③魔女の庵
魔女としてプシュケが受けた一番最初の講義は、これから魔法の中心として活用するシロップを選ぶ事だった。子供の手のひらに乗るような大きさの、小さな陶器やガラスの容れ物へ、魔女の師匠が少しずつ液体を注いでいく。全て香りや色が違って、独特の冷涼なものや、花や果物らしき芳香がふわふわと部屋の中へ漂った。匂いを確かめながら、プシュケはそっと魔女の顔を盗み見た。
山奥へ捨てられた子供をここへ連れて来た彼女は灰色の髪をしていて、見た目の年齢が判別しにくい。老婆ではないが、若い娘でもない。伸ばした髪を緩く編みリボンでまとめた顔立ちは整っていて、大きな屋敷の奥様でも通用しそうな風貌である。どことなく陰鬱な雰囲気であるものの、だが手元へ向ける眼差しは意志の強さがあって、か弱さや儚い印象はない。
彼女こそが、この国にただ一人だけ棲むといいう怖ろしい魔女本人なのだろうか。子供を浚ったり、毒の息を吹いたりするらしい。しかし大体いつも憂鬱そうな表情で草木の世話をしたり、鍋の中身をかき混ぜて何か作業している。
そうして今日は、見習い魔女のプシュケを椅子へ座らせて、シロップの味見させていた。
「さて、一体プシュケはどれが気に入ったの? ……そう、接骨木ね。ではこれにしましょう。使っても平気な枝葉とそうでないものを、これから頑張って覚えましょうね」
全て味見しなさい、という指示の下で一つ選んだのは、庭にある接骨木から作ったものであるらしい。白ぶどうのような味わいでしょう、と言われたものの、貧しい寒村で口減らしにあった身であるので、残念ながらそちらを知らなかった。
「あら、それなら次の夏になったら食べさせてあげるからね。とにかく、これがあなたの魔法の中心となっていくものだから、次は作り方を教えていくよ」
「……魔女なのに、杖は使わないのですか、師匠?」
「魔法の最も適した形は様々で、声に魔力が宿る魔女だっている。私はえいっと気合を入れるやり方はあまり好きじゃないの。丁寧な準備を重ねて、確実に成果を積み上げるものよ」
師匠は山間に居を構え、住んでいる場所を庵と呼んでいる。本来は簡素な造りを指す言葉のはずだが、広大な薬草及び果樹園と工房を備え、寝起きするための母屋には応接間まで用意されている。弟子のプシュケも二階に部屋を一つもらい、二人で生活するには十二分な広さがあった。
二人がいる居間つづきの食堂と台所には木の戸棚がいくつもあって、様々な大きさ、形の鍋や器が並んでいる。けれど雑然としているわけではなかった。きちんと清潔に保たれて、差し込む陽の光はやわらかい。花の香りとお菓子の甘ったるい香りがいつもしている。
魔女見習いとなったプシュケは朝早くから薬草や果物を収穫から一日が始まる。日中は師匠が何かを調合する作業を見守ったり小鍋を温めたり、かき混ぜたり、刺繍や編み物を教えてもらう日々だ。
講義が終わった後は、外へ出て遊び回った。農作業の手伝いはまだ先であるという。そういうわけで落ち葉をたくさん集め、背の高さを超えてもまだ続けた。最後にそこへ走って行って勢いよく突撃する遊びに興じ、落ち葉が散らばって無くなるまで繰り返した。
そのせいで全身落ち葉だらけになった見習いは夕方師匠に回収されて、食事より先に入浴である。
「ああもう、全くこの子と来たら。爪の間まで真っ黒にするなんて。今日という今日はたっぷり懲らしめてやらなくちゃあね」
師匠は弟子をてきぱきと浴槽の中へ誘導した。
「自分でやります! そうじゃないとくすぐったいから、ね、師匠」
「だめだめ。まだ自分でちゃんとできないのだから、おとなしくしていなさい」
彼女ときたら、足の指の間まで丁寧に洗い落とすのだ。プシュケが浴室でくすぐったさのあまり散々暴れるのをものともしない。
騒々しい浴室でぴかぴかになったら夕ご飯を食べて寝支度を整える。髪にいい匂いがする香油を使って手入れし、清潔な寝衣に着替えて本を読んでもらうのだ。
「『兄妹は森の奥に、とても不思議な建物を見つけました。あたりには甘い匂いがたちこめていて、思わず近寄らずにはいられません。すると屋敷の入り口で、優しそうなおばあさんが、こちらへ向かって手を振っているのです……』」
毎日毎日この繰り返しなので、まるでプシュケはお姫様である。魔女、魔法使いにとっては特に夜の寝支度と朝の身支度は、とても大切な時間であるらしい。手順を覚えて、自分できちんとできるようになるまでの間、師匠は手間暇を少しも惜しまなかった。
「プシュケ、これは決まりなの。我ら魔導結社の理念その一、弟子は大切に扱い、丁寧に褒めそやして教育を施しましょう、とね」
プシュケは穴が開いていない、誰のおさがりでもない靴と衣服をもらう事ができた。そこへ師匠の個人的な趣味が入り込んで、くつろぐ時の服装はフリルとリボンとレースに覆われている。
プシュケが人間の村の子供として暮らしていた頃と比べれば、まるで夢のような待遇であった。こんなに可愛くていいのかしら、と首を傾げつつも大人しくふりふりした可愛い衣類に埋もれた修行生活を送る日々の始まりである。
下着、靴下にも可愛い小さなリボン飾りをつけているという徹底ぶりだ。
「汗でべたつかないおまじないが掛けられているの。子供はすぐ汗をかいて、湿疹ができやすいからね。靴下の方は穴が開きませんように、ってね。これは初級の魔法だから、そのうち覚えてもらうからね」
ははあ、とプシュケはもらったばかりの靴下をじっと眺めてみる。最初は何もわからなかったけれど、数日経つと、見習いにもうっすらと魔力の気配が感じ取れるようになった。
「……ほらね、あなたの髪はやっぱり真っ黒ではないでしょう。深めの栗色って呼んでいいと思うの。顔と肌を明るく見せてくれるのよ」
寝支度を進めるプシュケに、師匠が手鏡をこちらへ手渡した。言われた通り覗き込んでみると、プシュケの髪はランタンから光を集めて、つやつやになっている。ここへ連れて来られる前はもつれてひどい有り様だった。それが今では毎朝師匠が念入りに櫛を通し、編んでから可愛いリボンでまとめてくれる。
「そろそろ、色々な栄養剤がちゃんと身体に効いて来るでしょう。髪の毛も、前とは全然違うのがわかるかしら。身体の成長に必要な分が補って、初めて綺麗になれるというわけ。それを理解せずに細ければ細いほど良いとか、男はいつまでも衰えないとか、根拠のない説を信じる奴が多くて面倒だから、プシュケも気を付けなさいね」
あくる日の早朝、二人は果樹園を散策し、食べ頃の果物を集めて回った。一緒に収穫している薬草は夜の明けきらない時間に採集するのが良いらしい。洗って冷たい井戸水に晒す間にパンを温め、遅めの朝ごはんである。師匠が作ってくれたふわふわの卵焼きをプシュケが褒めそやしつつ、せっせと口へ運んだ。師匠はそれをのんびりと眺めつつ、収穫したばかりの果物を時折口に運ぶ程度である。
「師匠も、もっと食べたらいいのに」
「朝はあまり食べられないのよ」
師匠はプシュケの髪をせっせとおさげの三つ編みにした。これでよし、と細口のリボンで留めて完成である。この髪型は走った時に背中をぺしぺしと叩いて応援してくれているようで、好きだった。
「ようやく、少しだけお肉がついてきたね。いい傾向だ」
「……その言い方は、まるでお菓子の家の悪い魔女みたい」
プシュケが昨日の出来事を思い返しているうちに、師匠は指で輪っかを作って見習いの腕に嵌めている。腕の太さを確かめているらしい。
昨日の夜、プシュケがたどたどしく読み上げた絵本の内容に、師匠は最後まで付き合ってくれた。彼女が見習いのため用意したのは魔法の勉強と食事ばかりではない。師匠が入会している魔女、魔法使いの組合は子供がたくさんいるそうで、遊び道具や教材、成長に合わせた様々な物資が各所を巡っているらしい。
自分と同じように魔女や魔法使いの先生に面倒を見てもらっている子供が、あちこちの国にいる様子を、プシュケは想像した。
「そうだね、きっとやわらかくて美味しいだろうね」
昨夜読んだ本には甘いお菓子の家を作って兄妹をおびき寄せた悪い魔女が登場した。太らせてから食べるため、腕の太さを指で定期的に判定する場面があった。それを真似しているのだろう。師匠はうっとりとした視線をこちらへ向け、プシュケが慄く様子を見てくつくつと人の悪い笑みを浮かべた。
「悪い魔女は、えいってかまどに押し込むのですって。そうすれば退治できるのだそう」
「あのお菓子で家を建てる魔女は組合に入っていないだろうから、退治されても仕方がないね」
プシュケはおかえしとばかりに、師匠を脅かそうと試みる。けれど相手はやってごらんとばかりにやにや笑うだけだった。この頃になってようやく、彼女がプシュケをスープの具にするために連れて来たわけではないと、理解し始めている。
お菓子の家が出て来る話は、口減らしに森へ捨てられた兄妹が、魔女に立ち向かう筋書きである。魔女は盲というやつで、捕まった兄が太るまでは晩餐にしないというので、二人は細い鳥の骨で誤魔化すのだ。
最後は弱虫の妹が兄を助け出すため魔女を言葉巧みに誘い出し、火のついたかまどへ突き飛ばす。そのような筋書きで、二人は元の家へ帰り着くのであった。
自分と少し似ていると、プシュケは思った。親から口減らしとして森の奥へ追い出され、魔女の家へやって来る。その後の展開は真逆だけれど、そうして魔女の師匠と出会ったのだから。
「可愛いプシュケちゃんに、良い事を教えてあげる。火のついているかまどへ突き飛ばされて焚口を閉められたら、悪い魔女でなくたって死んでしまうものよ。火は、とても恐ろしい力を秘めている」
にやにやしていた魔女の師匠は一転、真面目な表情で応じた。
人間の生活にも欠かせない火は、魔女や魔法使いの視点でも特別な存在であるらしい。火はありとあらゆるものを焼き尽くして浄化してしまう。元々は地上に存在しない、天にまします神々の持ち物であったためだ。それを盗み出して人間に与えた者がいたのだと、神話ではそう伝えられている。その後、終わりのない怖ろしい罰が未だに続いているのだそうだ。
「これから少しずつ教えていくけれど、私とプシュケは虫を使い、植物を育てる魔女だから、火は大敵。それを知った者は、対抗しようとする時は火を使うだろうね。くれぐれも気を付けるのだよ」
はあ、ととりあえずプシュケは頷いておいてから、ちらりと机の上に置いてあるランタンに目を向けた。朝の陽ざしの中でも明るく輝く小さな炎が、透明なガラスの向こうで微かに揺れている。小ぶりだけれど、よく目を凝らすと装飾が作り込まれていて、この庵では自然と目を惹きつける存在だった。
「でも師匠、火を全く使わないわけじゃないですよね。お風呂もスープも、それから明かりも必要なものでしょう?」
「そう、その通り。これを見てごらんなさい。これは『魔法使いの火』と呼ばれる特別なもの。これがあれば、あの忌々しい硫黄の匂いを嗅がなくて済むというわけ」
草木を育て、虫を使役する魔女としての特性上、火の扱いには不安が残る。そのため組合にいる
知り合いに作ってもらったのだと師匠は言った。燐寸も薪も要らない代わりに、持ち主の魔力を燃料にしていつまでも燃え続けるらしい。
師匠の言う通り、ここには色々な香りがする。人間の村とは比べ物にならないくらい、たくさんの植物が栽培されているためだ。けれど硫黄の匂いや、一般的に普及している獣脂の蝋燭などの独特の嫌な臭いもしない。
「魔女って不思議」
プシュケはその明るい火をじっと見つめていると、師匠はどこからか黒い布を持ち出して、ランタンを覆ってしまった。昼間の内は使わなくても十分明るいでしょう、と言った。さあそろそろ勉強よ、と食卓を片付けて綺麗に拭くまでが見習いの仕事でもある。
「火を消さなくて大丈夫なの?」
「水をかけても、空気を絶ってもこれは消えないの。怖いでしょう」
「……」
プシュケは黒い布越しに、ランタンの炎がまだ煌々と燃えているのを感じ取った。火事になったらどうやって火を消せばいいのかわからないが、師匠の方は平気な顔をしている。
「……魔女って変なの」
お皿を洗い終わったら、今日もまた何か新しい魔法を教えてもらうのだろう。山間にあった人間の村で暮らしていた頃とは、何もかもが違っている。
まるでおとぎ話の世界へ迷い込んでしまったような感覚を拭いきれないままの見習いだ。
いずれ違和感を覚えなくなるか、それとも夢のように終わってしまう日が来るのか。一体どちらに転ぶのか、まだ幼いプシュケにはわからなかった。




