さよならグレーテル
ハロウィンと関係なくなりましたが、よろしければお付き合いください。
わたしが生まれた少し後に、わたしの国は戦争に負けた。
それまで普通に食べていた白いパンが食べられなくなり、次第に硬いパンですら量が減った。おかずが無くなり、スープの具は一種類入っていればよい方で、徐々に食事をとる回数も減らされていく。
他の国でも戦いは起こっていて、どちらかが勝てばどちらが負ける。負けた方は物資を奪われ自由を奪われ。命を奪われなくて良かったなんて言っていられたのは、ステーキの味を覚えていたころまでだと、お隣の少しボケたおじいちゃんは言っていた。
戦争の前に白いパンを食べられたということは、それなりに良い所の生まれだったのだろう。戦後は貴族は着の身着のまま放り出される人々もいたようだから、おじいさんもそんな中の一人なのかもしれない。どちらにせよ、安いジャーキーがたまに出るごちそうで、白くてふかふかしているのなんて白梟のお腹くらいしか知らないわたしには、全然想像もつかないお話だ。
小さな小さなこの村には、行商人なんて滅多に来ない。両手で足りるほどしか家がないここでは、おじいちゃんが話す内容は目新しくて面白い。
「それだけ素敵なものを知っていれば、おじいちゃんはそれは素敵な夢が見られるでしょうね。わたしなんて、少し綺麗な石を見つけても、カラスに追っかけられて奪われる夢くらいがせいぜい良い所だもの」
心底羨ましくて口にしたのだけれど、おじいちゃんが望んでいた反応じゃなかったらしい。怒り出しそうな、困ったような変な顔をしたまま、わたしの頭をぐしゃぐしゃに掻きまわした。
「お前さんは、ちとオツムが足りないから、あの男と一緒にいるなんて心配になるなぁ」
「あの男って、お父さんのこと?お父さんなら、何時も仕事で忙しいから、言うほど一緒になんていやしないわ」
おじいちゃんの言葉が、不思議で堪らなかった。
いつも怒っているおじいちゃんだけど、時々寂しいような心配そうな顔をする時がある。どうしてか聞いても、『お前さんは鈍いくせに、変な所だけ鋭いなぁ』と、よくわからない事をいう。今日こそ理由を教えてくれないかと、問いかけてみた。
「ねぇ、どうしてそんな困ったような顔をしているの?」
「それはお前さんが、この村一番の危険人物に懐いているのを見兼ねた老婆心からだ」
「ねぇ、さっきから言っている危険で心配になる男の人って、誰のこと?」
「ーーーグレーテル、何時まで油売っているつもりだい?」
「あっ、お兄ちゃん!」
おじいちゃんと話すのに夢中で気づかなかったけど、すぐそばまでお兄ちゃんが来ていたらしい。嬉しくて駆け寄ったのに、お兄ちゃんは眉間にシワを寄せている。
「何時もヘンゼルって、呼べって言っているだろ」
「だって、お兄ちゃんはお兄ちゃんじゃない」
私が持っていた野草入りの籠をとって、お兄ちゃんが呆れた雰囲気で肩を竦める。
「あまり、お年寄りを困らせてはいけないよ」
「お前に年寄り扱いされると、馬鹿にされているようにしか聞こえないな」
「こんな田舎に『隠れるように』暮らしている、生きた化石を敬わないわけないじゃないですか」
「あー。いい加減、この失礼なくそ餓鬼を連れて行け」
「だってさ、グレーテル。おじいさんは年なんだからあまり疲れさせてはいけないよ」
「えっ、ごめんなさい」
「失礼なのはお前だ、お前!」
何かその後もおじいちゃんは言っていたけど、怖い言葉を使っているから聞かない方が良いと、お兄ちゃんに耳を塞がれて何も聞こえなくなってしまった。
「ほら、おじいさんはボケて理由の分からないことを言い始めたから、もう帰ろう」
「お前かっ、グレーテルに儂がボケているなんて吹き込んだのは!」
「いくらこんな片田舎でも、そんなぼろきれを纏っている年寄りなんて、ボケていると相場は決まっています」
「うるさい、これは婆さんの形見だっ」
「まぁ、おばあちゃんは私が小さい頃になくなったのに、まだ同じ服を着ているの?」
「っっうるさい」
大きな声で追い払われて、私とお兄ちゃんは家へ慌てて逃げ帰った。
この日は良い日で、普段なら見つからない木の実を見つけて、隣のおじいちゃんに分けることができた。そのお礼にと、食べられる野草をたくさん貰えた。お父さんは具合が悪そうだったけど、お義母さんは珍しく機嫌が良いみたいだった。いつもは食べられない贅沢な具だくさんスープと、焼いたばかりのパンをもらって、幸せな気持ちのままぐっすり眠ることができた。
幸せは一度来ると他を呼んでくるようで、翌日にもパンをもらえた。ヘンゼルなんて、昨日食べ過ぎたと言って、お義母さんに見つからないようにこっそり服の下にかくしていた程だ。
「グレーテル、悪いんだけど薬草と今夜の食事に使う薪を採ってきてくれるかしら?」
「薬草なんて、お義母さんどこか悪いの?」
珍しく機嫌よく話しかけてきたお義母さんに、思わず聞き返す。
少し怖い声になった気がするけれど、すぐに機嫌が戻ったので安心する。普段ならああいうとき、怒られて酷ければ食事を抜かれたり殴られたりした。
それが今日は、殴られないどころか、怒鳴られることすらなかった。
「少し出費した補填に充てたいだけだから、大丈夫よ。ちょっと豪勢にしてしまったからね」
「そっかー」
どうやら、お義母さんは薬草を売ってお金に換えたいらしい。
昨日から、お祝いでもないのに豪勢な食事だったから、お金が足りなくなったのだと思う。
お兄ちゃんと手をつなぎながら、森の中を歩く。
「いつもなら、森のなかで手をつなぐのは非効率だって言って嫌がるのに、今日はつないでくれるんだね?」
「―――そりゃあ、いつもと違って近場じゃないし。紐を持っていて転ばれたらこっちまで巻き込まれるからね」
「ありがとう」
周りの様子を知りたくて、色々問いかけてみたけれど、気もそぞろな様子であまり質問には答えてもらえなかった。
こんなに、森の奥まで来たのは初めて。
確かに歩いているだけでも、空気や日差しは村と違って新鮮だった。踏み固めていない道はでこぼこだし、時々触れる草花すら少し違うから面白い。でも欲を言えば、もっと花の名前や動物の特徴なんかも教えてほしかった。聞きなれない鳴き声が聞こえるたびにビクッと震えると、振動が伝わるようでお兄ちゃんがかすかに笑っているのが分かる。
「笑っているくらいなら、動物の名前とか教えてくれればいいのに……」
「笑ってないよ」
「笑っているじゃない」
いくら口元が見えなくったって、それくらい私にだってわかる。
お兄ちゃんは普段から少し意地悪だけど、いつもはもうちょっと……こちらを気遣って歩いてくれるのに今日は普段と違う。
「こんな所まで何も知らずに、のこのこ連れてこられるなんて、馬鹿なグレーテル」
「ヘンゼル……?」
信じられない言葉が聞こえてきて、思わず目を見開く。
これまで散々村の人々に言われてきた言葉だけれど、この声もこんな話し方も知らない。みんなに馬鹿にされてきたわたしだけれど、彼はただ一人味方でいてくれたのに。まるで知らない人のように、温かみの消えた声に怪しい空気を纏わせてこちらを見つめる。
「本当に、グレーテルは馬鹿だ」
「そんな、こと……」
「そんなことは分かっているって?いや、グレーテルは何にもわかっていやしないよ」
聞いたことがない……違う。
『わたしには』向けられたことがない声に、背筋が冷える。いつも意地悪なことは言っても、お兄ちゃんは優しかったのに。お義母さんはもちろん、お父さんもくれなかった家族の暖かさをくれるのは、お兄ちゃんだけだった。だから、ちょっとくらい意地悪を言われても、気にならなかった。
それなのに、今聞こえた声は明らかにわたしを拒絶するもので、どうしたらいいのか分からなくなる。
「その顔を見る限り、何を言われているのか分からないってところかな?」
「な、何か、ヘンゼルを怒らせるようなことをした?」
深いため息だけの返事に、肩がビクッと震える。
わたしがいくら普段の生活で何かできなくても、お兄ちゃんを待たせてもこんな風に怒ったことはなかった。思い出せば昨日から様子がおかしかったけれど、まさかこんなに怒るとは思わなかった。気づかないうちに何か怒らせるようなことをしてしまったのかもしれない。
「本当に分かってないな……。君が最初に目印代わりに落としていた木の実は、一般の人間じゃ滅多に食べられるものじゃない。街の人間ですら欲しがるような木の実が道にあって、日々を生きるのに必死な人々が拾わない訳ないだろう?」
「小鳥の仕業じゃなかったのね……」
独特の風味がある木の実は、踏んだらすぐにわかる。
一度潰れれば地面にべっとりとこびりつくし、汁気が多いからつるっと滑る。お父さんもお義母さんも好きじゃなくて食べなかったから、ご飯を抜かれたときの非常食としていつも隠し持っていた。あの実がなっている木は、たまたま仲良くなった村はずれのおばあちゃんから教わった。お兄ちゃんに話したら、誰にも場所を教えない方が良いと言っていたから、わたしとお兄ちゃんしかあの実が採れる場所は知らない。そんなすごいものだとは思いもしなかった。
「次に、君が落としていた石だけど、」
「あれは特別、珍しい石じゃないでしょう?」
「いいや。あれはこの辺じゃ珍しい石で、細かく砕くと陶器の染料として使えるんだ」
「お父さんは確かに捨てられないって言っていたけれど、お義母さんはただのゴミだと言っていたのに……」
「まぁ、あれはある特定の地域で作られる陶器のものだから、そこへ売らないとゴミと言えるね」
あのおばさんが、物の価値なんてまともに分かるわけないなんて、なかなか辛辣なことをぼそりと呟いた。
「君のお父さんは家族や君に大したものではないと教えていたようだけれど、あれは高価で、純度が高いものだからこぞって商人や野盗が拾っていったと思うよ?」
「しょ、商人まで?」
まさか、商人にまで認められるようなものを、あんなに雑に扱っているとは思わなかった。
今思い出してみれば、石の入った籠を持ち上げようとすると、「何かあっては大変だ」といって、慌ててお父さんが代わりに運んでくれた。野菜や鍋なんかは持ってもそんなこと言わないのに、変なところで過保護だと思っていたけれどそうではなかったらしい。
「君のお父さんは女を見る目がない小心者だったけれど、何も娘に対する情がなかったわけじゃない。いつかこんな日が来るんじゃないかと心配して、君に偽物だといって金目の物を身につけさせていたんだ」
「そんな……」
「最後に、僕自身のことだけどね?どうして君のお義母さんが、わざわざ男の僕を一緒に遣いに出したのだと思う?」
「男って……、お兄ちゃんは、お兄ちゃんだよ」
お兄ちゃんは、私とずっと一緒にいてくれる優しいお兄ちゃんだ。
どれだけお兄ちゃんが、優しくて救いになっているか伝えようかと思うけれど、言葉が詰まって出てこない。
「食い扶持を減らすために見殺しにしようって義理の娘を、あえて男と森へ放り出したのは、僕が冷酷なハンターだって知っていたからだよ」
「ハンター?お兄ちゃんが狩人だってことは知っているわ」
これまでだって、わたしたち家族が食べていけるのは、お兄ちゃんが獲物を狩ってきてくれるものと、それを売ったお金で生きてきたようなものだ。夜にしか狩れない獲物を狩ると言って、夕食後に出かけていくことも珍しくなかった。感謝こそすれ、忘れたことなんてない。
「嗚呼、本当にグレーテルは何にもわかってない」
まぁ、これは村のみんなにも知らせないようにしていたんだけどね。そんな風につけたされたけれど、ここ数分のうちに馬鹿にされすぎて、何の救いにもならなかった。これまで優しくしてくれたのは、全てわたしを安心させてから地獄に突き落とすためなんじゃないかと疑ってしまう。……だって、それほど彼の言葉や投げやりな態度はグサグサと好みを切り裂いていくのだ。
「ハンターはハンターでも、僕は動物じゃなくて人間担当」
「にん、げん……?」
「そう、要するに金持ち連中の手に負えない厄介な存在を暗殺するのが、僕の役目ってわけさ」
暗殺なんて言葉は聞いたことがなくて、何を意味しているのか最初は分からなかった。けれど、その前までしていた会話で、とんでもない事を言われているのだと言うことは分かってしまう。いっそ耳を塞いでしまいたいが、それを許さないように手首をギュッと握られる。
「そして、あの無慈悲で浅はかな女は、僕の雇い主なんだ」
「や、とい主?雇い主って……あの女って、誰のこと?」
「君、グレーテルの父親の後妻のことだよ」
信じられないことばかりだけれど、もう一つはっきりさせなきゃいけないことがある。
「ーーーじゃあ、ヘンゼルは『いつから』わたしのお兄ちゃんだったの?」
沈黙が、こうも煩わしく感じたことはないかもしれない。私の予感は的中した。
わたしのお兄ちゃんは確かに『ヘンゼル』と言う名前だったけれど、いつも意地悪で殴られたり引っ張られたりしていた。本当のお母さんが流行り病で死んでしまった頃が一番酷くて、ある日わたしの目は光を失った。当時のことは、5歳くらいで細かいことは覚えていないけれど、打ち所が悪かったらしい。両目とも微かな光を感じるだけになった。
今も、大怪我を負ったせいで、しばらく隣村の診療所で面倒を看てもらった記憶がうっすら残っている。毎日痛くて、熱が出てうなされながら、早く家に帰りたいと願っていた。お母さんはもう居ないけど、一緒に過ごした家に早く帰りたかった。
「お星さまは見えないけれど、お兄ちゃんと仲良くなれますようにって、お願いすれば叶えてくれるかな……?」
ジクジク痛む目を押さえながら、毎日お母さんに教えてもらったおまじないをしていた。
とうとう退院の日を迎えて家に帰ると、お兄ちゃんがいきなり優しくなったから驚いた。今までみたいに殴らないどころか、怒鳴ったりもしない。
少し声は変わった気がしたけれど、まさかお父さんがいるのにお兄ちゃんと入れ替わるなんて、できると思えなかった。
「君の父親は、後妻に唆されて実の息子と僕を取り替えることにしたんだよ。手に負えない息子は、折り合いの悪かった前妻の実家に養子として出した。はした金と引き換えにね」
「お父さんが実の息子を売り払うような人なら、どうしてヘンゼルを引き取ったの?」
「僕?一応、あの女の連れ子ということになっているし、ハンターとしての実力は昔から稼いでいたからね」
「わたしを、ここまで育ててきたのは?」
「ヘンゼルは前の奥さんに似ているから、気が弱いあの人なりに可愛がっていたんだよ」
すらすらと出てくる答えに、『それが事実』だと裏付けられてしまう。これを聞いたら2人の関係が変わってしまうと分かりながら、聞かずにはいられなかった。
「それなら、わたしを今更捨てようとしたのは、何故?」
突然頬に感じた熱に、とっさに身を引く。
触れてくるのなど、一人しかいないと分かっているのに、怯えのほうが先にでた。
「あの浅はかな女は、前妻似のグレーテルが幸せになるのに耐えきれなかったらしい」
あまりに稚拙な理由に、呆れてものも言えなかった。
どうやら、お父さんがまともなわたしの嫁ぎ先を見つけてきたから、焦ってもっと条件の良い所があると唆したらしい。好事家で有名な商人の5番目のお妾さんで、結納金がいらないどころか、生活費と言ってだいぶお金を包んでくれたらしい。
ヘンゼルはお父さんがわたしを可愛がっているというけれど、たびたびお義母さんの口車に乗っている時点で、根っからの善人というわけではないのだろう。そもそも、お母さんが死んだころに、まだ幼いわたしたち兄妹を放っておいたから、あの悲劇はおきたようなものだし。最後にはお金に釣られてわたしを売り、家計を支えている義息をのこした。
それだけで、もうお父さんへの想いよりヘンゼルへ向ける信頼の方が強くなっている。
「ヘンゼルがいう、無慈悲で愚かなお義母さんは、どうしてこんな田舎で質素な暮らしをしているの?」
いっそのこと、全て真実を受けとめてやろうと問いかける。そんなある意味開き直ったわたしの様子を、微かに笑われた気がしたけれど気にしない。
「あの女は、幼馴染みだった君の父親の後妻に収まるため、それまでの雇い主を裏切った。その上、愛人の座を蹴ったものだから、僕にただ働き同然で仕事をさせるのを引き換えに、なんとか逃げおおせているんだよ」
「どうして、ヘンゼルがそんなことを……」
何故、ヘンゼルがそこまでするのか分からない。
先程の口ぶりからみて、多少の恩はあるかもしれないけれど、お義母さんと実際に血は繋がっていないのだと思う。
それならどうして、そこまで酷い扱いを甘んじて売れ入れているのか分からない。ヘンゼルはもっと、腹黒で頭が切れる人のはず。心底不思議で首を捻ったら、ポツリと呟く言葉が聞こえた。
「昔、星に願っただろう?」
「えっ……」
「家に帰りたい、兄と仲良くしたいって」
「お兄ちゃん?」
「そう。あんな大怪我を負わせた張本人と仲良くしたいなんて、始めは頭が相当緩いのかと心配したけれど、君が毎晩隣のベッドで泣くから、しょうがないから叶えることにしたんだ」
「隣にいたの?」
「本当は、人が仕事でミスって死にかけているのにうるさいって、文句言おうとしてたのにね」
ギュッと握られた手には、家に帰るために用意していた石も木の実ももはやない。もう森に入って半日近くになるから、帰り方もわからない。
「さぁ、グレーテル。あんな人でなしは見捨てて、一緒に面白おかしく暮らそうか」
その日、わたしの未来に光りが差した。
お星さまの導きにより、私はグレーテルではなくただの幸せな町娘になり、ヘンゼルは優秀な動物専門のハンターとして生きていくことにした。