失恋未満 前編
少しだけ、先の未来を想定して描いた作品となっております。
その人を見つけたのは、ホテルに入ってすぐのことだった。
「す、ぎやま先生?」
「おー、山内じゃん。久しぶりだな」
思わぬ人の姿に、内心動揺する。
本当なら今すぐに踵を返してしまいたいけれど、どうして私が逃げなければならないのかと必死に足を踏ん張った。
周りにはチェックインを待つ人や楽しそうに談笑する人が複数いて、こんなご時世でもこのホテルは込み合っているようだった。
明るいシャンデリアや、高級感漂う絨毯。従業員のしぐさやお客さんたちの装いに至るまで、何とも言えない非日常感に委縮する間もなかった。
「そんな格好、珍しいですね」
「あー。こんな時くらい、ちゃんとした格好しないとな」
「……そういう常識、持ち合わせていたんですね」
あんなことを、平気で口にしたくせに。
いつもボサボサの髪がワックスで整えられ、スーツ姿も決まっている。入学式ですらだらりとした印象で教頭先生からお小言をもらっていたのに、今日は文句の付け所がない。革靴だって磨かれているし、腕時計もいつもつけている千円ちょっとの安物じゃなさそうだ。どうして今更、そんな格好をして私の前に現れるのかと、恨み言の一つでも言いたくなる。
「おいおい、久しぶりに逢ったのに、さっそく嫌味か。せっかくかわいい格好しているんだから、もうちょっと愛想よくしてくれよ」
「……可愛くない性格で、すみませんね」
いつもは着ないワンピースドレスから見える太ももや、素肌の二の腕が恥ずかしい。羽織ったショールをいじりながら、もう少し露出の少ないドレスにすればよかったと後悔した。
「なんだ。褒めてやってるのにその反応って、懐かしいな。素直じゃないルルちゃん」
「やめてください、その呼び方」
この人は、本当に昔っからろくなことを口にしない。
『ルル』だなんてキラキラネーム、私には似合わないから呼ばないでほしいと何度も言っているのに。陰険で、毒舌家。人と群れるのが苦手で、高校生時代ならこんなパーティー参加しようとも思わなかった。
友だちがいない訳ではないけれど、その数少ない友人だって、「会いたくない同級生の方が多いから」といってこない人もいる。けれども、コロナになってからあらゆる行事が中止され、卒業式や大学の入学式だってできずに終わった。
そんななか、数年越しに「遅くなったけれど、卒業パーティーをホテルでしよう」という言葉にまんまと釣られたのには、訳があった。
「るーるちゃん」
にやにや笑いながら、ゆっくりと近寄ってくる。
数年前までは、こんな風に呼ばれることも気安い関係になったようでうれしかった。初めて出逢った頃は、杉山先生が苦手だった。教師なのに派手な格好が好きで、毎月美容室でミルクティーブラウンに染めているという髪も、全然負けてはいない。母親側の祖父が西洋の生まれでクォーターらしく、顔も整っている。英語担当の中でも人気が高く、もっと若い先生はいるのに一番人気だった。
こうして久しぶりに逢うと、初めて杉山先生を意識しだした頃のことを思い出してしまう。
あれは、日直で遅くまで一人で残っていた日のことだった。
台風が来ると前々から言われている日で、一緒に担当していた男子は、簡単な作業だけ終わらせてとっとと帰ってしまった。しかも、その日は悪いことに科学の授業が一番最後にあった。この先生は授業が終わると片づけを手伝わせる人で、それを知っているもう一人の日直は部活だと言ってうまく逃げおおせていた。彼はテニス部だけどほとんど幽霊部員で、こんな雨が降りそうな中に参加するわけもなく。窓の外から逃げるように帰っていく姿が見えたのだから、いら立ってしまう。
その日は運が悪いことに、小テストや体育があって日誌をほとんど書けていなかった。その日に学んだ内容などを書かなければならない日誌は、授業終わりに書くしかなく。適当に書いてしまうことも性格上できずに、みんなが帰った後にもなかなか終わらず一人残っていた。
「あれ、山内まだ帰ってなかったのか?」
イライラしながら日誌を書いていると、杉山先生が教室をひょっこり覗いた。
どうやら職員会議が終わって、たまたま通りがかったらしい。特別急ぎの仕事がなかったのか、私の前の席にドカリと座ると、手元をじっとのぞいてくる。
「なんだ、お前下道に日直を押し付けられたのか?」
「下道くんは、簡単な仕事だけ請け負って部活に行きました」
「あいつ、テニス部なんて幽霊部員だろう?」
「……そうですね」
杉山先生が、そんなことまで知っているなんてちょっと意外だった。
一年生の時、杉山先生は私たちの学年を担当していなかった。今回は副担任になったとはいえ、まだ二年生になって日も浅い。先生たちの中には、生徒の名前もまだうろ覚えという人も多いなか、まさか担当していなかった生徒の個人情報まで知っている人なんて意外だ。
「なんだ、その顔」
「だって、副担任になってまだそんなに経っていないのに、そんな事知っていたんですね」
「おい、俺だって派手な格好しているけど、『せんせい』だぜ?」
恨んげにまじまじと見つめてきた瞳は、透き通るような紅茶色をしている。
レモンティーというより、ダージリンを思わせるような、わずかに赤みを感じる色だ。カラーコンタクトではでない自然な色合いが、嵐前の不思議な色合いを映している。この時に初めて、この人はこんなに綺麗な瞳を持っていたのかと驚いた。
こんな風に、人の目を近くからまじまじ見るのも初めてなら、ここまで綺麗な瞳を見るのも生まれて初めてだった。
「ん?なんだ、そんなにまじまじと見て?」
「いえ、杉山先生がこんなに綺麗な瞳を持っているなんて、驚きました。青い瞳の人とかがいるのは知っていましたが、実際に見るとこんなに綺麗なものなんですね」
「…………」
「……あれ?」
急に顔を隠して黙り込んだ杉山先生に、何か変なことを言ってしまったかと目を瞬かせる。
「え、何か変なことを言っちゃいましたか?」
「……いいから、早く終わらせな」
わずかに見える耳が赤く見えたけれど、そこはツッコんではいけないらしい。
しばらくカリカリ大人しく書き進んでいたけれど、いつまでも動こうとしない先生が気になる。終始話しかけられるよりはいいけれど、なぜ黙ったまま座っているのか分からない。
「おい、山内。そこ英語のつづり間違ってる」
「あれ?そうでしたっけ」
「お前、別に出来ない訳じゃないのにそういうケアレスミス多いよな。この前の小テストでも、そのせいで減点されてたし」
「……先生、仕事はいいんですか?」
「いや、生徒の面倒見るのも立派な仕事だし」
というより、書類仕事やデスクワークは『先生』の仕事じゃねぇと思うだがなぁなんて、教師らしからぬことを呟いている。相当、今日の会議が大変だったらしい。薄っすら浮かんだ隈が可哀そうで手元に視線を戻す。
「杉山先生が、なんでみんなから人気があるのか、ちょっとわかった気がします」
「…………」
本日二回目の沈黙に、この先生は無口だったかと首をかしげる。
別に変なことは言っていないと思うのだけれど、いつもの適当な語り口調がない杉山先生と話すのは、存外苦痛じゃなかった。どうしても先生と話すのは緊張してしまうタイプなのだけれど、こうして黙っていても嫌じゃない自分が一番意外だ。
「―――なぁ、山内の親ってオペラとか好きなのか?」
後数行で終わりという所で、唐突に杉山先生が聞いてくる。
今までそんな話をしていなかった。それどころか、これまでそんなことを人から聞かれたこともない。それなのに、どうしてそんなことを言うのか分からず、素直に否定する。
「いえ、そんなこと聞いたことありませんけど、どうしてですか?」
「ルルって名前の、ドイツ語で歌われるオペラがあってな」
『ルル』と杉山先生から口にされた言葉のくすぐったさに、思わず首をすくめる。
いつも友達に呼ばれるのも嫌がっていたから、こんな風に誰かに名前を呼ばれたのは初めてだった。大抵『るー』と呼ぶし、家族も大抵同じだ。
「私の名前は、漢字のほうの縷々(るる)からとったと言われました」
どうやら、縷々という言葉には、「細く長く途切れることなく続く」という意味合いがあるらしく、幸せがずっと続くように願いを込めてつけたと言われてから、前ほど拒絶感はなくなった。けれど、どう考えても私の性格と、この名前のもつ可愛らしい印象は合わない。それを考えると、どうしても人に呼ばれるのは遠慮したいと思ってしまう。
身近な人たちなら、名前に付けられた意味を理解してくれているけれど、道行く人すべてに説明して歩くことはできない。ましてや、関係性の低い人ほど、こういう目立ってしまう部分を面白おかしく茶化してくるものなのだ。あえて言うなら、この名前がどうこうというより、よくわかっていない人間に、両親がつけてくれた名前を馬鹿にされるのが嫌なのだ。
「そうか、漢字の方にはそんな素晴らしい意味があるんだな」
「で、どうしてオペラが好きかと聞いたんですか?」
「あー、いや」
「何ですか。そこまで聞いておいて、言わずに済むと思っているんですか?」
「聞いても怒るなよ?」
怒られるようなことを言うつもりなのかと思ったけれど、口には出さずにいた。
きっと一言でも発したら、その言葉の意味なんて知ることができなくなってしまうだろう。嫌な予感はするけれど、このまま聞かないという選択肢はなかった。
「いやな、オーストリアの作曲家が作ったオペラで、ルルという主人公が描かれたものがあるんだよ」
「へぇ、どんな話なんですか?」
「……魔性の女をめぐって男たちが巻き起こす、愛憎劇を描いた作品」
「……大概、失礼ですね」
シラケた気分で、日誌を閉じる。
ちょうど終わったところだし、職員室に提出したらそのまま帰ってしまおうとカバンを持つ。
「あっ、いや悪気はなかったんだぞ!その魔性の女って、無茶苦茶魅力的でな……」
「いえ、どうして先生がそんなオペラを思い出したか分からないですけれど、別にいいです」
思わず、自分の名前の由来を話した後に言われた言葉に、苛立ちがなかったかと言えばうそになる。正直、そんな風に茶化されるくらいならば、話さなければよかったと思ったし、信じた自分にも頭にきていた。
「あーごめんって、失言だった」
「別にいいです。日誌も書き終わったんで、もう帰ります」
「いやいや、待てって。絶対「もういい」って人間の反応じゃないぞ」
「そんなこと言われても、私には関係ありません」
杉山先生が困ろうが、他の考えなしの人間のようにからかわれようが。
もうこんな風に二人きりで話す機会もないだろうし、家に帰ればすぐに忘れられるだろう。
「待て待て、お詫びに車で送っていくから!」
「結構です」
「そんなこと言っても、外は土砂降りだし、担任にも話は通しているぞ」
「―――いつの間に」
どうやら、さっきまで弱かった雨脚が、本格的な振り方に代わってしまったらしい。
まだ夕方に差し掛かった時間だというのに、外は真夜中のように真っ暗だった。恐る恐る校庭を除くと、固い地面に水が溜まって、大きな雨粒をはじいている。眺めている内にも雨の降り方がひどくなっていき、とてもまともに歩ける雰囲気じゃない。
「大人しく、送られておけ」
「…………」
「明日は古典の小テストがあるだろう?あの先生、小テストも成績にいれるから、風邪ひいて受けられないとか大変だぞ」
「……よろしく、お願いします」
酷い雨脚に背中を押されるようにして、私は杉山先生に大人しく送られることにした。
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団体客なのか、ガヤガヤと騒がしい人並みにもまれないよう、スッと端によける。
やけに騒がしいと思ったけれど、廊下の真ん中に立って話し込んでいた我々の方がよっぽど迷惑だろうと納得した。逢うと思っていなかった人が突然目の前に現れたから、そんなことにも意識が向いていなかったらしい。どれだけ思考が止まっていたんだと、珍しく気合いを入れて整えていた髪をかきむしりたい気分になる。
「せっかく可愛くしているんだから、髪がぐちゃぐちゃになったらもったいないぞ」
サイドの後れ毛を触ったところで、手を取られてハッと振り払う。
思わずとった行動とはいえ、どれだけ意識しているのかと歯嚙みしたい気分だ。
「おいおい。何もそんな風に、振り払わなくてもいいじゃねぇか」
苦笑しつつニヒルに笑うその顔は、どう考えても悪い大人だ。
高校を卒業して、いざ成人してみれば、当時の先生もいうほど大人ではなかったのだと知った。確かに社会人として過ごしてきた経験はあるだろうし、10歳以上年上だ。けれど、当時の私はその事実や先生自身よりもよっぽど彼を大人に感じていた。高校卒業する前に二度ほど告白したけれど、「等身大の俺を見れていないただの生徒に、手を出すつもりはない」と言われた言葉を思い出す。あれを言われたときは、ただ体のいい断り文句だと思っていた。
今なら、あの言葉の意味が少しは分かる。
でも当時は杉山先生に特別扱いをされていると勘違いしていたから、テンプレで断られたことが惨めだった。そんな、どの生徒にも言えそうな言葉で、「成人したら、またおいで」なんて軽く言わないでほしかった。きっと成人する前に、高校生時代の淡い恋心なんて消え去ると思われていたのだろう。