言うが、俺のように小さな体だと君の肩から地面に降りるだけでも、なかなか大変なことだぞ?」
小さいおじさんの言葉に、いやな想像をさせるなと怒鳴りたくなったが「俺が妖精じゃなかったら確実に死んでいたなと」つづけられた言葉に衝撃を受けた。
それは走らせてもいない愛車で、小さいとはいえ人を殺してしまう危険な状況に知らず知らずのうちに追い込まれていたからではない。この目の前の不思議生命体は自分のことを今、『妖精』といったのだ。
何かの聞き間違いではないかと再度確認してみるが、答えは変わらない。むしろはっきりした声で返答された。ここまでくれば、私の悪い予感は外れてくれそうにない。
「―――念のためにもう一度確認させてもらうけれど、本当にあなたは妖精なの?」
「嗚呼、何度確認されても俺は妖精だ」
あんたがどんなイメージを抱いていたかはしらねぇが、他の奴も似たり寄ったりだぞ。っという、小さいおじさんの言葉で私はとうとう怒りを爆発させた。
「あー!もう本当にいやだ。なんでこんなに幻覚がリアルなのよ。
何?昔にテレビを見ながら『妖精がおじさんの姿をしているなんて、夢がない』なんて文句言ったのが悪かったの?」
だって、妖精といえばひらひらした服のかわいらしい姿を思い浮かべるではないかっ。これが幻覚であったにしろ違うものにしろ、無精ひげを茫々に生やしたおっさんを妖精などとは呼びたくない。
あえて呼ぶのなら、人に悪戯をするという醜悪な容姿のドワーフのほうがあっている気がする。こんなぱっと見が山賊風のおっさんなんて、小さくなかったら同じ車にすら乗ろうとしないだろう。
「…明らかに、物盗りにしか見えない」
「あんたが何と思おうと、俺は人間たちに妖精と呼ばれている存在だ。
後、いくら俺でもそこまで否定されると落ち込むから―――」
若干小さいおじさんが顔をうつむけた気がするが、そんなことに構っている余裕はない。八割がた幻覚だと思っているが、幻覚にしてもこれは許せない。
むしろ、妖精と呼んではいけない気がする。
「小さいだけのおじさんを妖精だというのは、妖精に対する冒涜だと思います」
「何もそこまで言わなくてもいいだろうっ!?」
俺はあんたに何かしたのか?と聞かれるが、どう説明すればいいのかわからない。
「あえて言うのなら、存在自体が生理的に受け付けない?」
「いや、そんな事ならあえて言わなくてもいいからっ」
小さいおじさんはそう叫ぶと、荒々しく腕で目元をぬぐった。何故だろう。
これでは、私がずいぶん年上の男性をいじめているようではないか。反抗期のときですら、父親を泣かしたことはないというのに。会って数分もしないうちに、小さいおじさんを泣かしてしまったようだ。…というより、いつまでこの自称妖精は私の車に居座る気なのだろうか?
結局、その後私は小さいおじさんを連れたまま家へ帰ることにした。
正確に言えば、「降りろ!」「いやだっ」の口論に疲れて、幻覚は幻覚らしく無視をしようと考えただけなのだが…。私の中途半端な優しさは、また後悔を呼び寄せる結果となった。
「もう何日居座っているつもりですかっ!いい加減でて行け」
「おいっ、そんな事よりこのミキサーすごいぞ!
買ってくれたら、俺の料理のレパートリーが増えるかもな~」
「えっ?あ、本当だすごいですね。安いし買っちゃおうかな…」
―――私は、決して餌付けされているわけではない。
美味しいご飯がいつも簡単に食べれるから、ついつい小さいおじさんを追い出す言葉が弱くなっている訳では、断じてない!
そんなこんなで、私の家には専属家政婦と化したおっさんの姿をした妖精が一匹います。誰か引き取り手はいないでしょうか?
ネットでは異なる結果が出てきましたが、妖精図鑑なるもので『ドワーフ』は妖精のくくりとなっていました。妖精には様々な種類がいて、水陸の住処だけではなく、姿かたちでも名称が異なります。
また、作者は現物を見たことはありません。見たことがある人は、連絡してくださると麻戸のテンションが上がります。
次話は、毒舌家の少年とそんな同級生に恋する女子高生のお話です。