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物販と四つ折りの紙

テンセカのライブは、もう七曲目を過ぎていた。


ライブハウスの空気は少し煙たかった。

タバコと機材の熱、それにアルコールが混ざった独特の匂いが漂っている。

壁際には簡易のドリンクカウンターがあり、店員がビールを紙コップに注いでいた。

泡が少し溢れる。


そのとき。

ギターのコードが静かに鳴った。

店員の手が止まる。

思わず顔を上げた。

ステージを見る。

依緒がマイクスタンドの前に立っていた。

黒いシャツは汗で少しだけ張りついている。

細い首筋に光が落ち、喉仏がゆっくりと上下した。

会場のざわめきが、すっと引いた。


依緒は少しだけ俯いたまま歌い始める。

声は大きくない。

むしろ抑えているくらいだ。

それなのに、不思議と箱の奥まで届く。

さっきまでビールを注いでいた店員も、紙コップを持ったまましばらく動かなかった。


歌詞は、明るくはなかった。

暗い水の底とか。

煤けた教科書の端のページとか。

うまく呼吸できないとか。

そんな言葉が、淡々と続く。

けれど最後には、ほんの少しだけ。

暗闇の奥に灯りがあるみたいな終わり方をする。

それが、テンセカの曲だった。

ユキはステージを見上げたまま、ぼんやり思う。


(変な歌)


でも、嫌じゃない。

隣の客が小声で話しているのが耳に入った。


「依緒ってさ」


女の子の声だった。


「ほんとラブソング書かないよね」


もう一人が笑う。


「恋とか興味なさそうじゃん」

「依緒に連絡先渡したのに返ってこないの、たぶんそのせいだわ」

「いやチャレンジャーすぎだろ笑」


小さく笑い声が続く。

ユキは特に気にせず、またステージを見る。

依緒はまだ歌っていた。

ライトの中で、少しだけ目を伏せながら。

その声は、どこか遠くから聞こえてくるみたいだった。



―――

ライブが終わった。


照明が落ち、最後の余韻だけが箱の中に残っている。

スピーカーの低音がまだ耳の奥に残っていて、胸の奥が微かに震えている気がした。

ステージの上には、さっきまでの熱の名残だけが漂っている。


「終わんの早すぎだよ…」


ユキの隣で、沙耶が大きく息を吐いた。

ライブの熱気に包まれていた身体が、ようやく現実に戻ってくる。


「今日の依緒、声えぐくない?」


ユキはまだ言葉が出ない。

胸の鼓動だけが、やけに早い。

ライブの余韻なのか、それとも別の何かなのか、自分でもよく分からない。

さっきまで見つめていたステージ。

センター。

依緒がマイクを握って歌っていた場所を、まだぼんやりと見ている。

あそこに立っていた姿が、まだ視界の奥に残っていた。

沙耶がユキの腕を引いた。


「ね、物販行こ」

「今日新しいバンT出てるらしいよ」


人の流れに押されるようにして、物販スペースへ向かう。

ライブハウスの狭い通路には、まだ熱気がこもっている。

汗とアルコールと機材の熱が混ざった独特の匂いが漂っていた。

小さな机にCDやロゴTシャツ、ブロマイドなどが並べられている。

スタッフが忙しそうに袋を渡している。

ファンが集まり、ざわざわと賑わっていた。

沙耶が右端にあった赤いTシャツを手に取る。


「これ可愛くない?」

「ユキも買う?」


ユキはぼんやり頷いた。

そのときだった。

周りがざわつく。


「あ」

「依緒」

「うそ!?」

「え、依緒来た」


空気が一気に変わった。

さっきまでの雑談のざわめきが、一瞬で別の熱に変わる。

スマホを構える人。

小さな悲鳴。

スタッフが困ったように笑っている。


依緒が物販スペースに来ていた。

黒いボートネックのTシャツ。

タイトな黒いパンツ。

ライブ直後のままの姿。

髪が少し濡れている。

額に張り付いた髪の隙間から、まだ汗の光が残っていた。

ファンの間を、ゆっくり歩く。


「今日ありがとう」


軽く手を上げる。

周りから歓声が上がった。

沙耶がユキの腕をぎゅっと掴む。


「やばいやばい」

「近い」


ユキは固まっていた。

心臓がうるさい。

さっきまで遠くのステージにいた人が、今は同じ空間にいる。

それだけで、身体の感覚が少しおかしくなる。

依緒が少しずつ近づいてくる。

人の間を抜ける。


そのまま――

ユキの前で止まった。

距離が近い。

思ったより背が高い。

目が合う。

ユキの顔が、一瞬で赤くなる。

言葉が出ない。

依緒が、少しだけ首を傾けた。


「……あ」


思い出したように言う。


「そういや、この前」


ユキの呼吸が止まる。

依緒が続けた。


「駅前で君、見たよ」

「男と一緒にいたけど」


少しだけ間。


「あれ、彼氏?」


その瞬間。

ユキの顔から血の気が引いた。

頭の中が、一気に冷える。


(見られた)

(依緒くんに)

(見られた……)


夜の駅。

ナカジマ。

キス。

拒否。

全部が一瞬で蘇る。


横で沙耶がぽかんとしている。

ユキは言葉が出ない。

ただ、依緒を見ている。

依緒は普通の顔だった。

ただ、ほんの少しだけ。

興味があるような目をしている。


「……わかりません」


ユキの声は小さかった。

周りのざわめきの中で、かろうじて届くくらい。

依緒は少しだけ瞬きをした。

それから、ほんのわずかに頷く。


「そっか」


それだけだった。

責める様子もない。

驚く様子もない。

ただ、納得したような声。

そのとき。

依緒がふっと手を差し出した。

まるでファンと握手するみたいに。

ユキは一瞬戸惑う。

でも反射的に手を出した。

軽く握られる。


その瞬間。

依緒の指が、ユキの手のひらに何かを押し込んだ。

ほんの一瞬。

すぐに手が離れる。

周りから歓声が上がる。


「依緒!」

「写真いいですか!」

「今日やばかったです!」


依緒は軽く手を上げるだけで、そのまま人混みを抜けていく。

奥の扉。

控え室。

ドアが閉まった。

ユキはまだ動かない。

手のひらを見ている。

さっき握られた感触だけが、まだ皮膚に残っている気がした。

横で沙耶が小さく言った。


「どしたん?」


ユキはゆっくり手を開く。

そこに、小さく折られた紙があった。

一瞬、頭が止まる。

紙を開く。

短く書かれた数字。

電話番号。

沙耶がユキの肩を掴む。


「ちょ、まじ?!」


さらに声を落として、


「それ、やばいって」


ユキはまだ紙を見ている。

頭が追いつかない。


(なんで?)

(なんで私に)

(依緒くんが)


心臓の音だけが、やたらとうるさかった。

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