あのね? 前編
明けまして、おめでとうございます。
色々書きたいことはあるのですが、長くなりそうなので、謝罪は活報にて書かせていただきます。
暖かな日差しが心地よく肌をくすぐり、そっと目を細める。
冷たい空気の中で感じるこのぬくもりが、昔から好きだった。もっとも子どもの頃は、こんな穏やかな気持ちでこの光を受け入れる余裕なんて、ありはしなかったのだけれど。家の外に椅子を出し、ゆったりと腰掛ける未来なんて、あの頃は思い浮かびもしなかった。
「おばあちゃん、あのね?」
孫からそんな言葉がかけられなかったら、こんなにも昔のことを思い出すことはなかっただろう。
出来るだけ優しく見えるよう、そっと孫娘に微笑んだ。小さな体で精一杯抱きついてきたこの孫は、やんちゃな兄が二人もいるのに、引っ込み思案な性格だ。いつも兄たちの後ろに隠れていてちょっと心配な面もあるけれど、控えめに笑う顔がどうしようもなく可愛くてついつい甘やかしてしまう。
「あのね、あのね?おじいちゃんのお話、聞かせて」
「っっ、」
「あっ、こらメアリー!おばあちゃんに、わがままいわないのよ」
義娘があわててメアリーを引きはなそうとするけれど、首をふってそれをとめる。この優しい孫娘が、悪戯に人を困らす子じゃないのはわかっている。どうして突然そんなことを言い出したのかと問うまえに、可愛い口から思わぬ理由が飛び出した。
「あのね、まだ難しい手話はできないでしょう?だからね、隣のお姉ちゃんに字を習ったの」
「あら、最近よくお隣にお邪魔していると思ったら、そんなことをしていたの」
「字が読めれば、もっとおばあちゃんとお話出来ると思って頑張ったの」
この反応をみると、どうやら家族にも内緒で練習していたらしい。
ずっとおばあちゃん子だと言われていた孫娘も、やはり年の近い子と遊びたいのかと少し寂しく感じていたから、その気持ちが嬉しかった。
いくら内気とはいえもっと体を動かしたいだろうに、そんな気持ちよりも私との交流を取ってくれた申し訳なさと嬉しさで笑顔がこぼれてしまう。
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あれはまだ、肌もみずみずしく花も恥じらう乙女だったころのこと。
ここからほど近い谷間にある村で生まれた私は、村の人から『歌うたいの巫女』なんて呼ばれていた。小さなころから歌うことが大好きで、物心ついたころにはみんなの前で歌う日々だった。
故郷の村は自然豊かといえば聞こえはいいけれど、大木と澄んだ水だけが自慢の場所だった。
山菜を採って野生動物を狩り、自然と共存する日常では娯楽らしいこともなく、歌を聞かせる私は重宝された。村に昔から伝わる歌に、旅人が語って聞かせた悲恋に英雄譚。悲しい場面では吐息を震わせ、勇ましい戦士たちの行軍では鼓舞するように。自分ではおおよそ経験したことがないはずなのに、歌を歌っている時はどこまでも自由な私は、いくらでも旅して理解することができた。
年老いた戦士の苦悩にも、死に別れた恋人の墓を一人弔う嘆きにも、他人ごとではない気持ちで言葉を紡ぐことができた。
歌えば歌うほど魅了され、酔ったような私の心酔具合に影響されたのか、周囲も「歌うのをやめろ」なんていう人はいなかった。七つの歳を超えて、難しい歌でも歌いこなせるようになると、次第に冠婚葬祭でも歌を望まれるようになっていた。新たな門出を迎えた夫婦を歌で送り出し、弔いではやすらぎを少しでも与えられるように。大人になり旅立つ者には進みゆく道の安寧を祈り、日々の糧を得られることに節目節目で感謝を伝える。ただの自己満足が習慣になり、村全体に浸透していった。
10を数えた頃には、小鳥のさえずりや水のせせらぎにメロディを見いだし、自ら曲をつくることも増えた。歌を教えてくれた旅人の顔なんかはすぐ忘れるのに、歌だけならいくらでも覚えていることができたのは不思議だ。
「お前は、本当に歌うことにかけて『だけ』は、天才的なんだなぁ」
なんて、親の嘆き交じりの言葉でさえ、褒め言葉以外の何物でもない。
鼻歌レベルの曲には飽きたらず、風が谷間に流れる様や雪が降りしきる姿に自然と言葉がついてくるのは、そう遅くないことだった。
これまでは人が奏でる音を借りていたけれど、自らの想いや感情を声に出すことにより、ある種の快感を得ていたのだろう。家族に止められても1日中歌い続け、次第に歌わないと気持ちが落ち着かなくなっていた。
「お前の歌は素晴らしいが、のどを大事にしなさい。お前の声はこの村の宝なのだから、つぶれてしまっては大変だよ」
「でも、村長様。私は歌うのが生きがいなの。生まれてくる歌を、奏でないでいるなんてできないわ」
「それなら、うちのババ様にでも琵琶を習ったらいい。楽器でだって、充分に音楽を奏でられるだろう?」
「ババ様の琵琶はもちろん好きだけれど、私は歌をうたうのが好きなの。歌をうたわずにいるなんてできやしないわ」
「……この村は、お前の喉を失うわけにはいかないのだよ。聞き分けなさい」
村長は、そんな風に一方的な言葉で私を叱りつけた。
私の両親や兄も、村長に逆らってはこの村で生きていけないからと、私をかばってはくれることはなかった。ましてや、私には年頃の姉様がいる。小さなこの村で生きていくにしろ、よそにお嫁に行くにしろ、村長の手助けなしにはうまくいかない。よそとの結婚を取りまとめるのは村長なのだから、あの人に睨まれてはまともな婚姻は望めなくなってしまう。
「貴女の歌が、大好きよ」
そう言って、優しく頭をなでてくれる姉様を不幸にするような可能性は、何としても選びたくなかった。
徐々に村長の縛りが厳しくなり、いつからか村人以外に歌を聞かせることも禁止されるようになった。村長が言うには「かどわかしなどが起こっては大変だから」ということだったけれど、兄様は「どうせお前が村の外に行くのが嫌なのだろう」ということだった。この頃は村人たちの私を見る目が徐々に変わって、まるで生き神のように扱われるようになっていた。私の歌を聞いたからと言って病が楽になるわけなどないし、天候を操るなんてもってのほか。
みんなの期待だけが強まり、そんな力はないといっても聞き入れられることはない。村長はそんな村人たちの思い込みを否定することなく、私を利用しているような姿に不信感だけが募る。
モヤモヤとした思いを抱えながら、逆らうこともできずに歌うことを控えていった。村長の許しなしに人前で歌わなくなったのは、12の歳を迎えた頃のことだ。
村のみんなに隠れるようにして、山へ入っては歌をうたう。
どんなに禁止されても歌をうたうことはやめられず、山を登っては歌をうたった。これまでは旅人から歌を教えてもらうこともできたのに、人前で好きに歌えなくなった私には、それも難しい。歌をうたうのが生きがいだったし、村では知り得ない旋律には心が躍った。それなのに、『歌うたいの巫女』なんて呼ばれながら、歌を好きに学ぶこともできはしない。私が15歳になってから、村長は私を誰と結婚させようかというのが一番の関心ごとらしい。
どうせ私の意志など通らないのだからと、自らの今後にすら興味が薄かった罰が当たったのかもしれない。ある日私に、天災ともいえるような不幸が降りかかってきた。
「えっ……?」
「聞こえなかったのか?お前は今後山神様のためだけに、歌をうたうことになった」
「山神様って、村長!どういうことですかっ」
寡黙な父親が、珍しく声を荒げている。
母親はおろおろとうろたえているし、兄様はきつく拳を握りしめ歯ぎしりが聞こえてきそうだった。ここ数年、雨が続いてうまく作物が実らなくなっていた。雨が多いせいで川が氾濫し、いくつかの家が流されてもいた。村長は度々私に川を鎮めるために歌をうたわせたけれど、特殊な能力などないのにそんな願いが叶うわけもなく。とうとう人ならず者の力を、借りることにしたらしい。……私という生け贄を、差し出すことによって。
「我々の願いがようやく届いてな。お前が今後、山神様のためだけに歌い続けるのならと、実りを約束してくださったのだ」
「山神様なんて、ただの巨大な蛇ではありませんかっ!」
「そうですよっ。本当に山神様には、天候を操る力がおありなのですか?以前に村の備蓄を半分近く渡しても、結局雨は止まなかったではないですか!」
「なんと、なんと罰当たりな奴らだ!あの山神様を愚弄するなんて、万死に値するぞっ」
「そ、そんなことを言っても、まずは雨をやませてから、」
「まだ、山神様のお力を疑うというのかっ。……そうだ。きっとお前らのような信仰心の浅い奴らがいるから、山神様のお力が届かなかったのだ!おい、お前が『歌うたいの巫女』として山神様の元へ行かなければ、お前の家族もろともただでは済まさないぞっ」
唾をまき散らしながら喚く村長は、とても人とは思えぬ恐ろしい化け物に見えた。
ただでさえ暗かった気持ちが完全に闇に染まり、「嗚呼、選択肢など与えられていないのだ」と諦めるよりほかなかった。
「―――謹んで、山神様の元へ伺わせていただきます」
私の言葉を聞いて、家族のすすり泣く声が部屋に響いた。
父や兄様の泣く姿なんて初めて見たし、母に至っては崩れ落ちるように床へ伏せている。私たち家族が生きる道なんて一つしかないし、山神様の村に対する心象も少しは良くなるかもしれない。この時初めて、「嗚呼、私は意外と巫女らしい考え方ができたんだなぁ」と頭の端で考えていた。
綺麗なおべべを着て、薄っすら化粧も施される。
これも一種の死に化粧なのかしらと思いながら、来るべく時を待っていた。山神様の住処は私たちの村の近くにあるらしく、指定された山奥深くまで籠に乗せられ運ばれていた。
逃げださないようにだろう。草履をもたされることはなく、足袋なんて上等なものもあるわけがない。年若い幼なじみや狩人といった、村の健脚な男たちが息を上げるほどの獣道だ。裸足のまま逃げようとすれば、すぐに足裏が裂けて血だらけになってしまうだろう。……いや、そもそも長雨でぬかるんだ斜面はいつ土砂崩れをおこしてもおかしくはない。
第一家族を人質にされた今、『逃げる』なんて道選べるわけがないのに一層滑稽にすら思える。生まれて初めて着た晴れ着と言っていい装いだけで、充分身動き取れなくなっているのに、どれだけ私なんかに価値を見出しているのかと一人笑うことしかできない。
そんな風に冷静にしていられたのは、はじめだけだった。
山を登るにつれて、心なし山の空気も変わってきた気がする。最初は細々とかわされていた周囲の会話もなくなり、はぁはぁと男衆の荒い息が大半を占める。聞きなじんだはずの鳥や葉のざわめきも、初めて聞いたようにぞわぞわと不安を煽られる。じわじわと迫ってくる死の予感に、「嗚呼、自分は本当に死ぬのだな」と手に汗が滲んできた。
いつもは音を拾うことにかけて自信のあった耳も、今はずっと塞いでいたいくらいだった。
けれど、いつ降ろされるのか分からない不安から、感覚を遮断するのも恐ろしくてどんどん耳は研ぎ澄まされていく。いつからか川のせせらぎも聞こえなくなり、道が変わったのがわかる。時々大岩に阻まれているのだろう。無理やり籠を持ち上げられるような感覚に、「このまま山神様の元へ行く道中で死んだらどうなるのだろう」というようなことまで考えた。
この閉鎖的な籠の中がいけないのか、決意したはずの心まで揺らいでしまう。
ゆらゆら、ゆらゆら、籠の動きに合わせて心も揺れる。
そんな私を嘲笑うかのように、籠は唐突に動きを止めた。
「おい、着いたぞ」
「……そうですか」
感謝も謝罪も違う気がして、わかりましたとだけ答える。
元々情がわかないようにと、顔を出すことは禁止されている。以前は仲の良かった幼なじみも、こんな状態で話しかけられては迷惑だろう。特に恨みごとを口にすることもなく、ただただ、繰り返しきかされた注意をまた狩人のおじさんにされた。
どうやら、土壇場で逃げ出すことのないように、みんなの鈴の音が聞こえなくなってから籠を出て欲しいらしい。ちりん、ちりんと、獣よけの鈴が騒がしくなる。相当焦っているのか、音は不規則で距離をはかりづらい。招かれざる客を警戒するかのような木々のさざめきに混じり、鈴の音が遠退いていく。
しばらくして、このまま籠ごと殺されるのも嫌だと、震える手で入口を開く。
「ここが……」
私の死に場所か。
しょうがない。村長が私を特別扱いしてくれるときは、いつだって己の利になるからだった。都合が悪くなれば、容易く切って捨てられる。両親などはありがたがっていたけど、どこか私は気持ち悪く感じていた。
よそに思考をやりつつも、周囲の異変を少しも見逃さないように、意識を尖らせる。
たしか蛇はいぬ猫ほど目が良くない代わりに、温度で獲物を察知していたはずだ。山神と呼ばれる存在がその限りかは分からないが、見た目はそのまま蛇だから全くの無関係ということはないだろう。
そうとなれば、本来いるはずの籠から離れ、冷たい川から離れよう。いくら逃げられないと言っても、相手に抗議も懇願もできないままひと飲みされるのは嫌だった。
どうせ殺されるなら、少なくとも家族の命くらい救えなくては、何のために来たのか分からない。
ドキドキしながら、草むらに隠れた。
たとえ着物が汚れようとも、どうせ山神様は人間の見目など頓着しないだろう。咄嗟に飛び込んだそこは、村でかぶれ草とよばれる草の群青地点だったようで、ピッと頬に鋭い熱が走った気がした。
「っっ!」
「―――なんだ、今回の贄は白鼠なのか」
バッと振り返った先にあったのは、ギラリと輝く鋭い牙だった。
反射的に横へ転げ飛ぶと、先ほどまで私がいた場所にダラっと濁ったよだれが落ちた。その牙の大きさと、よだれの量にぞっと青ざめる。まさか、気配すら感じさせずに、こんな大きな巨体が背後に迫っていたとは。
驚く気持ちと、やっぱり私はただの生贄だったのだと納得する気持ちが、体を渦巻く。
「嗚呼、なんだ。さすが鼠だけあって、すばしっこいな。赤い髭などはやしているから、注意がそれて食い損ねてしまった」
「ひっ……」
「うむ。歌うたいの巫女なんて大層な名前で呼ばれているとは聞いていたが、噂にたがわぬ美声だな」
「あ、あぁ……」
顎がガクガクと震え、まともな声なんて発せなかった。
気づけば、自身の顔ほどありそうな巨大な瞳に見据えられて、私は腰を抜かしてしまっていたようだ。動け、動けっ。こんな奴のために、私が犠牲になるだなんて許せない。こうなってくると、本当に雨をやませる力があるのか、ますます怪しくなってくる。こんな気持ちのまま、死ぬことなんてできない。
「その美声で、せいぜい泣き叫んでくれ……儂の腹の中でな?」
「っっだれが、」
「ほら、そろそろ観念せい」
じわじわと獲物をいたぶって楽しむように、ゆっくりと巨大な口が迫りくる。
チロチロと動く舌ですら巨大で「嗚呼、こんな所で死にたくない」と強く思った時には、ギュッとその細長い舌を掴み上げていた。
「っっ!」
次の瞬間には背中へ鋭い痛みが走って、地面が目の前に迫っていた。