敵前逃亡と空気が読めすぎる男
昼休みのキャンパス。
建物の間を抜ける風が、少しだけ冷たい。
学生たちがあちこちに集まり、昼のざわめきが広がっている。
ユキは講義棟から出てきたところで、ふと足を止めた。
少し離れたベンチの近く。
見覚えのある二人の姿が目に入る。
葵と、寿希也。
立ったまま何か話している。
ユキの胸が、わずかにざわついた。
この前の帰り道。
葵が言った言葉。
――「俺だって、ずっと好きだったんだよ」
そのあと、少し笑って。
――「……嘘だよ」
あの顔。
本当だったのか、冗談だったのか。
結局、よく分からないままだった。
ユキは少し迷ってから、二人の方へ歩き出す。
そのときだった。
「あ、香坂じゃん」
先に気づいたのは寿希也だった。
軽い声でそう言う。
その言葉に、葵が振り向く。
そして。
ユキを見た瞬間。
葵の体が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬だけ、表情が固まる。
ユキは寿希也に軽く頭を下げた。
「こんにちは」
それから視線を葵へ向ける。
少しだけ近づく。
その瞬間。
葵が、一歩下がった。
はっきり分かる動きだった。
ユキの足が止まる。
「葵、ちょっといい……?」
小さく呼び止める。
葵は答えない。
視線がわずかに揺れる。
胸の奥がざわつく。
もし、あの話のことなら。
もし、ユキが今、何か答えたら。
――怖い。
沈黙が数秒落ちる。
寿希也が二人を見比べている。
葵は視線を逸らしたまま、短く言った。
「……いや」
それから小さく首を振る。
「無理」
その一言だけ残して。
葵は踵を返した。
そのまま歩き出す。
迷いのない速さだった。
ユキはその場に立ったまま動けない。
葵の背中が、人の流れに紛れていく。
呼び止める言葉が出てこなかった。
少しの沈黙。
寿希也がぽつりと言う。
「……俺、タイミング悪かった?」
ユキは首を振る。
「ううん」
ちくりと痛んだ胸を誤魔化すように、手を当てる。
葵の「無理」という言葉よりも。
一歩下がった、あの距離の方が、妙に引っかかっていた。
寿希也が少しだけ首を傾げる。
「……なんかあったん?」
ユキは困ったように笑った。
「うーん……」
言葉を探す。
でも、うまく出てこない。
寿希也は少しだけユキを見てから、ぽりぽりと頭を掻いた。
「あー、まぁ、うん。あれだ」
少しだけ間を置く。
それから、わざと軽い調子で言った。
「あいつ多分、腹の調子悪いんだろ」
ユキが瞬きをする。
「なんか朝からそんな事言ってた気がしなくもない」
寿希也は肩をすくめた。
ユキは少しだけ間を置いてから、小さく頷く。
「そっか……」
胸の奥の引っかかりは、消えないままだった。
でも、それ以上は聞かなかった。
―――
建物の角を曲がったところで、葵は足を止めた。
昼休みのざわめきが、少し遠くなる。
さっきの光景が、頭に浮かぶ。
ユキの顔。
『葵、ちょっといい……?』
あの声。
葵は目を閉じた。
数秒。
それから小さく息を吐く。
「……ダメだ」
ぽつりと呟く。
そのまま壁に背中を預けた。
心臓が、まだうるさい。
さっきの距離。
あの目。
もし、あのまま話していたら。
もし、『ごめん』なんて言われたら。
喉の奥が詰まる。
葵は髪をぐしゃっと掴んだ。
「……耐えられんわ」
小さく吐き出す。
そのまま、しゃがみ込む。
膝に肘をつき、顔を伏せた。
自分から言ったくせに。
『俺だって、ずっと好きだったんだよ』
そう言ったくせに。
結局。
自分から逃げた。
「……俺、ダサすぎだろ」
かすれた声で呟く。
昼休みのざわめきが、遠くで続いている。
その中に、ユキがいる気がして。
葵はしばらく、顔を上げられなかった。




