⑥ルクレティア
「この子が、プシュケの使い魔になると言っている」
早朝、まだようやく空が白み始めた時間、見習いのプシュケに魔女の師匠が差し出したのは木の枝だった。そこには子供の小指くらいの大きさの芋虫がくっついている。枝ごと受け取ったプシュケはまじまじと見入った。全体的に緑がかっていて、頭の模様は目なのかそうでないのか、とりあえず葉をかじっている小さな音が微かに聞こえた。
昨日の夕方、プシュケは庵のすぐ近くにある藪へ向かって、師匠が口にした言葉をそのまま復唱するという謎めいた儀式を行った。どのような意味合いの呼び掛けかはまだわからない。ちゃんと然るべき相手に意味が通じているのか疑問であったが、できる限り真面目に取り組んだつもりである。
《応えよ、我は魔女なり》
《こたえよ、われはまじょなり?》
それがシロップの調合を抜きにして、初めて行った魔術らしい振る舞いであった。けれど何かが起こるのかと思いきや、目に見える変化はなくがっかりだった。
「これはそれなりに高度な術であるからして、一度で上手く行く魔女ばかりではないよ。何も起こらなかったら、日を空け場所を変えて何度か試してみよう。その頃には精度も上がって、成功するでしょう」
師匠はしょんぼりしている不出来な弟子を慰め母屋へ入れて、いつものように湯あみの後で夕飯をたくさん食べさせた。そうしてまた可愛い寝衣を着せてくつろいだのが、昨夜の話である。
てっきり何も起きなかったのだ、と今になってすっかり忘れていた。プシュケは師匠の端的な説明で、はっと目が覚めて枝と芋虫を見つめた。
「……お話にあるように猫とか、カエルやカラスではないのですね」
プシュケもここへ来てからたくさん本を読んでもらって、物語の中で活躍する魔女の生態に詳しくなってきていた。ちなみにこの庵にも猫が、貴重な虫を鼠から守るのに交代制で数匹雇われている。暇な時には撫でさせてくれて、ふわふわで気まぐれでとても可愛い。
「相性の良い生き物は、維持管理に労力を割かれなくていい。か弱いが、虫には虫の良さがある。プシュケもおいおいわかってくるはず」
師匠の話によると、組織の知り合いに趣味で狼の一群を従えている者がいるそうだ。護衛には最適だが、何しろ食事代が馬鹿にならない。その上、序列を重んじる生き物の長でいるというのはとても気を遣うものであるらしい。
動かずに待っていてごらん、と師匠は長い枝で地面に魔法陣を描き始めた。真円に文字と幾何模様を描き、プシュケをその中へ立たせた。どこからか取り出した小瓶の中身を地面にふりかけて、ぶつぶつとまだ見習いには聞き取れない呪文を口にする。
「さあ、主人として名前を決めて。難しく考えなくていい、その子を見ながら自然に浮かんだ単語で十分。その子は蝶の幼虫だから、それらしい綺麗な名前がいいだろう」
「……」
芋虫である以外には何も思い浮かばず、師匠の顔をそっと窺う。相手は静かにこちらを見返した。プシュケは渋々再び手の先へ視線を戻した後、目をつぶって集中を試みた。
「…………ルクレティア、にします」
「いいじゃないか。それにしても随分豪勢な名前にしたのだね。どこかのお姫様の名前みたいだ」
プシュケは知っている中で一番綺麗な名前を挙げたのだ。ルクレティアという名前の人は、住んでいた村の視察に一度だけやって来た領主様のご息女の名前だった。彼女は馬車から降りもせず、ほんのひと時だけ、馬車の開いた窓から横顔が遠目に見えただけだった。
適切な名付けなのかは定かではないが、師匠はゆっくりと頷く。これで儀式は終わりであるらしい。そのうちにお話してくれるようになるよ、と彼女が優しくプシュケを撫でてくれた。
ルクレティアはその日のうちに幼虫から蛹になって、夕方にはなんと羽化した。プシュケの魔力を使って、普通よりずっと速い時間で、身体を造り変えているらしい。その上ありとあらゆる種類の蝶へと変身できるというのが数日もしないうちに発覚した。
「……お洒落で良いだろうってさ。なかなか気取った蝶々のようだね」
師匠は既にルクレティアが何を言っているのかわかるようで、弟子に向かって翻訳してくれた。彼女は機嫌がいい時には羽を落とし、一日に何度も糸をくるくる巻いて蛹の姿へ戻った。そうしてすぐにまた新しい蝶へと変化する。よくぞこれほど美しい羽を知っているものだ、とプシュケは見た事のない大きさ、羽の形や美しさに変身する使い魔に、すっかり感心してしまった。
「ルクレティア、ごめんね」
プシュケが使い魔を得てから数日が経ち、昨夜から雨が強かった。師匠は早々に明日は魔法の勉強はお休み、と宣言したので、プシュケはここへ住むようになってから始めて朝寝坊ができる、と密かに喜んだ。
ところがそれがよくなかった。
「師匠~」
プシュケは起きだして師匠のところへ行った。作ってもらったブラウスの胸ポケットになんともくすんだ色の蛹が一匹、収まっている。ひどく機嫌を損ねてしまったらしい。いつもであれば微かに、まだ言葉がわからなくても何かしらの反応があるのに、今は意図的に無視されてしまっている。
プシュケが朝寝坊している間、おでこがさわさわとくすぐったかった。けれど眠りを妨げるほどではなく、二度寝していた。
気がつくと、彼女はどんよりとした空模様の方がいくらか鮮やかだと思うくらい、なんとも味気のない色をした芋虫になって小机に転がっていた。
息絶えたわけではないようだが、とプシュケはおろおろしながら経緯を説明した。とりあえず師匠の作業机に移してみたが、身動き一つする様子はない。
「なるほど。それで、朝方はどんな蝶だったの?」
「え? えっと……水色っぽい感じだったような」
ぽて、と今度こそルクレティアは完全にひっくり返ってしまい、指先でつついてもうんともすんとも言わなくなってしまった。どうやら今回は水色ではない羽で登場したのを、プシュケは残念ながら見逃してしまうどころか、気が付きもしなかった。主人として、美しい彼女を語彙の限りを尽くして褒め称えるべきだったのだ。
名は体を表す、というわけで美しさにこだわる彼女の機嫌はなかなか戻らなかった。師匠はしばらく考え込んで、仲裁するための理屈を思案しているらしい。
「……あのね、ルクレティア。種族に限らず他者とのお付き合いは、一喜一憂なの。他人に期待していちいち気にしたって仕方がないし、こちらがイライラするだけ。あなたの美しさが損なわれたらもったいない」
師匠は双方に呆れているようだったが、ひっくり返ったままの芋虫に向かって何やら話を始める。それがひと段落すると、今度は項垂れている見習いに向き直った。
「プシュケはね、……相手が大事にしている事柄を尊重して初めて、お付き合いが始まるの。そうやって、みんな気を遣い合って生きているのだからね」
「……」
「……」
「……わかった、私も悪かった。これからはもう少し授業を始める時間を遅くして、これで双方喧嘩両成敗、三方何とかいうやつ。この間、絵本に出て来た、公平でよく慕われた審問官の話にあったでしょう」
師匠も渋い顔をしつつも、謝罪の言葉を口にした。そうして昨晩読んだ絵本の内容を引用する。
「でも師匠、朝一番の薬草でなければ、とおっしゃっていませんでしたか?」
「そこは抽出精度、つまりの丁寧さで補えばよろしい。さあ、今日は休みだから」
話し合いが終わる頃、雨は小やみになっていた。昼ご飯を食べてから、プシュケは散歩に出かけた。師匠は組合の仕事の締め切りがあるそうで色々な薬や染料、香料の調合に着手するつもりであるらしい。小鍋や魔法のランタンをはじめとした様々な器具が卓上に集まって来ている。
「ねえ、師匠」
「どうしたの、可愛いプシュケちゃん?」
「師匠は、使い魔がいないのですか」
「昔はいたよ、オスの蟷螂。口うるさくて鬱陶しい奴だったけれど、いなくなると途端に寂しくなったものだ。なに、四六時中顔を合わせていたら、言い合いの一つや二つは珍しくないよ。……プシュケもせっかくのご縁だから、蝶々と仲良くやるのよ」
いなくなる、という言葉を師匠は慎重に選んだ様子である。端に理由があって別れたのか、死別したのか、喧嘩別れになってしまったままなのか、読み取る事はできなかった。
ここで根掘り葉掘りどうして、と問いただすのは正解ではないと、それは弟子にもそれとなく察せられた。
「少し頭を冷やしてきます。おやつの時間には戻りますから」
どうぞいってらっしゃい、と彼女は作業場に留まって弟子を見送った。物言わぬ蛹を伴ってプシュケは師匠の庵に背中を向けるようにして、とぼとぼと歩いた。地面は湿っていて、空はまだどんよりとしている。ぬかるみや水たまりを避けて先へ進む。
「ごめんね、ルクレティア」
プシュケにはまだ彼女の言葉がわからない。ルクレティアがまだまだ臍を曲げているのか、それとも少しは気が晴れたのか、わからないのがもどかしい。しかし起きてしまった事は仕方がないので、反省して今後は彼女の機嫌が直ったら時に褒め称えてやるほかない。
プシュケはいつもより遠くへ、普段は足を踏み入れない場所まで歩いた。あらゆる虫を操る彼女であれば、弟子の動向を見張るのは容易い。森で暮らす無数の虫達全ての目と耳と嗅覚が師匠の支配下である。《さそり座》の名前は決して飾りではない。そのため一人で歩いていても、さほど危険だとは思わなかった。
「私、師匠のようなすごい魔女になれるかしら」
ここへ来て少しずつわかってきたのは、師匠はとても優秀で一目置かれている魔女であるらしいという事実だ。本人がどう思っていようとも、時折訪れる訪問客、それから大量の手紙が頻繁に届くあたり、それは間違いがない。
それに比べて、自分はどうだろう。彼女は弟子をせっせと褒めて甘やかす方針のようだけれど、今日初めて大きな失敗してしまった。
余計にプシュケは落ち込んで、ポケットにルクレティアを入れたまま歩き続けた。




