連絡先と飲めないコーヒー
食事が半分くらい終わった頃だった。
葵がグラスを手に取り、水を一口飲む。
窓の外から差し込む昼の光がテーブルの上に落ち、皿の上の料理を柔らかく照らしていた。
ユキはまだどこか落ち着かないまま、フォークを動かしている。
食事の味が分からないわけではないが、意識の半分はずっと別のところにあった。
カウンターの方から、足音が近づいてくる。
「ちょっといい?」
その声に、ユキは思わず顔を上げた。
ナカジマだった。
エプロン姿のまま、テーブルの横に立っている。
ユキの心臓がまた大きく跳ねた。
葵は何も言わない。
ただ椅子に座ったまま、静かにその様子を見ている。
ナカジマはほんの一瞬だけユキを見ると、落ち着いた声で言った。
「仕事終わるの、もう少しあとなんだけど」
ユキは一瞬固まる。
ナカジマはそのまま続けた。
「その前に、一つ聞いていい?」
葵の視線がわずかに鋭くなる。
ユキは戸惑いながらも、小さく頷いた。
ナカジマは迷わなかった。
「連絡先」
ほんの一瞬の間。
それから静かに言う。
「教えてくれる?」
ユキの顔が一気に赤くなる。
「え」
思わず声が漏れる。
葵は椅子の背もたれに体を預け、腕を組んだ。
何も言わない。ただナカジマをじっと見ている。
ナカジマは視線を逸らさなかった。
「この前」
ほんの少しだけ笑う。
「ちゃんと話せてないから」
静かな空気がテーブルの上に落ちた。
ユキの心臓がうるさい。
「あの……」
声が小さく漏れる。
ユキは完全に固まっていた。
葵は腕を組んだまま、黙って様子を見ている。
ユキは慌ててバッグの中を探った。
「えっと……」
スマホを取り出そうとする。
けれど指先が少し震えている。
その瞬間だった。
ナカジマの手が伸びた。
ユキのスマホを、軽く取る。
「え」
ユキが驚いて声を上げる。
だがナカジマはすでに画面を見ていた。
「ロックは?」
ユキは反射的に答える。
「顔……」
ナカジマがスマホをユキの方へ向ける。
画面にユキの顔が映る。
ロックが外れた。
葵の眉が、ほんのわずかに動く。
ナカジマは慣れた手つきで画面を操作する。
LIMEを開く。
QRコード画面を表示する。
自分のスマホを取り出す。
読み取る。
数秒。
登録完了。
ナカジマは何事もなかったような顔で、スマホをユキに返した。
「ん、ありがと」
あまりにも自然な声だった。
ユキはスマホを受け取る。
画面を見る。
本当に登録されている。
胸の奥がまたざわついた。
葵が静かに言う。
「……へぇ」
短い声だった。
ナカジマは葵を見る。
ほんの一瞬だけ。
それからすぐ、視線を外した。
「ごゆっくりどうぞ」
店員の顔に戻る。
そのままカウンターへ歩いて戻っていった。
テーブルに沈黙が落ちる。
ユキはまだスマホを見ていた。
胸の奥が落ち着かない。
葵がグラスを持ち上げ、ゆっくり水を飲む。
それから、カウンターの方を見たまま言った。
「……ユキ」
ユキが顔を上げる。
葵は視線をナカジマの方へ向けたまま、静かに言った。
「あいつ強引だな」
ユキは少しだけ困った顔をする。
「……うん」
自分でもどう反応すればいいのか分からない。
そのときだった。
カウンターの方から、また足音が近づいてくる。
顔を上げる。
ナカジマだった。
今度はトレーを持っている。
「ランチセットのドリンクです」
テーブルの上にカップを置く。
白いカップから、湯気がゆっくり上がっている。
「ホット2つです」
淡々とした声だった。
まるでさっきのことなど何もなかったみたいに。
ユキは少しだけ戸惑いながらカップを見る。
黒い液体。
コーヒー。
葵は黙ってその様子を見ていた。
ナカジマはそれ以上何も言わず、トレーを持ったままカウンターへ戻っていく。
テーブルの上には、また静かな空気が落ちた。
ユキはそっとカップを手に取る。
湯気が頬に触れる。
少しだけ首を傾げる。
そして。
「あ」
小さく声を漏らした。
葵が見る。
「どうした」
ユキはカップを見たまま言った。
「私……」
少し間。
「コーヒー飲めなかった……」
沈黙。
葵は一瞬だけ止まる。
それから、思わず吹き出した。
「は?」
ユキは少し困った顔をする。
「苦いのダメで……」
葵は肩を震わせながら笑う。
「お前」
呆れた声で言った。
「今それ?」
ユキは小さく頬を膨らませた。
カウンターの奥では、ナカジマがコーヒーを淹れていた。
その視線が、ほんの一瞬だけテーブルに向く。
ユキはまだカップを持ったまま、困った顔をしていた。




