推しとライブハウス
金曜の夜だった。
ライブハウスの前には、すでに人の列ができている。
ネオンが滲む細い路地には、週末の湿った空気と人の熱気が混ざっていた。ドアの向こうからは、まだリハーサルなのか低いベース音がかすかに漏れてきている。
ユキは列の中で、いつものように小さく手をこすり合わせていた。
「なに?寒い?」
隣で沙耶が笑う。
ユキは首を振った。
「違う」
目が少し輝いている。
「やっとテンセカ補給日だから」
沙耶が肩をすくめた。
「知ってるよ。ユキ、今月もう三回目じゃん」
「だって」
ユキは少し頬を赤くする。
「依緒くん神なんだもん」
沙耶は吹き出した。
「出た、神」
ユキは真顔で言う。
「うん、全宇宙の神」
沙耶は呆れた顔になる。
「顔も声も性格も神」
「もう宗教じゃん」
ユキは小さく拳を握った。
「で、今日は」
少し声を落とす。
「前から二列目」
沙耶が目を丸くする。
「またセンター?」
「うん」
「ほんと依緒しか眼中ないよね、ユキ」
ユキは少し照れたように笑った。
「……うん」
そのとき、ライブハウスのドアが開く。
スタッフの声が響いた。
「入場どうぞー!」
列がゆっくりと動き出す。
ユキの鼓動が、少しだけ速くなる。
ドアをくぐると、空気が変わった。
暗いフロア。
ステージのライト。
まだ誰もいないマイクスタンド。
機材の匂いと、少し湿った空気。
低いベースの振動が、床からじんわり伝わってくる。
ユキの目は、ステージの中央を見ていた。
そして。
フロアの照明が落ちた。
ざわめきが一瞬で変わる。
観客の空気が、ぴんと張り詰める。
前方の人波が少し押し合う。
ユキは柵のすぐ後ろ。
ほぼセンターだった。
胸の前で手をぎゅっと握る。
「来るよ」
沙耶が小声で言う。
次の瞬間。
ドラムが鳴った。
重いキックがフロアを震わせる。
歓声が一気に爆発した。
ギターが入る。
ナリの音だ。
鋭いリフが空気を切り裂く。
その上に、ベースが重なる。
タカトの低音が身体の奥まで響いてくる。
そして。
ステージのライトが一斉に点灯する。
中央のマイク。
そこに人影が立っていた。
亜麻色の髪。
細い体。
長い指。
依緒だった。
フロアが揺れる。
「依緒ーー!!」
「ギャー!依緒ーッッ!!」
叫び声、歓声が会場をこだまする。
ユキの心臓が跳ね上がる。
何も言えなかった。
依緒はマイクを握る。
少し俯く。
前髪が影を落とす。
ドラムが止まる。
一瞬の静寂。
その次の瞬間。
ゆっくりと依緒の口が開かれる。
低くて透明な声だった。
歌い出した瞬間、空気が変わる。
フロア全体が、その声に飲み込まれる。
ユキは息をするのを忘れていた。
(やばい)
胸の奥が震える。
依緒は歌いながら客席を見る。
ゆっくり。
視線が流れていく。
左から右へ。
そして、ほんの一瞬。
センター。
ユキの方へ。
目が合った。
ほんの一瞬。
でも確かに。
ユキの呼吸が止まる。
心臓が跳ね上がる。
体が固まる。
依緒の視線はもう次へ流れていた。
何事もなかったみたいに。
でも。
ユキは動けない。
(今)
胸の奥が熱くなる。
(今見たよね?)
横で沙耶が叫ぶ。
「ユキ!!今見た?!」
ユキは答えられなかった。
まだ呼吸が戻らない。
ステージの光の中で。
依緒は何事もなかったように、静かに歌っていた。




