カフェとエプロンの男
葵は何も言わなかった。
でも、ほんの少しだけユキを見ていた。
ユキはそれに気づかないふりをして前を向く。
胸の奥が、まだ落ち着かない。
しばらく二人で並んで歩いたあと、葵がふと口を開いた。
「ユキ」
「ん?」
「昼どうする?」
ユキは少し考える。
学食でもいいけど、今日はなんとなく人の多い場所に行きたくない気分だった。昨夜のことが頭から離れないせいか、妙に落ち着かない。
「まだ決めてない」
そう答えると、葵は軽く肩をすくめた。
「じゃあさ」
少し前を歩きながら言う。
「駅の方に新しいカフェできたの知ってる?」
ユキは首を傾げた。
「カフェ?」
「うん」
葵はスマホを取り出して、画面を見せてくる。
白い壁と大きな窓の、いかにも最近できたばかりの店だった。木のテーブルと観葉植物が並んでいて、SNSに載っていそうな雰囲気の店内写真が表示されている。
「ここ。公立大とちょうど真ん中くらい」
「あー」
ユキは思い出す。
確かに最近できたと聞いたことがある。
「行ってみる?」
葵が軽く言う。
ユキは少しだけ考えたあと、頷いた。
「うん」
「行こ」
二人はキャンパスを出て、駅の方へ歩き出した。
春の風が少し冷たい。
歩いていると、だんだん日差しが暖かくなってくる。
十五分ほど歩くと、その店はすぐに見つかった。
大きなガラス張りの外観。
白い壁。
入り口の横には小さな黒板が置かれていて、手書きでランチメニューが書かれている。
確かに、最近できたばかりの店らしい。
「ここ」
葵がドアを押す。
ベルの音が小さく鳴った。
店内は思ったより広い。
木のテーブルと、奥にはカウンター席。窓際には光が入っていて、落ち着いた雰囲気だった。
「いらっしゃいませ」
奥から声がした。
ユキの体が、一瞬止まる。
聞いたことのある声だった。
視線が、ゆっくりカウンターへ向く。
そこにいた。
エプロン姿の男。
黒髪。
少し眠そうな目。
整った顔。
ナカジマだった。
ユキの心臓が、一瞬で跳ね上がる。
(……え)
思考が止まる。
ナカジマはカウンターの内側に立っていた。
メモ帳を手にしている。
一瞬だけ、ユキを見る。
ほんの一瞬。
でも確かに目が合った。
ユキの呼吸が止まる。
頭の奥に、昨日の光景がよみがえる。
暗い通路。
近づいてきた影。
唇。
顔が一気に熱くなる。
「二名様ですか?」
ナカジマは普通の声で言った。
まるで何もなかったみたいに。
ユキは一瞬、返事ができなかった。
葵が横から答える。
「はい」
ナカジマは軽く頷いた。
「こちらどうぞ」
窓際の席を指す。
二人が席に座る。
ユキの心臓はまだ速い。
視線を上げるのが怖い。
ナカジマはメニューを持ってくる。
テーブルの上に置く。
距離が近い。
ユキの肩が少しだけ強張る。
ナカジマは淡々と説明する。
「本日のランチは三種類あります」
声は落ち着いている。
昨日と同じ声。
ユキはメニューを見ているふりをしていた。
でも、文字が頭に入ってこない。
葵はそれを横目で見ていた。
そしてゆっくり視線を上げる。
カウンターの方を見る。
エプロン姿の男。
黒髪。何考えてるのかわからない目。
確かに女にモテそうなタイプだ。
清潔感のある顔。無駄のない体つき。
雰囲気もどこか静かで、大人びている。
だが――。
(……)
葵は内心で小さく結論を出す。
(俺のがイケメンだろ)
それより。
葵はもう一度ユキを見る。
ユキはメニューを開いている。
けれどページがまったく進んでいない。
指先が少し震えている。
頬もまだ赤い。
葵の目が細くなる。
(……なんだ)
もう一度カウンターを見る。
ナカジマは普通に仕事をしている。
注文を受け、コーヒーを淹れている。
どこから見てもただの店員だ。
だが。
さっき一瞬だけ。
ユキを見た。
その視線を葵は見逃していなかった。
(ああ)
葵は内心で小さく納得する。
(こいつか)
そのとき。
「ご注文お決まりですか」
声がした。
ユキの肩がびくっと動く。
顔を上げる。
そこにはナカジマが立っていた。
エプロン姿のまま、メモ帳を手にしている。
思っていたより距離が近い。
その瞬間、ユキの頭の中にまた昨日の光景がよみがえった。
暗い通路。
近づいてきた影。
そして――唇。
ユキの顔がまた熱くなる。
「……あ」
声が少し裏返った。
ナカジマは一瞬だけユキを見る。
ほんの一瞬。
だが確かに目が合った。
次の瞬間、視線を外す。
表情はすぐに店員のものに戻っていた。
「ドリンク付きのランチセットありますけど」
落ち着いた声だった。
まるで何もなかったみたいに。
ユキは慌ててメニューを見る。
けれど文字が頭に入ってこない。
「えっと……」
そのとき、葵が横から口を挟んだ。
「俺これ」
メニューを指差す。
「あとコーヒー」
ナカジマが頷く。
「かしこまりました」
メモを取る。
それから視線がユキに向く。
今度はほんの少しだけ長い。
ユキの心臓が跳ねる。
「……お決まりですか」
ユキは慌てて言った。
「お、おなじので……」
ナカジマは淡々と書き込む。
「ランチセット二つ」
「はい」
それだけ言って、ナカジマはカウンターへ戻っていった。
葵はその様子を黙って見ていた。
ユキはまだメニューを見ている。
ページは、さっきから一度もめくられていない。
沈黙が数秒流れる。
やがて葵が静かに言った。
「……ユキ」
「え」
ユキが顔を上げる。
葵は少しだけ目を細めていた。
「さっきの店員」
少し間を置く。
「知り合い?」
ユキの心臓が大きく跳ねた。
「え、いや」
慌てて首を振る。
「ちがうよ」
葵は黙る。
カウンターの方を見る。
ナカジマがコーヒーを淹れている。
それからもう一度ユキを見る。
小さく息を吐いた。
「……ふーん」
短い声だった。
けれど。
その声には、納得していない響きが残っていた。




