八仙花~はっせんか~
八仙花・・・紫陽花の別名。
ほら、紫陽花が見頃ですよ。
そんな言葉に誘われて、思わずうちは草履へ足を通した。
「貴方はいつもいつも、突然すぎます。今日だってどうして、こんな時に誘うのです。うちだって、そんなに暇ではないんですよ」
「いやぁ、すみません。つい仙花さんの顔が浮かんだもので」
先ほどから雨雲が立ち込めており、かすかに雨のにおいもしている。
着物への泥はねも気になるのに、さほど時間をもらえなかったからお気に入りの着物に買ったばかりの羽織という、雨には不向きな状態だ。近くの出店だって、商品が濡れては叶わないと、早々に店じまいしているところもある。
家を出ようとしたときだって、そうだ。草履はそれなりに履きなれたものだというのに、足を通すのにも時間がかかって焦ったのも気分を落ち込ませた。うちのいいなずけである清弐さんは、いつものんびり気が長すぎてこちらがやきもきさせられる。平均的な日本人男性よりもちょっと背が高く、頑丈そうな体躯を気にしているせいでいつも猫背気味だ。そんな所も、周囲に軟弱だと思われてしまう原因だろう。四人兄弟の二番目で、家を継ぐ必要がないから暢気なものだと周囲からも揶揄されている。そんな事を聞かされやきもきさせられるのは私ばかりで、当の本人は気にした様子すらない。
うちが成人したらすぐに、夫婦になり家へ婿入りしてもらう予定だ。けれど、幼馴染の一郎などは「あんな軟弱な男では、水野家みたいな小さな和菓子屋は潰されるんじゃないか?」なんてからかってくる。結婚するまでに、もう少ししゃんとしてもらわないと困るのだけれど。
「第一、なんですかその傘は。蛇の目傘の方がおしゃれだと、人気なのですよ」
「嗚呼、そうでしたか。どうも私は流行りに疎くて行けませんね」
そんな事をいいながら、ふっと手元の番傘へ視線を落とした。
背中越しでは、彼が何を考えているのか、表情が読めない。もう一歩、彼へ近づこうと足を速めようとしたところで、彼の言葉が待ったをかける。
「でもこの番傘は、祖父から譲り受けたもので気に入っているんですよ」
そんな風に続けられた言葉に、口ごもった。お爺様が愛用していた物と知りもせずに、偉そうなことを言ってしまった自分を恥じる。うちは何時も、何時もこうなのだ。度々よく考えもせずに言葉を口にして、後悔する。特に清弐さんはいつもぼんやりしているから、ついつい口調もきつくなってしまう。
よく見てみれば、藍色の番傘は無地ながら、持ち手が太い竹になっていて雨は勿論、雪にも負けなそうだ。手入れもしっかりしているのだろう。畳まれていてもゆがみなどなく、いいものであるのがうかがえる。
番傘よりあとに売り出された蛇の目傘は、意匠を凝らし色柄も豊富なものが多いけれど、清弐さんの物も劣っているとは思えない。
「……事情も知らずに、ごめんなさい」
「いや、構いませんよ。あなたの露草色に白い輪がついた蛇の目傘は、確かに雨の日でも心が躍りそうな素敵なものですね」
「有難うございます」
快く許してくれた気づかいに、ほっと息を吐く。
時々あまりに優しすぎて、彼に無理をさせているのではないかと不安になる。本当は、お父様にたちが決めた許嫁であるうちを、気に入っていないのではないか。そんな事を考えながら、考えるより先に口を突いて出ていく言葉が恨めしい。
しずしずと、その背を見ながら歩いていく。
先ほどまでの勢いは失われて、立ち込めていく雨雲よりも真っ暗な気持ちになっていく。こんな事なら、家の手伝いを切り上げてまで、彼の誘いに乗るのではなかった。優しい彼なら家の手伝いがあると言えば、きっと残念そうに眉を下げながら「それなら仕方がないですね」と笑って許してくれただろう。自分の浅はかな言動に落ち込みながら、どんどん下を向いていく。しまいには、かろうじて清弐さんの着物の裾がみえる形で、ひたすら後をついて歩いていた。そんな中、それは突然起きた。
「―――見てください、仙花さん」
ふっと上げた視界には、見渡す限りの紫陽花が咲き乱れていた。
「綺麗……、もうこんなに咲いていたなんて」
喜んでいただけましたか?という問いかけに、もちろんだとうなずいて見せる。
近くに住んでいるというのに、ここ数年は忙しくてまともに街を歩くこともしていなかった。飛鳥山は桜の名所でもあるから、春には度々夜桜見物に来たりしていた。けれど、夏が近くなると夏限定菓子の売れ行きが良くなって、忙しくなる。そのため、こんな風に昼間にゆっくり紫陽花をみようなんて考えもつかなかった。
「最近の仙花さんは家業で忙しくて、春には花見ものんびりできなかったでしょう?だから紫陽花は、ゆっくり見せてあげたいなぁと思ったんですよ」
まだ、咲き始めたばかりなのだろう。
開花前の蕾も合わさって、濃淡様々な色合いの紫陽花が咲き誇っている。桜とはまた違った華やかさがあり、ぽつぽつといつの間にか降り始めた雨で、また違った鮮やかさを魅せてくれる。
「その朱鷺色に柳があしらわれた着物の柄も勿論素敵ですが、もっとあなたには紫陽花のような柄の方が似合います」
「……せっかく、買ってもらったのに」
顔では唇を尖らせながら、内心ちょっと嬉しくて口角が上がってしまう。
本当は、もっと大輪があしらわれたような薄浅葱色の着物が着たかった。でも、「それでは清弐さんと並んだ時にふさわしくないのではなくて?」というお母様の言葉で諦めた。五つ年上の彼と婚約してから、いつも言われている。あまり子どもらしくして呆れられないように。ゆくゆくは家を継ぐ彼を、支えられるように精進しなさい。自分でも感じていたのに、こんな風に言われてしまえばどんどんその役目の重さに押しつぶされそうになる。
「色鮮やかな紫陽花ですが、中でも私は赤紫色の紫陽花が好きなんですよ」
まさかの『紫陽花が好き』という発言に、目を見開く。
清弐さんが花言葉なんて知っている訳がないと思いつつも、『移り気』という意味がある花を好きだというのに少し抵抗がある。でも、紫陽花の中でも一つ良い花言葉の色がある。
「うちは、白い紫陽花が好きです」
目を楽しませてくれる花色も好きだけれど、『ひたむきな愛情』という意味を持った白色が一番好きだ。くだらないこだわりと言われるのが嫌で人には言えないけれど、彼へそんな思いで接したいと思っている。ただひたむきに、清弐さんへまっすぐな愛情を向けていきたい。
そんな事を考えていると、横を通り過ぎた女性二人組が話している内容が聞こえてきて口角を上げる。どうやら悪い意味ばかり気にしていたけれど、紫陽花には『家族団らん』や『仲良し』なんて花言葉もあるらしい。それなら私が知らないだけで、赤紫の紫陽花にも素敵な意味があるのかもしれない。今度調べてみようと、順番に紫陽花を眺めていく。子どもの頃だって見ていたはずなのに、清弐さんと一緒だとまるで違って見えるのだから不思議だ。ゆっくり端から端まで話しながら歩いていくと、なかなかの見ごたえがあって楽しめた。
「さて。では最近開店した喫茶店で、オムレツライスでも食べるとしましょうか」
「えっ、ちょっと待ってください」
あまりの驚きに、思わず歩みを止めさせる。
そんなにどんどん、一人で進めていかないでほしい。こちらは誘いを受けたのも突然なら、彼の計画を聞いたのも突然なのだ。私の予想が正しければ、歩いて帰ってくるのは夜中になりそうな喫茶店のことを指しているのでは。まさかまさかと思いつつ尋ねれば、軽い調子でそうだと相槌を打たれる。
「オムレツライスって……ここから歩けば、どれほどかかると思っていらっしゃるんですか」
「まさか。さすがに私だって、あそこまで歩こうだなんて思ってやしませんよ」
「じゃあ、どうしようというのです」
「以前に仙花さんは、都電に乗ってみたいと言っていたでしょう?」
思わぬ気づかいに、言葉を失う。
何気なく会話の合間に口にしたことを、覚えていてくれるとは思っていなかった。
「の、乗れるんですか?」
「えぇ。仙花さんが嫌でなければ、どうかなぁと」
「のっ、乗ります!乗ってみたいですっ」
女学生仲間とも話題になっていた都電に乗れるなんて、うれしくて子どものようにはしゃいでしまう。思わずクルクルと、蛇の目傘を回す。
「今度の休みには、無声映画に行くのもいいかもしれませんね」
「無声映画!いいですね。楽しみです」
私をこんなに喜ばせてどうするのだろうと思えるほど、どんどん提案される内容は魅力的だ。
「ふふっ、楽しみなことが増えました。もっと仕事頑張らなきゃ、お父様たちに怒られてしまうわ」
「そうですね。私も家を継ぐために、頑張って経営を学んでいきます」
「えぇ、よろしくお願いしますね」
「もちろんです。……幼馴染の付け入り隙など、与えませんよ」
嬉しさのあまり、彼の最後の言葉を聞き逃してしまった。
「何かおっしゃいましたか?」
「いえ、大丈夫ですよ。早く食べに行きましょう」
「はい、そうですね!早く行きましょう」
弾む心を隠すことなく、駅までの道を歩いて行った。
白い紫陽花「寛容」「ひたむきな愛情」
赤紫の紫陽花「元気な女性」
参考Webページ: 紫陽花の花言葉色別(紫・白・青・黄・緑)いい意味悪い意味の一覧表 | いちにのさんし! (tokipe.com)
お付き合いいただき、有難うございました。