㉓師匠の励まし
ゼスとプシュケは城内で起きた事件を未然に防ぎ、ミハイルへの報告も終えた。ここへ来てから続いている習慣として二人で食卓を囲む頃には、地下の尋問室では徹底した調査が行われているものの、それを除いた城内の混乱も収まりつつある。
プシュケとゼスは反省会と称し、今後の方針と先の予定を話し合う。それが終われば他愛のない話をしつつ食事を進めた。
それじゃあまた明日、と彼を送り出した。その頃には事態も進展しているに違いない。彼につけている虫の報告から、私室へ無事戻るところまで見送った。
『もう、本当にプシュケちゃんは』
「先ほどから一体何なの、ルクレティア」
同席して人間二人の会話に耳を傾けていた蝶々は、主人に向かって憤慨している。蝶々からいつまでも子供っぽい振る舞いだと指摘されると全く面白くない。
彼が先ほどこちらを訪ねる口実は、ミハイルと何か話し、それをプシュケに教えてくれるのだと思っていた。しかし最後まで話題には上がらなかった。彼につけている小さな蝶々を通して話しかけようかと思いつつ、戻って来るような気配もないので、また明日にする他ないようだ。彼も今夜の騒ぎで疲れていたのかもしれない。
「さ、今日はもう休みましょう。今日は秘書官殿を助けてくれてありがとう」
『まあ、使い魔の仕事だものね』
プシュケは蝶々とおしゃべりしながら、久しぶりにできる限り丁寧に寝支度を整えた。忙しいという大義名分でおろそかにしてしまっていた分を取り戻すべく、できる限り師匠の丁寧な手つきを思い出そうと試みる。
香木の道具を持ち出して香りを楽しみながら、髪の手入れを念入りに行った。すっきりとした柑橘や花の香りは子供の頃から好きだった。
それから厚手の寝衣も新しい一式をおろす。既に先へ進みつつある季節に追いつけるよう、まだ新しい感触を楽しんでいると、のそのそと小机の上で使い魔が身動きした。
「あら、ルクレティア。どうしたの……」
声を掛けようとして、いつもの馴染んだ使い魔の気配ではないのに気が付いた。小机の花瓶にある一輪挿しに陣取るのは、よく知る相手であるのに変わりはない。
「師匠、お久しぶりです」
「ああ、そうだったね。魔術師殿はご多忙であらせられる」
庵にいる魔女の師匠がルクレティアの身体を借りて、遠くにある別の場所からこちらへと呼び掛けている。弟子は仕事から解放され、更に親しい相手が気にかけ会いに来てくれた喜びと共に相手を歓迎した。
「あの青二才は元気か。王子様、ではなく今は王様の弟をやっている」
「ゼス君ですか? 彼が色々と便宜を図ってくれるおかげで円滑に仕事ができているのですよ、師匠」
相変わらず、師匠は人間を非常に嫌っているらしい。プシュケと親しい者に対しても、それは変えられないようだ。しかしそうなると、弟子が人間の国で仕事に励む意向をあっさり許したのが不思議なほどだ。
「大体、師匠は二人から大変高価な品を受け取ったのですってね。私、知りませんでした」
「ああ、あれか。大変役に立った。海に棲んでいる連中から、どうやって手に入れたのか、しつこく尋ねられたよ」
まったく、とプシュケは呆れてしまう。次に訪ねる時はもっとすごいものを用意しますからね、と宣言しておいた。
「……ルクレティアから聞いたけれど、また命を救ってやったのだそうだね。先ほどの件、しっかりと恩を売っておくのだよ。優秀な宮廷魔術師のおかげで間一髪、薬を盛られなくて済んだと」
「私が行くより前に、出所の怪しい飲食物を口にする気はなかったようですけどね」
先ほど本人から聞いた話では、薦められるのを躱し、プシュケが駆け付けるまで時間を稼ぐ考えであったらしい。人々の安全を守るため、城内で徹底されている飲食物の持ち込み規定は客人にも適応されている。
ゼスはそれを失念したり、今回だけはと捻じ曲げようとしたりしたわけではなかった。こちらが遅れたとしても、絶対口にしなかっただろう。
プシュケが寝支度を進めているうちに、どうやら使い魔は師匠と情報交換に励んでいたようだ。ルクレティアは庵に一人で残った相手に気を遣っているのか、主人の補佐を他の虫に任せ、頻繁に連絡を取り合っている。
「……ミハイルや王妃様を直接狙うより、というところでしょうか」
ゼスも城内では人望があって、誠実な人柄はよく知られている。彼に何かあれば王城の動揺は避けられない。実務面でも、精神的な意味においてもミハイルにとっては大きな痛手となる。
王族を狙えば同盟国を巻き込んだ事態に発展しかねないので、嫌がらせとして打つ手は限られているのだろう。
「実に人間らしい、いやらしい作戦じゃないか。大事にする勇気はないようだが。まあ、油断せず引き続きよく警戒しておくのだね」
ええ、とプシュケは頷いておく。師匠も一応弟子が参加している陣営を心配してくれているようで安心した。人間嫌いはともかくとして、万が一にも敵対などしたくない。
「そういえば今度、少しお休みをもらって師匠のところへ帰ろうと思うのですが、一緒に来てくれるそうです。師匠も会いたいでしょう。ゼス君は随分男らしくなって、きっと見違えるでしょう」
「おやおや、相変わらず仲がよろしいようで」
へえ、と相手は話を切り替えて、そろそろ庵の畑にある蜜柑が食べ頃でね、と随分平和な話題がわざとらしく提供された。
「……お友達ですから、一緒にご飯を食べたりするのは珍しくありませんよ。人間の世界では」
「へえ、そうなのか。それは知らなかった。人間はもっと面倒な仕組みがあると思っていたのだが」
師匠の口調の端々に何か含みを感じ、プシュケは友人である点を強調した。対する相手は白々しい物言いを続けている。
「ルクレティアが顔を出す度にうるさい。いつまでも進捗がないと嘆いているが、実際どうなのだ」
「どう、とは具体的に何でしょう」
ルクレティアめ、と今は師匠に身体を貸して気配を消している使い魔を恨んだ。ある事ない事、大袈裟に吹き込んでいるのだろう。
プシュケは幼少期から師匠と暮らしていたので、未だにこちらの事情には疎い自覚がある。ミハイルが結婚に至った過程ほどではないにしろ、身分や財産、政治が絡むと婚姻事情が非常に複雑な事態に陥る事案、は何度か見聞きしていた。
ミハイルと隣国からやって来た姫君の姿は、プシュケの目には幸せそうに映る。それが守るのが自分の使命であるので、そうであって欲しいと思っているだけなのかもしれない。ゼスも、いつかは誰かしらを迎える日が来るのだろう。
彼が責務や使命に背を向ける姿は想像できない。
「血縁に魔力が伝わらない私達と違って、人間は親や家の方針で婚姻するものだ。本人の理性や抵抗が生じる前に世間体で縛って、嫌だと断れないようにね。プシュケも人間の国で暮らすのなら、結婚はそういうものとして思っておくのがいい」
「……」
師匠の話を聞いて、プシュケは好き勝手仕事をしていられる環境に安堵すると同時に、ゼスの将来を案じてしまうのだった。彼自身の意志でここに留まっているのだと以前に教えてくれたけれど、これから今まで以上に彼を縛り付けるものが多くなるかと思うと、いい気はしない。
けれど、彼は城で暮らす身分ある青年だ。意志と関係なく、その仕組みの中で生きていくのは当然だと、本人が口にしてもおかしくはない。
プシュケは個人的に、そのような台詞を聞きたいとは思わなかった。
「そこまで言うなら、私のところへ今度連れて来なさいよ。プシュケの小さかった頃の話とか、いくらでも時間を潰せるからね。プシュケがまごまごしているところを見物したい」
プシュケが考え込んでいるのに気が付いているのか敢えて無視しているのか、師匠は話をまとめてしまった。見学してどうするのだ、とプシュケは呆れてしまう。その呆れた気配を感じ取った相手はくつくつと笑っている。
「これ、一体何の話ですか」
「人間の国で頑張る弟子への激励だよ」
プシュケは光量を落としたランタンと蝶々、そしてその向こうにいる相手を見た。どこまで見透かされているのか、わかったものではない。それとも全て知っていて、こちらに釘を刺しているつもりなのだろうか。
「……師匠、蝶々のルクレティアがよく口にする恋というものは、もっと劇的な何かが起きるのかと思っていました」
プシュケは子供の頃に使い魔にからかわれた通り、恋と親愛との区別がついていなかった。今は王城のあらゆる場所に目を光らせて、そちらの方面における知識もある程度蓄積されてはいる。けれど自分の事として考えるのは難しい。
彼らが庵へ逃げ込んできたあの日、もう少し上手に助けられていたら、と未だに思う。唐突に奇妙な登場をしてしまい、怖がらせてしまったのをよく覚えている。
「……それにしても」
沈黙を破ったのは、親代わりの優しい声だった。遠く離れた場所で弟子を心配している相手は、からかうか笑うと思いきや、声はなんとも静かな響きをしている。
「大きくなったね。綺麗な娘になった」
「どうしたのですか、急に」
「あのゼスとかいう、あいつも近いうちに職責と自分の気持ちを天秤に掛けて何か判断するのだろう。けれどその時。王城で真面目に役目を果たすプシュケを、あの男は誰より近くで見ている。それで何を思うのだろうね。……聞いてみたら?」
「……わからないのです。自分でも、どうしたらいいのか、どうしたいのか。でも師匠が今、教えてくれたように、彼には彼の決められた道があるでしょうから」
恋というのはあやふやな、一過性でひと時の熱病のようなものなのだとも言われている。
自分にとってゼスは、一緒にいてくれる人で、気にかけてくれているのはよくわかっている。プシュケの世界を広げ、あるべき道筋を示してくれた。そして折につけて、言葉をくれる相手でもある。
ゼスとミハイルに個人的に肩入れして仕事をするようになった経緯から、二人の行きつく先は自分にとって決して他人事ではない。
「たとえ誰にも打ち明けず、心の奥底に大切に隠したとしても。自分の心であるのに変わりはない。覚めても色褪せても、いつまでも美しいまま。それはそれで悪くない。きっと宝物だよ」
師匠は人間が大嫌いなわりに、弟子の内心を否定するような言葉は口にしなかった。
「私がいくら頑張って縛り付けようとして難しい課題を出しても、さっさと終わらせて外へ遊びに行くのがプシュケじゃないか。色々な女の子がいるけれど、私の教え子はずっとそうだった。ああ、弟子の成長ほど気になる事はない。目が離せないよ、いつもそう。私の可愛い、娘だもの……」
「……どうしたんですか、ここへ来る前はあくまで技術の先達だと言い張っていたのに」
プシュケは思わず目を瞠って、目の前の蝶々とその向こうにいる相手を見つめた。
「あの時、私はプシュケの背中をちゃんと押すために、あのように言うしかなかった。どこへも行かないように泣いて縛り付けるような真似だけはしたくなかった。……けれどかえって、プシュケに寂しい思いをさせただろうか?」
「……いいえ。だって誰が見ても、私は師匠の可愛い娘ですからね」
よくわかっているじゃないか、という相手の声にランタンの光が少しゆらいだ。プシュケはまるで庵にいた頃のように、少し遅くなるまで師匠に色々な話を聞いてもらった。




