知らない男とキス
イベント終了のアナウンスが、会場全体に静かに流れていた。
それまで賑やかだったホールの空気が、少しずつ落ち着いていく。
展示ブースの照明も順番に明るさを落とされ、スタッフたちが片付けを始めていた。パネルを外す音や、機材を運ぶ台車の音が、あちこちで聞こえてくる。
人の流れも徐々に出口へ向かい始めていた。
そんな中で、ナカジマは少し離れた柱の陰に立っていた。
腕を組んだまま、じっと企業ブースの出口を見ている。
隣にいた友人が、呆れたようにため息をついた。
「……お前、マジで待つの?」
ナカジマは視線を動かさないまま答える。
「うん」
「出待ちじゃん」
「うん」
あまりにも迷いのない返事だったので、友人は少し黙った。
それから肩をすくめて言う。
「俺帰るわ」
ナカジマは小さく頷いた。
「先帰ってて」
友人は歩き出しかけて、もう一度振り返る。
「ほどほどにしろよ」
ナカジマは何も答えなかった。
視線はずっとブースの出口に固定されたままだった。
やがて、スタッフたちが少しずつ外に出てくる。
企業関係者。
イベントスタッフ。
コンパニオンたち。
ナカジマの目は、その人の流れの中を静かに探していた。
黒髪を。
数分後。
人の間から、見覚えのある色が見えた。
黒髪。
白い肌。
今日の制服の上に薄いコートを羽織っている。
ユキだった。
その姿を見つけた瞬間、ナカジマの心臓が一気に跳ねた。
耳の奥で鼓動が大きく鳴る。
次の瞬間、足が勝手に動いていた。
「……あ」
声をかけた瞬間、ユキが振り向く。
目が一瞬だけ丸くなった。
「フェスの……」
覚えていた。
その一言だけで、ナカジマの胸の奥が少し熱くなる。
「えっと」
ユキは少し困ったように笑う。
「パンフの人ですよね?」
ナカジマは小さく頷いた。
何か言わなければいけない。
そう思うのに、言葉が出てこない。
気づけば、二人の距離が思っていたより近かった。
ユキの睫毛が見える。
長い。
白い肌。
ほんのり赤い頬。
かすかに触れる吐息。
ナカジマの喉が小さく鳴った。
一歩、近づく。
ユキは動かない。
ただ、少しだけ目を瞬いた。
距離はもうほとんどなかった。
ナカジマは、自分の鼓動を聞いていた。
耳の奥で鳴り続ける心臓の音。
本当はここで止まるべきだと思う。
頭のどこかで、そう理解している。
でも。
目が離れない。
ユキの唇が、ほんの少しだけ開いていた。
その瞬間だった。
身体の方が先に動いた。
ユキの肩に触れる。
軽く引く。
そして。
唇が触れた。
ほんの一瞬。
短いキスだった。
時間が止まったみたいに、空気が固まる。
先に離れたのはナカジマだった。
自分でも何をしたのか理解できていないような顔をしている。
「……ごめん」
それだけを言った。
ユキはその場で動けなかった。
顔が真っ赤になっている。
唇にそっと指を当てる。
心臓がうるさい。
(なに今……)
頭の中が混乱している。
(キスされた)
人生で初めてだった。
胸の奥が妙に熱い。
さっき触れた唇の感覚が、まだ残っている気がする。
(初めてなのに……)
(強引だった……)
それなのに。
嫌じゃない。
むしろ、胸の奥がざわつく。
ナカジマは一歩下がった。
まだ少し困ったような顔をしている。
小さく息を吐いた。
「……俺、帰るわ」
ユキが顔を上げる。
ナカジマはもうユキを見ていなかった。
「今日はごめん」
それだけ言うと、踵を返す。
そのまま歩き出す。
ユキはその背中を、ただ見ていた。
ナカジマは一度も振り返らなかった。




