馬鹿と紙一重なもの
麗らかな季節というのは、彼女に逢って初めて知った。
彼女と初めて出逢ったのは、大学の講義にも慣れ始めた頃のことだった。
僕は普段通り、あまり人気のない前の方の席まで足を進める。人と関わるのが苦手で避けているうちに、すっかり一人に慣れてしまった。時々そんな姿をすかしていると嫌味を言ってくる奴もいるけれど、ほとんどは遠巻きに伺い見るだけだ。
小学入学前から周囲と自分が違うことには薄々勘付いていた。
どうやら、僕は両親の優秀な頭脳を受け継いだらしい。物心ついたころには既に特別な環境で、遊び交じりに学習するのが当たり前になっていた。そんな日々の中で変化が訪れたのは、唐突だった。
「……あっ、」
「?なにか、ご用ですか」
「いや、大丈夫です」
いつも講義を受ける時に座っている席に、見慣れない姿を見つけて思わず声を上げてしまった。突然声を上げてしまったことも、同年代の同性と話したのも久しぶりで恥ずかしくなる。まだまだ夏服なんて早い時分だというのに、うっすら汗ばんできた気がする。
僕はここの教授の好意で講義に参加させていただいているだけで、ここの大学に在籍している訳ではない。僕がこの教授の研究に興味を持ったのは、とある論文を読んだのがはじめだった。元々勉強していた分野とは違ったけれど、たまたま読んでいた雑誌に載っていたもので、暇つぶしに読んでいたとは思えないほどどっぷりはまった。論文の書き方も面白く、この教授が家からほど近い大学にいるのかと思うと矢も楯もたまらず会いに行った。幸い僕がお世話になっている人と顔見知りだったらしく、とんとん拍子で話は進んだ。
教授の論文がいかに面白かったか、どれほど詳しく聞きたいか細かく説明すると、人がいいこの教授は、「大輝君のような優秀な生徒に興味を持ってもらえるとは光栄だ。是非とも講義に参加しなさい」と大学にも話を通してくれた。
これまで様々な教授と話したことがあったけれど、こうして他校の生徒と一緒に座って講義を受ける機会はさほど多くない。大抵様々な生徒が講義に着いて行けるように調整されているものだし、僕は早々に講義内容に飽きてしまうことも多かった。
そんななか貴重な機会をもらっているのに、情けないことに一ヶ月以上たってもここの大学の生徒と雑談することはなかった。まぁ、友だちを作りに来ている訳ではないのだが、あまりに雑談すらしない僕を見て、人がいい教授は「もっと、肩の力を抜いて彼女の一人や二人くらい作ったらいいんじゃないかな?」なんて言い出す始末だ。
あの時は「彼女は一人でいいと思います」なんて返したけれど、このままでは異性の友だち一つまともに作れそうにない。ましてや、自分の特等席だと思っていた席に別の生徒が座っていても、何も言える訳がない。ちょっといつもと違う席は落ち着かないけど、近くの席は空いている。
すごすごと別の席に移動しようとする僕を、不思議そうに眺めていた彼女はふと呼び止めてきた。
「貴方、もしかしてよそからきている天才君?」
「えっ、いや、多分違うと思います」
時々冗談めかして『天才』などと言われることはあったけれど、本気でそういうのは何もわかってないような人間だけだ。世界にはいくらでも頭が良い人間がいるし、僕レベルでそんな大層な呼び方をしていたら、この世は天才ばかりになってしまう。ましてや、こんな同年代とまともな会話もできない人間の、どこが天才なのか。しかし、彼女はあきらめなかった。
「えーここの教授が、この講義にはよそから天才がわざわざ授業を受けに来ているって自慢していたのに」
「へっ?」
「いっつも、一番前で陣取っているって、それはそれは自慢していたから、間違いないって思ったのにな。おまけに、眼鏡をしていて口元にほくろがあるって」
心の中で、なんてデマを広めてくれるんだと絶叫する。
広い講堂を使う機会が多いこの講義は、広いがゆえに後ろの方に生徒が集まりやすい。どうやら、教授に話しかけられたり、こそこそ内職するのを指摘されるのを嫌っての行動らしいのだが、どうして授業中に別の作業をしようとするのか分からない。そんなに暇ならばこの講義を受けなければいいと思うのだが、数少ない知人に言わせると「普通の生徒たちは、単位が欲しいから、多少興味がない講義でも受けるしかないんだよ」という事だ。
「あっ、やっぱり貴方でしょう?考え込むと、左耳を触る癖があるって言ってたもん」
「え、えっと……教授が言っていたことはうそ、お、大袈裟ですが。もしかしたら、ぼくが、『それ』かもしれないです」
「ははっ、自分のことなのに『それ』って。面白いね天才君」
散々どもって出した答えが、見当外れでも笑ってもらえてほっとした。
こんな風に話してしまうと、大抵変な顔をされてみんな離れていく。それにもかかわらず、彼女は気にすることなく話し続けて、しまいには「もしかして、ここ指定席だった?ごめんね、隣座るからここ座って」なんて、席を開けてくれた。
てっきり、何だかんだ理由をつけて遠い席に座ると思っていたのに、彼女は隣に座っただけでは飽き足らず、普通の同級生に対するかのように話しかけてきた。うまい切り返しができずに、大抵は少し話したらみんな逃げるように去っていく。彼女の様に表面上は楽しそうにしてくれていても、次に会った時は目すら合わせてもらえない。そんな腫物扱いされることに慣れていた僕が、まさかこの後に彼女と結婚できることになろうとは思いもしなかった。
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あれから早十年。
まさか、講義前に話しかけてくれた女性……莉生奈と、結婚しこんな関係に至るとは思いもしなかった。
「ただいま」
自分の家に帰宅しただけなのに、音を立てないように最大限の注意を払って中へ入る。
少しでも物音がしたら、飛び出せるように鞄から手は離さなかった。帰宅を知らせる声をかけたのだって、その声に返答がないか確かめるためのことだった。ここしばらくはいつもこんな状態で、まるで間男にでもなったような惨めな気分だ。
ここ一週間はさすがに慣れてきたが、慣れるまでは手が汗ばみ過ぎて、うまく取っ手もつかめなかった。いくら誰もいない時間を見計らってきたとはいえ、長居をしていては帰ってきてしまうかもしれない。この家に引っ越した時は早く帰りたくてしょうがなかったのに、今は一刻も早く出ることしか考えていない。
必要なものを掴んだらとっとと出てしまおうと、自分の部屋の扉を掴んだところで、中から飛び出してきた小さな陰に絶叫を上げなかった自分を心底褒めてあげたい。
「―――ねぇ、どうして私に興味がないのに結婚したの?」
当時の僕に、今問いたい。
君は結婚するどころか、こうして妻に詰め寄られる自分の姿など想像できただろうか。いや、どんな想像力を働かせても、こんな風に自宅の廊下で妻から世で言う『壁ドン』されるなんて、思い浮かびもしなかっただろう。半ば腰を抜かしながら、ズルズルとしゃがみ込んで上から妻に見据えられる。
そもそも前提条件である、『結婚している僕』という姿が思い浮かばないのだから、問うだけ無駄な行為だろう。
「また、逃げる気?」
ひぃぃっという、何とも情けない悲鳴が出なかったのは、声が掠れていただけのことだ。
ここ一か月逃げ続けていたのが悪かったのだろう。妻の目は完全に据わっていた。もしもハンターや殺し屋に追い詰められたら、どう逃げようかという想像を同僚としたことがある。どうすれば相手の不意を突けるか、そもそも相手の体格や性別によっても手段は変わるだろう。よくもまぁ、そんなくだらないことで話続けられたものだというほど、あの時は延々話続けていた。そんな長々と話し続けた結果も、今に全く役立ってこないのだから嫌になる。同僚の八重樫が言った目つぶし何て、この人を殺しそうな目で睨まれていないから浮かんだ考えに過ぎない。本物を前にしたら、絶対に無理だと断言できる。自分より確実に身長も体格も小さいだろう女性に睨まれ、心底縮み上がっている。
情けないことに、若干涙目になってきた自覚もある。
「あ、あの……」
「なに、さんざん逃げ続けてくれたんだから、もう逃がさないわよ」
「とりあえず、一度場所を移動しませんか?」
たとえその場しのぎだとしても、この眼差しから逃れられるのなら、悪くはない考えだと胸をなでおろした。
……のが間違いだと気づくのは、数分にも満たない時間だった。
「よくも、っこれまで一ヶ月と三日も、逃げ続けてくれたわね」
「い、いや、決して逃げていたというわけでは……」
結婚当初は、ドキドキしたこのダイニングでの距離も、今は違った意味でドキドキしている。ここまで行けば不整脈を疑った方がいいのではないかと、そっと脈を図ろうとしたが、いい加減にしびれを切らした莉生奈に声をかけられて断念する。このまま不整脈で倒れても、莉生奈のせいではないのだと、救命士に伝えようとこっそり決意する。
「そもそも、どうして付き合ってくれたのかもわからないんだけど……。どうせ断るのが面倒とか、男女交際自体に興味があったっていう所かしら?」
「ち、違う。そんな事はありえません」
「何が違うの?だって、付き合ってほしいと言ったのも結婚を申し込んだのも私でしょう」
「そそ、そんな事いって、指輪は僕から用意したし、何度もデートに誘ったじゃないですか!」
「デートに誘った……?もしかして、実験に必要な部品を一緒に買いに行こうって言ってたこと?あのときだって、自分が買いたいものを買ったらすぐに帰ろうとして、引き留めようとしても三回に一回は予定があるって帰っちゃったじゃない。そんなの、デート何て普通は呼ばないのよ」
「そ、そんなはずは……。友だちや先輩に相談しても、勇気があって積極的だと、褒められていたのに」
「貴方の周りにいる人たちは、ほとんどまともに恋をしてこなかった人たちでしょう?恋人がいるといっても、幼馴染とか同じ分野の人同士で、ちょっとリア充タイプの先輩とはまともに話そうともしないじゃない」
「け、決してそんなことは、」
「じゃあ、相談した人の中に一度でも合コンに行ったことがある人や、ナンパに成功した人はいる?」
「……ごめんなさい」
正直、助教授や教授の知り合いを含めても、恋愛ごとで的確なアドバイスをくれそうな知り合いは少ない。居たとしても、僕自身のことや莉生奈とのことを根掘り葉掘り聞きたがるような人間は苦手だから、相談しようなんて思えない。一人二人浮かんだ候補は、真っ先に叩き潰した。
「―――私ばっかり好きで、馬鹿みたい」
「えっ?」
「だってそうでしょう?こちらの好みや性格なんて全く理解しようとしないで、いざ話し合おうとしてもずっと逃げ続けるし」
自分と妻は全く違うタイプなので、理解できているとは言い難いが、『理解したくない』訳ではない。むしろ、理解する時間がもっと欲しいから、こうして少しでも時間を引き延ばそうと逃げ続けていたのだ。だからこそ、呆れられている自覚はあったが、こんな勘違いをされているとは予想外だった。彼女が僕を好いてくれているという事実は有り難いが、僕が彼女を想っていないなんてことは決してない。
「ちょっ、ぼ、僕は、好きでも無い女性とずっと生活できるほど、器用じゃありません!」
「……器用じゃないのは、知ってる」
「それならっ!なんで、そんな疑いを持ったんですかっ」
まったくもって、納得いかない。
彼女の嫌に冷静な様子から、勢い余って口にしたことではないと分かるから、なおのこと納得いかない。
「いや、だから、断ったり揉めたりするのが面倒で、ズルズル付き合っているんだと」
「どれだけ人を、無気力な怠け者だと思ってるんですか!そもそも、結婚する方がよっぽど面倒で大変じゃないですかっ」
「……大変で、面倒な人間で悪かったわね」
「そうじゃなくって!」
久しぶりに、こんなに声を張り上げたかもしれない。
まさか自分の妻に、ここまで誤解されているとは思ってもみなかった。もともと己の言葉足らずや無神経な部分は認識していた。きっと優しくて寛容な妻はそんなこちらに耐え切れなくなったのだと半分あきらめにも似た気持ちがありながらも、彼女無しの人生なんて考えられなくて、それこそずるずる引き延ばしてきた。向き合わなければ、終わることもない。離婚届に判を押さなければ、たとえ法律上だけでもつながりが欲しかった。
「僕は、本当に君のことが!」
幾ら言葉を尽くしても、彼女が色よい言葉を返してくれることはない。
このままでは、本当に終わってしまう。今日を逃したら、二度と彼女と話す機会を得られないかもしれない。何度もこのままではいけないと思いつつも、今日まで逃げ続けてきたんだ。また、逃げる。ここで逃げたらもう二度と勇気なんて出せないに決まっている。そんな僕にその内愛想をつかして、彼女は離れて行ってしまうだろう。
「…………」
「な、何か言ってください」
お願いだから、何か言ってほしい。
出来れば色よい言葉が良いけれど、そんなわがままを言っている場合じゃないのは分かっている。
「こんなに貴方が長くしゃべっているの、結婚してから初めて見たかも」
「き、気になるのはそこですか……?」
プロポーズした時と同じか、それ以上の決意を持って口にしたというのに、まったく伝わっていない様子に腹が立つ。これだけ言っているのに、伝わらなかったらいっそ泣けてくる。そもそも、どうして僕が彼女を好きじゃないなんて結論に結びついたのか分からない。
「だって、付き合う前はよくテンパって相槌すら打たせてくれない勢いで話続けていたけれど、結婚してからは。いえ、付き合ってからかしら?ずっと私の話すら聞いているのかよく分からないような反応ばっかりだったじゃない」
「そ、それはあまり面白くないことを話し続けると、君に呆れられるんじゃないかと思って」
「面白いか面白くないかは私が決めることだけれど、そもそも面白くない話を人に延々とし続けるのはやめようよ」
まったくの正論に、ぐうの音も出ない。
でも、そもそも己の中に妙齢の女性を楽しませるだけの話題が、どれほどあるのかという疑問がある。おおよそ、これくらいの話ならついてきてくれるかと口にした数学の理論は、ことごとく不評だった。何だったら、「ちょっと疲れているから、その話はあとにしてくれる?」なんていわれることも一度や二度ではない。
「……で、どうなの?」
「へっ?何が」
「で、『僕は、君のことが!』って言葉で止まっているけれど、その続きはどこへ行っちゃったのって聞いているの」
「そ、そんなのあの流れで言わなくったって……」
「あのさぁ、さんざん証明だ理論だって言ってきた人が、急に『言わなくても伝わるだろう』なんて答え返さないでくれる?こっちが迷っている時にちょっとあいまいな答えを返すと、『玉虫色の返事はやめてください』って問い詰めてくるくせに」
「ごめんなさい」
「いや、謝罪はいいから」
散々迷って迷って、ぎゅっと目をつぶった後に決意をこめて莉生奈を見据える。
「ぼ、ぼぼ僕は、き、君が、君のことが誰より好きだから、別れたくないっ!」
半ば、叫ぶように口にした。
これまでの不安や迷いも捨てて、ただ彼女に選ばれたいがために想いを伝えた。彼女と逢わないように逃げていたのも、すべて彼女を大切に思うがゆえに、どうすればいいのか分からなくなったからだ。紙の上でならわくわくするような困難な問題も、現実の生活に置き換わった途端、逃げの一択しか選べなかった。あれは名誉ある撤退などではなく、ただ子どもが嫌なことから逃げ回っていたにすぎない。
改めて自分の情けなさに打ちのめされている僕に、彼女からとある言葉が落とされた。
「そもそも、私は貴方と別れること前提で話し合おうとなんて思っていないし、新しく好きな人ができたなんてこともないんだけど」
思わず下げていた顔を上げてみると、以前に見たよりも少しやつれた彼女の顔に気づく。
さっき壁ドンをされたときに、散々近くで顔を見ていたはずなのに、そんな事にも気づけなかったと愕然とする。
「えっ……そう、なんですか?」
「そりゃ、そうでしょう。そもそも他に好きな人が出来たら、とっととこの家から出て行っているし、悠長に話し合い何てせずに離婚届を差し出しているわよ」
あまりに堂々と自信をもって言われるから、「嗚呼そういえば彼女はそういう人だった」と納得する。
僕を不器用だというけれど、彼女も合理的な判断だけで嫌いな人間と一緒に居られるほど、器用なたちではなかった。改めて言われないと理解できないなんて、どれだけ自分の目は曇っていたのだと驚いてしまう。
「勝手に思い込んで、一ヶ月と三日も逃げ回る情けない人でも、まだ一緒に居たいと思っているんだから、自分に呆れちゃうわ」
「……一生、そのままでいてください」
それで彼女が、こんな情けない僕とずっと一緒にいてくれるのならこれ以上嬉しいことはない。
「大輝はいい加減に、ただの同僚や幼馴染にくだらないやきもち焼くのを、やめてください」
「む、無理です」
彼女を好きでいる限り、この身に巻き起こる感情の嵐とは切っても切れない関係だろう。
ある種の確信をもって口にしたのだが、彼女はやっぱり上手だった。
「やきもちを焼かないのが無理なら、もっとしゃんとして、俺の女にちょっかいを出すな!くらい言ってくれていいわよ」
うりうりと頬を指で押され、「……鋭意努力します」と答えるより他なかった。