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ぬいぐるみと遠くなった距離

その日の夜だった。


ユキのスマホが小さく震えた。

画面を見ると、ナカジマからLIMEの通知が届いている。

メッセージを開くと、まず一枚の写真が表示された。

ゲームセンターのクレーンゲーム。景品口の奥に、小さなぬいぐるみが転がっている。

ちいかまのキジトラだった。

その下に続くメッセージを読んで、ユキは思わず笑ってしまう。


『今日、ユキが好きだって言ってた、ちいかまのぬいぐるみゲーセンで取れた』


(ほんとに取ってくれたんだ)


画面を見つめながら、少しだけ肩の力が抜ける。

すると、すぐに次のメッセージが届いた。


『今から渡すだけ渡していい?』


ユキの指が、返信画面の上で止まった。

ほんのわずかな時間、考える。

そのとき頭に浮かんだのは、葵の顔だった。

夕方の帰り道。

告白したときの、あの泣きそうな顔。

胸の奥がまたざわつく。

まだ気持ちの整理はできていない。


それでも、せっかく取ってくれたのだ。

渡すだけなら——。

ユキは短く返信した。


『いいよ』


数分後、すぐに返事が来る。


『駅つく』


それだけだった。

ナカジマらしい、簡潔なメッセージ。

ユキはコートを羽織り、家を出た。


夜の空気は少し冷たい。

最寄り駅に着くころには、人の数はかなり減っていた。

改札前のベンチに、ナカジマが座っている。

スマホを見ていたが、ユキに気づくと顔を上げ、そのまま立ち上がった。


「来た」

「うん」


ナカジマは手に持っていた袋を差し出す。


「これ」


ユキは袋の中を覗き込んだ。

ちいかまのキジトラ。

想像していたよりも少し大きい。

ふわふわとした毛並みのぬいぐるみだった。


「かわいい」


思わず笑みがこぼれる。

その表情を見て、ナカジマもわずかに笑った。


「取るの結構かかった」

「ありがとう」


ユキはぬいぐるみを抱きかかえる。

腕の中でふわっと沈む柔らかな感触が、思いのほか心地よかった。


しばらく、二人の間に沈黙が落ちる。

駅前を通り過ぎる電車の音だけが、夜の空気に響いていた。


その静けさの中で、ナカジマが一歩近づく。

距離が詰まった瞬間、ユキの肩がわずかに強張った。

ナカジマはそれに気づいていたが、特に何も言わない。

そのまま、ゆっくりと手を伸ばす。

指先がユキの顎に触れ、軽く持ち上げられた。

自然と視線が上を向く。

思ったよりも近い距離に、ナカジマの顔があった。

呼吸が触れそうなほどの近さ。

ナカジマの吐息が、ユキの頬にかすかに触れる。


胸の奥で心臓が強く跳ねた。

ユキは腕の中のぬいぐるみを、思わず強く抱きしめる。

ナカジマの視線が落ちた。

ユキの唇へ。

そのまま顔が近づく。

あと少しで触れる距離——。


その瞬間、不意に別の声が頭の奥で蘇った。

――俺だって。

葵の声だった。

――ずっと好きだったんだよ。

夕方の帰り道。

あの顔。

あの震えた声。

そして最後に浮かんだ言葉。

――全部、嘘。


胸の奥が大きく揺れる。

思考がうまく追いつかない。

目の前にはナカジマがいるのに、

頭の中には葵の声が残っていた。

ユキの指が、ぬいぐるみをぎゅっと掴む。

そのまま、小さく口を開いた。


「……待って」


ナカジマの動きが止まる。

距離はまだ近いままだった。


「どうした」


低い声。

ユキは視線を落とす。


「ちょっと……」


言葉を探すように、息を整える。


「やっぱり」


小さく息を吸い込んでから続けた。


「付き合ってないし」


視線はまだ下を向いたまま。


「そういうのは……」


言葉の最後は、ほとんど消え入りそうだった。

沈黙が落ちる。

ナカジマはしばらくユキを見ていた。

その視線が、ほんの一瞬だけ細くなる。

やがて小さく息を吐いた。


「あー……」


短い間。


「そう」


顎に触れていた指が、ゆっくり離れる。

触れていた場所の温度が、ふっと消えた。

ナカジマは一歩下がる。

さっきまで近かった距離が、急に遠くなった気がした。

ユキは慌てて言う。


「ごめん、嫌とかじゃなくて」


ナカジマは首を振った。


「いい」


声は平坦だった。

少しだけ間を置いてから、ポケットに手を入れる。

ユキは、思わずナカジマの袖を見た。

何か言おうとして、言葉が出ない。

ナカジマはその視線に気づいたのかどうか分からないまま、淡々と口を開いた。


「今日は帰る」


ユキが顔を上げる。


「え」


ナカジマはもうユキを見ていなかった。


「またな」


短く言うと、そのまま改札へ向かって歩き出す。

ユキはその場で立ち尽くす。


「ナカジマ」


思わず呼び止める。

けれど、ナカジマは振り返らなかった。

改札を通り、そのまま階段を上がっていく。

背中はすぐに人の流れの中へ紛れ、見えなくなった。

駅前にはユキ一人だけが残される。

腕の中のぬいぐるみが、やけに柔らかかった。

胸の奥がざわつく。


(……怒った?)


でも、どこか違う気がした。

怒っているというより、

ただ少しだけ——

遠くなった。

そんな感覚だった。

ユキはぬいぐるみを抱えたまま、しばらく動けずにいた。

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