⑲瀝青という薬
プシュケは馬を相手に大苦戦した後、今日はこのあたりでそろそろ、と放牧場から解放してもらった。食事はどうするのかゼスに尋ねられたけれど、今晩は必要な私物や資料を師匠に頼んである。夜には戻ると伝えて、一旦魔女の庵へ戻る事にした。
『はいはい、お師匠様によろしくね』
ルクレティアに城内の監視を頼んで、プシュケは庵へ戻った。夕暮れ時の景色が既に懐かしかった。果樹園からは甘い香りが微かに漂って来ている。出立前にはまだ青い実だったのが、日にちが進んで熟してきているようだ。綺麗に並べられた鉢植えは花冠をつけているものも多い。昼間はきっと咲いていたのだろう。
「……」
これが、ゼスが言う郷愁というものであるらしい。親元を離れて寂しい不安と憂鬱な心は、同じ境遇にある少年少女の大半が味わう感覚であるそうだ。
「今帰りました、師匠」
「あらおかえり、プシュケ」
庵の玄関口にいたのは師匠である。いつも通り、花壇に水をまきながら弟子を出迎えた。
ごきげんよう、とプシュケは最近お馴染みの宮廷風挨拶を見せつけておく。仕事は忙しいが楽しく順調に進めている、と示しておきたい。ほとんど外へ出ず暮らす相手もこのくらいは知っているようで、それらしく衣装の裾に指先を添えて応じてくれた。
「師匠、人間達がよく使っている薬について、後で教えて欲しいのです」
もちろん、と相手は悠然と微笑む。人間への複雑な感情はともかく、まだまだ経験の浅い弟子を助けてくれるようで安心した。
庵の中も相変わらずで、肘掛け椅子に途中になっているレース編みや、食卓にお気に入りのカップがきちんと並べて用意されていた。弟子が帰る知らせを受け用意してくれたのだ。あまりにも見慣れた光景で、忙しく仕事をしながら王都と庵を行来している生活が、不思議で複雑に感じられた。
ここは自分が帰る家だ、とプシュケは思う。自分達のような魔女、魔法使いは血縁とは別の繋がり方をする。技術を教えてくれる人がいて、帰る家に戻ってほっと一息つく同胞も多いのではないだろうか。
「……」
それと比較して最近付き合いの深いゼスとミハイルは、必ずしも安全とは言い切れない場所から、帰る事も逃げる事もできないでいる。その境遇に思いを馳せながらの難しい表情を窺うように、師匠に促されて着席した。
「……調子はどう? 新任の宮廷魔術師殿」
「……馬のおかげであちこち痛いです」
「それはそれは」
プシュケが顔をしかめると、師匠は真面目に応じつつも口元は微かに笑っている。連日の訓練によって身体のあちこちが身動きする度、痛みを訴えていた。しかし筋肉痛を軽減する薬を飲むと負けたような気がするので、プシュケは敢えて放置している。どうせ数日で回復して気にならなくなるだろう。
「ええと、それで……」
食卓にはプシュケが好きな料理が並べられている。全て把握されている事実が悔しいのと、やはりお腹を満たす行為に勝る事象はない。もくもくと用意されたものに手を付けていった。師匠がにやにやとこちらを眺める間に美味しく丁寧に頂いて、ようやく本題へ戻った。
「ただいま帰りました。師匠も変わらずで」
籠いっぱいに冬の甘酸っぱい果物と師匠手製の焼き菓子を抱えて帰還である。これは間違いなく安全だと伝えてゼスに預けておく。
事前に要請した通り、二人は打ち合わせのために部屋を用意してくれていた。今回は盗み聞きされたところで特に困らない内容ではある。しかし習慣付けも兼ねて他の者の気配がないか探って安全を確かめてから、プシュケは話を切り出した。小箱に入った黒い砂を二人に見せる。
「瀝青と言って、これは師匠に借りた本物なので、しかし出回っている大半は偽物です。それは、この城に持ち込まれている物も例外ではありません」
人間の世界には薬、若しくは効能があると謳われると製品で溢れている。当たり前だが持病の事情で服薬したり、健康や美容目的で購入したりする。手荒れに効く軟膏、肌や髪に用いて美しく見せるものまで、用途は様々だ。
ミハイルが女性であれば化粧品の類にまで厳重に目を光らせなくてはならなかっただろう。今のところ自分の主人は健康体なので常飲、常用している薬はない。式典など人前に出る行事の際に整髪料程度であるようだ。
しかし彼は身分があるので、いずれは結婚して後継を設けるはずだ。ゼスによると現在は候補の選定を内々に急いでいるらしい。その女性にも、プシュケの仕事も理解してもらいたいところである。
プシュケは王城へ来てから二人を説得し、薬の持ち込みには事前の申請が必要という規定が設けられた。
自分用の薬として持ち歩いているのか、悪意があって密かに入手したものか、判別が難しいためだ。薬と毒は往々にして用量の違いでしかないのだと、師匠もよく言っている。王城に努める薬師、医官の薦める薬へ切り替えるよう呼び掛けている最中だ。
よくある蜂蜜や柑橘を主とした加工品は実際効果があるものも多い。近所のおばあちゃん薬師から処方してもらったという咳止めはそういった成分が主だったのでプシュケは許可した。
そのような調査、手続きを進める中で見つけたのが、問題の黒い粉末である。瀝青は西の国で鉱石のように掘削して採取する。稀少で、薬としても有用であるとされていた。
「偽物の瀝青とやらは何でできている?」
「……昔、砂漠にあった古代王国の遺跡から見つかる棺の中身を砕いたものです」
「……」
死体の粉、という直接的な表現をプシュケは避けた。人間の国では考古学者や墓荒らしが古代遺跡の副葬品として眠っていた財宝を手に入れる一方、一緒に手に入る大昔の遺骸を瀝青と誤認して使用が広まったらしい。何千前の遺体を保存する手法があるので様々な薬品が使われているのは間違いないが、それとこれとは話が別である。
「経緯や正体はともかくとして、それなりに効能があるとされているが……」
「あらゆる動物の脳髄や近い部分の骨を摂取すると、やがて頭に変なものが湧いて死にます。これは私も、残念ながら師匠も治せないそうで。そのような部分を抜いてから砕くような手間は掛けていないでしょう」
プシュケとゼスは主人を無言で見つめた。飲んだ事はない、と慌ててミハイルが言う。プシュケも師匠から話は聞いていたが、本当に人間達がそのような危険を知らずに服薬しているとは思わなかったので、身震いした。
「これだけは殿下の一存にて禁止にしてくださいませんか」
「聞いた話では、掘り返した遺体の検分を娯楽としているような文化もあるようだ」
「……」
「気持ちはよくわかる」
口を挟んだゼスの噂話によると、裕福な人々が集うサロンで遺骸を包む覆いを外し、中身を覗き見る悪趣味な遊びが楽しまれているらしい。顔を引き攣らせたプシュケに、ゼスは深く同情するような声でミハイルの判断を仰いだ。
「……そんな! これは結構値が張るものだし、効くと評判なのですよ」
「だめなものはだめだ、諦めるほかない。そのうちに頭の中に変な虫が湧いて死ぬという鑑定結果が。……ところで貴殿はこのような話をご存じでしょうか?」
王城内で薬品所持に関する新たな発表を見た者が、早速陳情のため謁見を願い出た。主人に代わって応対したゼスがわざとらしく声を潜め、いわくありげに語り出した。
考古学的探究のため派遣された調査団のうち、間もなく隊員や裕福な後援者が謎の発作を起こし、数日のうちに相次いで亡くなってしまったのだという。墓荒らしへの報復として、当時生きていた古代魔女の呪いという噂や、遺体と共に悪い瘴気が一緒に解き放たれてしまったとする説がまことしやかに囁かれた。
大騒ぎになった事件の噂が広まると、真に迫った怖ろしい描写が功をそうしたのか、しばらくすると偽瀝青は城内へ持ち込まれなくなった。
「……それらしい逸話を創作して流しておいたが、本当に墓荒らし対策の呪いは存在するのだろうか」
「王族に仕えていたような魔術師は主人からの最後の依頼として、墓を暴かれないように不届き者へ制裁を加える術を施すでしょうね」
プシュケは相変わらず馬に乗る練習と庭整備に忙しい。それよりはるかに仕事に追われているはずのゼスだが、折を見て庭仕事を手伝いつつ、城内の噂について教えてくれるのだった。
そもそも遺骸を腐らないように処置していたのは、死後に復活すると信じられていたためだ。乾燥した砂の王国特有の技術である。自分の師匠であれば嬉々としてえげつない被害が出るようなものを仕組んでおくに違いない、と彼女が庵で静かに暮らしている事実にほっとした。
「本物もあるでしょうけれど、大半は……盗掘、発掘のため狭い場所に集まって生活するから、病気が持ち込まれたら瞬く間に広がるでしょうね。食あたりや伝染病が正体なのではないかしら。あとはまあ、大袈裟に書き立てる者がいつの時代もいるでしょう」
プシュケは土を深く掘って、肥料やよく育つように魔法を込めた石を埋めておく。シロップを作るため持ち込んだ接骨木を整備したばかりの畑に移植しながら、遠い砂に覆われた国に想像を巡らせた。




