表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/14

⑦寂しい沼地

 

「ここ……」

 

 どれくらい時間が経ったのか、師匠の魔力から離れすぎないように歩いていたプシュケは、何かを察知して足を止めた。

 まだ人間の村で暮らしていた頃、境界というものには何かしらの目印が存在していた。家同士であれば柵、人が集まれば山や川そのものが隔たりを生み出している。あの向こう側は別の集落、という認識を誰もが持っていた。

 そして、今ここに目に見える目印は何もないけれど、魔女や魔法使いの仲間に察知できる何かが確かに敷かれている。プシュケが磨き始めた魔女としての本能が、感じ取っているらしかった。この向こうへふらりと出歩くのは、心許ない行動のように感じられた。


 プシュケはその境界に沿って歩き始めた。移動しながら師匠が作った境界線の魔法の痕跡をじっと観察すると、それがいかにも彼女らしい丁寧な仕事であるのが段々わかってきた。外界との行き来を制限し、内側では少ない負担で高度な魔法を行使できる。野生動物で言えば縄張りのようなものだと、彼女は以前説明してくれた。

 この境界線の魔法を練り上げる作業は人によって感覚が異なり、彼女にとっては繕い物によく似ているらしい。上手に作り上げれば、縫い目の長さと向きがきっちりと揃っているようなものだ。

 練習としてプシュケもお裁縫を最近始めたばかりである。何もしていないのに糸が絡まったり玉ができてしまったり、縫っても不揃いでガタガタしてしまうのによく似ている。


『プシュケ、焦らなくていいの。それから、手間を惜しむのもよくない。お裁縫は回数を重ねて段々と早く、綺麗に正確にできるようになるのだからね』


 師匠は決して不出来な弟子を責めたりはしない。いつかできるようになるのだろうか、とぼんやりと考え込みながら再び歩き出した。

 しばらくした頃、雨上がりの空気とは違うどんよりとした空気が漂う場所へ出た。庵の周辺でいつも遊び回っているけれど、ここに来たのは初めてだった。どうやらこの付近だけ、師匠が敷いた魔法の気配が薄いと気が付いた。


「ねえ、ルクレティア、ここって……」


 プシュケは思わず、返事のない使い魔に話しかけた。確かに師匠の境界線に沿って歩いて来たはずだ。それが周囲を見渡すと、ここだけ様子が違う。整然とした美しささえ感じられた魔力の痕跡が、ここだけは何故かまばらで雑然として、ほころびが生じていた。


 目で見た限りでは森の辺、その上湿地帯であるようだ。引き返して師匠に報告した方がいいだろうと踵を返した時、後ろから何か聞こえた。おおい、と呼ばれたような気がして目をよく凝らしてみると、石の上に一匹のカエルが顔を出しているのが見える。


「おお、なんという僥倖か。儂は昔、悪い魔女に意地悪されて、こんなに暗くて寂しい場所に押し込まれてしまったのじゃ」

「そうなの? 大丈夫?」


 相手は人間の言葉をしゃべった。とにかく普通ではないらしい。この間は羊人間、馬人間ときて今日はカエルの登場である。蛙、と呼ばれている魔女や魔法使いがいるのだろうか。


「足を止めてくれるとは、優しいお嬢ちゃんが通りかかって、わしはとても運が良い」


 プシュケが羽織っている上着にあしらわれているフリルやリボンやレースの良さが、カエルにもわかるのだろうか。老人の声は内緒話のように低く抑えたものになった。ずっと話し相手が欲しくて、とカエルは老人の声でおいおい泣き出してしまっている。通り過ぎにくい空気になってしまった。

 ここに比べれば、師匠の庵がある場所はなんと明るく、光に満ちた場所であるかわかる。手入れの行き届き、木漏れ日と生命力溢れる植物達。少しずつ大きくなる様々な種類の野菜や果物達は、途方もない力と魅力にあふれていた。おなじ庵の中、師匠の魔力が行き届く空間にも拘わらず、ここだけそれが全く感じられない。


「お嬢ちゃん、とにかく気を付けた方がいい」


 カエルは身体に対して大きな目で瞬きした。


「怖ろしい魔女が近くに住んでいる。その昔、天の神々の加護を賜った騎士達が、総出で討伐できなかった。火と銀の弓矢が雨のように降り注いで、あれでも殺しきれなかったのだ……。そうして報復として、海の向こうにおわす皇帝まで手に掛けようとした、……ああ」


 物騒な単語が次々と飛び出して、見習いは眉をしかめた。怖ろしい魔女とやらをこれまで師匠から聞いた事はなく、絵本にも載っていない。ただプシュケがまだ人間の村にいた頃、彼女の怖ろしい逸話は毎晩のように語り継がれていた。


「でも、それは……」

「ところで優しいお嬢ちゃん、もう一歩だけこちらへ来てはくれまいか……痛いっ!」


 プシュケの記憶とカエルの話を遮って突然目の前に出て来たのは、何か鳥の目を思わせるような、褐色の大きな羽に黒い眼玉模様の生き物である。ぴしゃりとカエルの顔に向かってぶつかって後退させた。それはプシュケの胸ポケットから飛び出したのだ。どうやらルクレティアであるようだが、それにしても美しさとはかけ離れた出で立ちである。


 たたらを踏んだカエルに向かって、大きな蝶が追撃を掛けようとしている。飛び方もいつもの美しさとは程遠い。思わず身を引いてしまうような姿で、荒々しくまたぶつかった。しかしカエルと蝶々では、いくらルクレティアが魔女の使い魔とはいえ分が悪い。カエルが態勢を立て直している間に、プシュケは止めに入った。

 

「ルクレティア、だめよ!」


 手のひらで包むようにして、プシュケはカエルの眼前から使い魔を掠め取った。手の中で蝶が暴れている。わさわさと羽が当たって、くすぐったいようなぞわぞわするような感覚を味わいながら姿勢を崩してしまった。そうしてカエルの言う通り、一歩奥へと踏み出してしまった。冷たい泥がプシュケの靴ごと足首をしっかりと掴んで、身動きできなくなった。


「ぐふふ、よく来たねえ、お嬢ちゃ……」


 にたにた笑うカエルは、そこで言葉を止めた。奇妙な事に、その場で空中にふわりと浮かんだ。見慣れた角度は、あの人がいつも作業する時と同じ高さだった。カエルは浮かんだまま、いきなり震え、暴れ始めた。呆然とするプシュケの前で何かを振り払うように両手を振り回し、頭を守るように丸くなろうとしている。かと思えば空を見上げて、見えない何かを睨みつけながら大声で叫ぶ。


「やめろ! ここまで育てるのに何年もかかったんだ、この性悪、……厄災の魔女め!」


 悪態はほどなくして中断された。バチン、という何かを切断するように怖ろしい音が沼地に響き渡った。ぽとりと地面に落ちたカエル目に見える変化はなかったが、けれど先ほどまでとは違い、何の魔力も感じ取れなくなっていた。きょろきょろと周囲を見回し、やがてこちらへ背を向け沼の中へすいすいと帰って行った。


 ルクレティアを庇ったまま呆然と沼地を見やるプシュケの腕を誰かがひょいと、一歩引き戻した。


「一体何をやっているのかな、プシュケちゃん? 全く、虫以外の生き物に手を出すのは骨が折れるというのに、この弟子は、全く。沼に嵌るなんて、もう。危うくカエルの餌じゃないか」

「あ、……師匠」


 相手はいつもの師匠である。工房で仕事に励んでいたはずが、いつの間にか弟子を迎えに来てくれたらしい。冷ややかな眼差しが、カエルの去って行ったのとは別の方向の、沼地の奥を見つめていた。

 カエルが、何か妙な話を口走っていたような気がする。けれどいつもの師匠を前にすると、探して助けに駆けつけてくれたという彼女の優しさに、プシュケはほっと全身の緊張を解いた。もう安全なのは間違いない。


「師匠、ここだけ境界線が変で、それで見ていたの」

「……それがわかるなんて、プシュケちゃんはきっと良い魔女になれるだろうね」


 師匠は見習いの話を聞いて、満足そうな声で褒めてくれた。それから手をそっと開かせ、中のルクレティアを解放した。


「奴の使い魔を奪って、自由にしてやったのだ。これでまた何年も、沼地の奥から出られなくなった。……街道に出て来ていた頃は人や獣を誘惑して引き摺り込もうとする、面倒な小悪党だったのだが」


 顔を出したルクレティアがふわりと飛び立って、プシュケの手首に止まった。大きな茶色の姿がいつもの美しさとは違い、やや身構えてしまうような目を引く模様である。 


「どうして、ルクレティアは庇ってくれたのかしら」


 プシュケは咄嗟に前に踏み出してしまったけれど、逆に怖くなって使い魔を残して一人で逃げ出していたかもしれない。師匠を呼んでくるためだ、などと言い訳しながら。


「ねえ、どうして? ルクレティア」

「……『自分よりおちびさんを守るのは当たり前』、だとさ。随分と性格の良い使い魔に選ばれたじゃないか、プシュケ」


 手に止まった大きな蝶はじっとしている。師匠は優しい声で、意思を伝えてくれた。プシュケは返答の意味を考え込んだ。


「ありがとう、ルクレティア。師匠だけでなく、あなたも私を助けようとしてくれたのね。まだ知り合ったばかりだけど、優しくて美しいあなたが大好きよ」


 プシュケは少ない語彙を必死にかき集めて、蝶々を褒め称えた。満更でもない様子で、彼女は主人の周囲を一回りふわふわと飛び、袖口の辺りに止まる事にしたようだ。


「……二人とも、ちょっとここへ来て、今からする事を見ていなさい」

 

 ほっとしていると、師匠の声がした。プシュケは言われた通りに抱き着くようにして身を寄せた。師匠は腰に括り付けていたランタンを目の高さに掲げて、ふっと息を吐いた。彼女の美しい形の瞳に、炎が映るのが見えた。


 その瞬間に、沼地の四方を炎が這った。驚いて悲鳴を上げる間もなく、しかしこれが怖ろしい勢いと容赦のなさを伴うのをはっきりと感じた。これが直撃すれば命はないという直感に、プシュケは震えあがった。

 山火事になるのではとひやりとしたものの、周囲の草木は一度震えただけだった。後には空気のよどみが薄まり、乾いた風が吹いた。


「本来は火の魔法を扱えない私で、この規模だもの。ランタンを作った奴は最高の魔法使いに違いないよ」


 淡々とした師匠とは正反対に、沼地の奥で怒りと悲鳴が入り混じった咆哮が聞こえた。先ほどのカエルの声によく似ている。苦しそうな声が遠く小さくなって、師匠は満足そうに頷いて、プシュケの手を引いた。


「ど、どうして……?」

「……もしプシュケが、出口のない場所へ閉じ込められたとしたら、何から始める?」

「……手探りで、何か外へ出られる手がかりがないか、探すと思う」


 カエルの説明をして欲しかったのに、師匠は大して関係のない話題を持ち出したように思えた。理由がわからない質問に、プシュケはしばらく考え込んでから返事した。そうだね、と師匠は静かに頷きながら、ゆっくりと歩き出す。


「それで必死に探していると、……何か小さな裂け目のような場所を見つけるのだ。もう少し広げたら外へ出られるかもしれない、と希望に縋って隙間を爪で引っかいたり身体を押し込んだりして」

「……まさか」


 プシュケはカエルに遭遇する前に感じた違和感を思い出した。あれは時間が経って魔力が風化したのではない。最初から意図的に崩してあったものだった。


「そう、出てくるとしたらここ。出入りの監視だけでなく、このような使い方もあるのだと覚えておくといい。あいつを殺すなと言われているから、仕方なくここに閉じ込めてある」


 師匠はプシュケとルクレティアではない誰かに向かって悪態をついている。弟子を引っ張るのとは反対の手に持つランタンが、ただ静かに揺れていた。


「これでよくわかっただろうけれど、炎には浄化の作用があるのだ。これでまたしばらくの間、悪い魔法使いは近づけなくなった。私の弟子に手を出したらどうなるか、身を以て思い知っただろう。さあ、仲直りのおやつを食べて、今日はもうゆっくりしておしまいだよ」


 プシュケは聞きたい事が山ほどあったのに、自分で思っているよりも、疲れていたようだ。庵に帰り着く頃には足元が覚束ない上、ひどく眠たい。

 いつものように世話を焼かれて、新しい寝衣に袖を通して、これもまた可愛らしい装飾だらけであるのに感心しているうちに、ぐっすりと眠り込んでしまいそうだった。ぼんやりとした視界の中、庵を守るように照らしているランタンの明かりを頼って、プシュケは口を開いた。


「おやすみ師匠、……ルクレティアも。今日はありがとう、本当に」

 

 寝台脇の小机で、プシュケの使い魔も再び蛹に戻っている。明日は、どんな美しい蝶へ生まれ変わるのだろう。

 それから、あの沼地の奥をもっと考えなくてはいけない。師匠はやはりあの子供を浚う悪い魔女で、けれど弟子を大事に扱っている。食べるために連れて来ているのではなく、やはり一人は寂しいのではないかと、プシュケはそのような仮説を立てているうちに、寝入ってしまったらしかった。

 


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ