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駅前と個別指導教室

ライブハウスを出ると、夜の空気がひんやりしていた。

ユキと沙耶は、西九条ブランドアベニューの通りをゆっくり歩いていた。

足取りはどこか頼りない。

ライブの余韻がまだ身体に残っている。

さっきまで耳を満たしていた音は、もうない。

代わりに聞こえるのは、通りを行き交う人の声や、遠くを走る車の音だけだった。


沙耶が何かを必死で話している。

でもユキの耳には、ほとんど入ってこない。

ユキはただ、真っ暗になった空をぼんやり見上げていた。

街灯の光の向こうに、夜の雲がゆっくり流れている。


「ちょっと!ユキ!聞いてる!?」


突然の大きな声に、ユキははっとする。

離れかけていた意識が、ようやく現実に戻ってきた。

沙耶が呆れた顔をしている。


「いや、たしかにわかるよ」


腕を組みながら、沙耶が続ける。


「裏チャで全く浮いた噂もない。ファンレすら返信しない」

「――あの依緒くんがだよ?」

「ユキにだけ番号を渡す」


少し間を置いて、言い切る。


「普通に考えたら、ありえない」


そう言うと、沙耶は突然ユキの両肩をがしっと掴んだ。

ぐっと顔を近づける。


「ユキだけ特別ってことなんよ」


特別。

その言葉が、ユキの頭の中を一瞬で駆け抜けた。

でも、うまく実感が湧かない。

現実感がない。

まるで、まだライブの中にいるみたいだった。

沙耶が少しだけため息をつく。


「とりあえず、今日ユキ明らかおかしいから」

「帰って一旦頭冷やしな」


それから、少し優しい声で言う。


「また落ち着いたら連絡とってみな」


依緒くんに連絡する。

その言葉が頭に浮かぶ。

でも、それはまだどこか遠い話だった。

現実味がない。

ただ、今のユキには、何かを考える余裕すら残っていなかった。


「……わかった」


やっと、それだけを絞り出す。

二人は駅前で別れた。

ユキはそのまま地下鉄の改札をくぐり、ホームへ向かう。

電車が滑り込んできて、ドアが開く。

車内に乗り込む。

ふと、手のひらに違和感を覚えた。

さっきから、ずっと握ったままだった。

そっと手を開く。

四つ折りの小さな紙。

強く握りしめていたせいで、紙は少し湿っていた。


―――

西進ハイスクールの自習フロアは、夜になると独特の静けさに包まれる。

蛍光灯の白い光の下、机に向かった高校生たちが問題集をめくる音だけが控えめに響いていた。

個別指導ブースは、パーテーションで区切られている。

完全な個室ではないが、隣の様子が直接見えない程度には仕切られていた。

その一角で、葵は椅子に座り、生徒のノートを覗き込んでいる。


「ここ。式変形、途中飛ばしてるだろ」


シャーペンの先で一行を示す。

ノートには微分の計算式が並んでいた。

向かいの女子生徒は、制服のブラウスのボタンを二つ外している。

意図をもった着崩し方だった。


「えー?ちゃんとやったし」

「やってない。ここ」


葵は淡々と指摘する。

声に苛立ちはない。ただ事実を述べているだけだ。

女子生徒は頬杖をついたまま、葵を見上げた。


「ねーねー葵」

「佐竹講師だろ」


即答だった。

女子生徒はけらけら笑う。


「葵は葵だよ!」


椅子を少し前に寄せる。


「LIMEいつ教えてくれるの?

インスパとかディスポでもいいよ♡」


葵はノートから目を離さない。


「インスパもディスポもやってない」


さらりと言う。


「そもそも講師と生徒で個人の連絡先交換は禁止だからな」


女子生徒は大げさに肩を落とした。


「えーケチ!」


それでも葵の横顔をしばらく眺めている。

ふっと笑った。


「でも……そこも好き」


完全に落ちている顔だった。

葵は反応を示さない。

ノートを軽く叩く。


「いいから次。ここから解き直し」


女子生徒は唇を尖らせながらも、シャーペンを持ち直した。

パーテーションの向こうから、別の講師が英語を解説する声がかすかに聞こえる。

西進ハイスクールの夜は、いつもこんな調子だった。

しばらくして、女子生徒がまた机に身を乗り出す。


「じゃあさ」


葵は顔を上げた。

二人の距離が少し近い。


「私が第一志望合格したらデートしてくれる……?」


軽い口調だったが、目は真剣だった。

葵は一瞬だけ言葉を止める。

どう返すか考える。

真正面から断れば相手は確実に傷つく。

かといって曖昧すぎれば余計な期待を持たせる。

こういうやり取りは、これまで何度も経験してきた。

葵は小さく息をつく。


「そうだな」


少し間を置いた。


「第一志望合格した時に、俺に彼女いなかったら考えなくもない」


完全な否定でも、約束でもない。

そのままノートを指した。


「だからさっさと次解け」


女子生徒は数秒黙って葵を見ていたが、やがてぱっと表情を明るくした。


「わかった」


ノートに向き直る。


「約束だよ?」


葵は答えない。

女子生徒はくすっと笑う。


「他の子も葵狙ってるから私つらい……」


横目で様子をうかがう。

葵は相変わらず淡々としていた。


「ここも。途中式抜けてる」


ノートの行をなぞる。


「もう一回やり直し」


女子生徒は頬を膨らませながらも、素直に計算を始めた。

夜の西進ハイスクールは、今日も変わらない空気に包まれていた。



22時。

フロアはすでに静まり返っている。

昼間のざわめきが嘘のようだ。

最後の教室の電気を落とし、葵は先輩講師と廊下を歩く。


「葵、相変わらず生徒たちに激しいアピールされてんなぁ」


先輩が苦笑混じりに言った。


「俺なら、あんなあからさまにされたらグラついちゃうかも」


冗談めいた口調だが、本気かどうかは分からない。

葵は鍵を回しながら答える。


「ま、受験ストレスなんでしょ」


声は平坦だった。

先輩は肩をすくめる。


「いや、あれはガチのメスの目だと思うけど」

「佐竹がそう思うならいいや」


葵自身も、この件に何も議論する気はない。

何も返さない。

二人はそのままエレベーターに乗り込んだ。

扉が閉まる。

小さな箱の中に機械音だけが響く。


「そういや明日の数学、答案例作っといた?」

「だいたい終わりましたね」


そこからはいつもの業務の話だった。

積分の答案構成。

解説の順番。

どの解法を採用するか。

エレベーターの壁は鏡張りだった。


ふと、葵の視線がそこに止まる。

蛍光灯の光に照らされた自分の顔。

高い鼻筋。

鋭い目元。

アッシュグレージュの髪。

その瞬間、わずかに眉が寄る。


――似てきた。

あの男に。

十四年前、自分と母親を捨てて女と逃げた男。

父親。

思い出なんてほとんど残っていない。

せいぜい酔って帰ってきた時の、酒臭い空気くらいだ。

それでも、あの男の顔だけははっきり覚えている。

鏡の中の輪郭が、そこに重なった。

葵は静かに息を吐く。

視線を逸らす。


(……ユキに、会いたい)


理由は分からない。

ただ、そう思った。

エレベーターが静かに一階へ到着した。

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