⑰旅立つ日
プシュケはゼスを見送って、箒を片付け師匠を探した。彼女は暗くなりつつある母屋の奥で、普段と同じように夕食の支度にとりかかっている。暗くなりつつある分をかまどの火が補って、その周囲だけ明るかった。
鍋の中身はまるで輝くようで、この上なく香しい。様々な相互作用で具材がやわらかくなり、加熱で生まれる味覚や嗅覚を楽しませる成分が次々と生まれる一方、野菜の硬さや肉の臭みが抑制されつつある。
「うん、これでよろしい。ちょうどいい味」
プシュケは隣へ行って手伝い、具沢山のスープを味見して完成させた。食卓を綺麗にしてお皿を並べ、摘んできたお花を飾ると、今頃ルクレティアがふわふわやって来た。ランタンを明るくして料理が出揃うと、いつもと同じ食卓である。
「美味しいねえ」
「はい、ええ、うん」
いつものようにプシュケとルクレティアで他愛のない話題を師匠へ報告し、彼女は笑って相槌を打つ。そうやって楽しむのがいつもの風景だけれど、今晩に限っては少々緊張していた。それを感じ取っているのか、使い魔は妙に静かにしている。それでいてこちらに意味深長な視線を送っている。なるべく早く話してしまえ、と言いたいらしい。
人間の国で働きたい。先方からぜひ来て欲しいと言われている。自分が行う仕事の方針もおおよそ固まりつつあって、もちろん師匠に助言を求める事にもなるだろう。
相手の機嫌を窺いつつ、プシュケは話の糸口を密かに探りながら食事を進めた。覚悟を決めなければ、と顔を上げると相手と目が合う。
「プシュケ、……今日来た、あの人間のことだけど。ゼスとかいう名前の」
「師匠が先にゼス君を中へ招き入れて話したというのは、本当ですか。人間とはできる限り口を利きたくないばかり」
今までもここに、道に迷ったり祭日に酒の勢いだったり、入ってこようとした者は幾度もいた。しかし全員追い返されている。師匠の機嫌次第で数日間カナブン変身の嫌がらせである。
彼女が所属している組織の紹介か、食糧を取引している相手に限って交渉できるものの、決して愛想が良い対応ではない。プシュケが横で聞いていて、相手方への不必要な手間や報酬の請求も珍しくない。
それでいて叱責されないので、師匠は相当な戦力と見做されているのだろう。
けれど人間を遠ざける言動が何に起因するのか、プシュケは教えてもらっていない。長く寝食を共にし、様々な技術を彼女から学ぶ日々を送っているにも拘わらず、である。
「それで、プシュケはどうしたいの」
弟子が色々と考え込んでいるうちに、正面から問いかけられて思わず口ごもった。ゼスとミハイルに本格的に手を貸すとなれば、少なくとも王城を拠点に活動せざるを得ないのは確かだ。
プシュケは今まで、師匠の元を離れる選択を考えていなかった。要請に応じ、自分の力を試してみたい望みを邪魔するのは、その懸念である。自分がいなくなった庵で、彼女は一人で過ごすのだ。
「師匠は私にいつか、仕事や《さそり座》の称号や、この工房を譲って下さるおつもりは、あるのですか」
現在唯一の弟子であるので、このくらいは尋ねても問題はないはず。プシュケは改めて、自分の指導役をまじまじと見つめた。世間一般では親の工房や仕事を子供が引き継ぐのと同じように、プシュケも漠然と師匠から譲り受ける未来を想像していた。
奇妙なのは拾ってもらった直後と現在で、師匠に見た目の変化がほぼ見受けられない点である。彼女が特別なのか、それとも魔女や魔法使い全般に共通しているのか定かではない。
「そもそも、師匠もいつかは引退するのですか、それとも……」
「大昔に、本気で大きな魔法を使った時、私自身にもよくわからない事が起きて、身体がおかしくなってね。このランタン以外で火を扱えなくなって、銀にも触れない。まるで悪い生き物になってしまったみたいだと思ったものだ」
「それ、本当ですか……?」
プシュケはゼスがここへ初めて訪れた際に、銀貨を触らせてもらっている。特に何も起きなかったけれど、人間の世界では悪い魔物を遠ざける効果があると広く信じられているそうだ。
「まあね、当時は人間と揉めていたのだ。やつらは大勢で来て、ここに強大な魔女がいるという与太話を信じて攻め込んだ。ここには隠れ住んでいた子供と老人と私しかいなかったのに」
『お師匠様以外の方は、どうなったのですか』
プシュケが躊躇った問いかけを、代わりにルクレティアが聞いてくれた。意外にも魔女は澄ました顔をしている。人間が攻めて来たのと同時で組織と話がつき、辛うじて全員そちらへ逃亡できたらしい。
誰も殺されずに済んだのか、と弟子は安堵して相槌を打ちながら、しかしミハイルが教えてくれたような話が起きた事実に思わず身震いした。この素晴らしい能力を持った魔女が全力を出したとなると、どれほどの惨状だったのか、想像するのも怖ろしい。
「そういうわけで、私の話はいい。優秀な弟子の将来には組織が口を出すだろうから、その前に行動してしまいなさい。元気で着実にお金を稼いでいると、適当に言い繕っておくから」
「……ゼス君とミハイルのお誘い、確かに興味があるの、ただ……」
二人は人間の国の王城で暮らしているという。ゼスは将来ミハイルを支え、城で働く人間の管理者になる予定だと教えてくれた。それより大きな顔ができるミハイルの正体も見当がつく。本来ならば呼び捨てなどできないだろう。
「プシュケも、それからもちろん私も、既に五歳の子供ではないからね」
「……」
『あらあら』
離れて暮らすのは寂しいという本心を見透かしたように、師匠は釘を刺した。ずばり言い当てられたのを察したルクレティアが微かに笑う気配がしたのが面白くない。そのやり取りを見た師匠は何とも気まずそうな表情を浮かべる。
「私もあなたに謝らないといけない。本当は人間が寄宿舎だとか学院だとか呼んでいるような場所が、私達にもある。そこで同じような境遇の子供と一緒に暮らしながら、技術を研鑽する道があったかもしれないのに」
「……それは初耳ですね」
「そうだろうとも、教えなかったから。私がプシュケを一対一で教えるのが一番だと、そう思い込んでいた。蝶々しかいないような場所に、この年齢まで閉じ込めておけたのは奇跡だった。走り回って遊ぶのが好きな子供だったのに。もしそこへ行っていたら、もっと上手に行ってきます、が言えただろう。……本当に、ごめんね」
謝られたプシュケは瞬きを繰り返した。庵の外にそのような世界があるのは知らず、きっとどこも自分のように先生に師事して学ぶと思い込んでいたためだ。一緒に聞いている蝶々に驚いた様子はなく、ただ黙って師弟のやり取りに耳を傾けている。
「私がプシュケの母親だったらもっと縋りついて、ずっと一緒に暮らそうとしがみついただろうけれど、あいにく魔女の先生に過ぎないのでね。背中を押して、助言するだけ」
師匠の声は淡々としている。意図して様々なものを隠しているようで、プシュケは懸命にその正体を探ろうとしたけれど、動揺してしまって上手くできなかった。既に旅立ちが始まってしまったような、戸惑いと焦燥のためである。
「まず一つ魔女として、そして仕事しながら生きていく者として。精進をおろそかにしてはいけない。新しい知見は常に生まれ続けているから、決して取り残されないように。後から間違いだとわかる場合もあるけれど、疑い見抜くにもやはり腕がいる。教えた通り魔女の仕事、生活の動作に至るまで手を抜かないで、丁寧にやるのを忘れないで」
最初に示されたのは、彼女がプシュケに何度も繰り返した指導である。ひとひらの蝶、一揃いの針と糸による縫い目、シロップの一滴に至るまで気を配りなさい、と。
「ここで私が好き勝手に暮らしているのは、役に立つからだ。組織は常に金策に苦心しているから、金を生み出す能力が高い者に強く出られない。血縁に魔力が受け継がれない以上、なるべく多くの子供を育てて、一人前にしなければ仲間は誰もいなくなってしまう。いつかプシュケも良い人ができて子を授かるかもしれないが、魔女の弟子をいつか必ず受け入れろと迫られるだろう。その時は、私が教えたように」
ここで師匠とルクレティアと、幼い者として気楽でいられた時期が終わろうとしていた。これからは一人前として仕事に取組み、その先に様々な出来事が待ち受けている。不安がないわけではない。けれどそのきっかけは自分自身で作ったのだ。
プシュケはようやく自分の望みを、ずっと家族のように慈しみ育ててくれた相手に、熱意を以て打ち明けた。
「師匠、私は王国からの招きに応じるつもりです。危険が伴うとしても、彼らとそしてこの土地で暮らす人々を守らなくてはいけません。そこには師匠とこの庵も含まれているのです」
「そうだね。小国とはいえ王子が、わざわざ信を置いている者を使者に立てて交渉に来た。あの二人はプシュケに大いに借りがある。まだ青二才だが、騙して狡賢く立ち回るばかりでもないようだ。……夕飯がすっかり冷めてしまったから、温め直そうか。そうそう、食事はなるべく温めて食べるように。せっかく便利な道具があるからね」
やれやれ、と師匠はランタンに手を伸ばした。温かな火の魔力がすぐ伝わって、食事からは湯気と共に良い香りが食卓に漂う。
他にも、と師匠は饒舌にあれこれとプシュケに助言を重ね、珍しく口数が多い食卓である。弟子は大人しく聞き手に回って、食事と一緒に記憶に取り込むべく集中した。
ここを離れる、と決めてしまえばプシュケは荷造りに没頭した。別に二度と戻らないわけではない。すぐに必要な物以外は何度か往復して揃える必要がありそうだ。魔女や魔法使いにとって、特定の場所を行き来するのは難しくない。すぐに必要な物はとりあえず旅行鞄に詰め込んだ。
『寂しくなったらお休みをもらってすぐ帰ればいいのよ。とりあえず三日くらいは頑張りましょう? プシュケちゃん』
「失礼な使い魔ね。すぐ戻ったりしないから。ルクレティアも大勢いる夫と別れ話で忙しいんじゃないかしら?」
まあ、とルクレティアが笑っている横で仕事と生活に必要なものを荷造りした。部屋は残すのである程度は置いておけばいい、と師匠も言う。
「仲間内でも専用の道具にこだわるような者は大変だけど」
師匠はそう言いながら、苗や挿し木にする枝を見繕ってくれた。蜜蜂を飼うための木箱もシロップを作るためには外せない。
寝台や棚等の基本的な家具はあちらで用意してくれるらしい。徐々に自分好みの物を整えるように、とゼスが寄越した手紙に書いてあった。
それでもやはり、旅立ちというのは特別な門出である。師匠と暮らした庵にも、その日はあっという間に訪れた。
指定された期日の時間通り、ゼスが迎えに来てくれた。
「……これだけでいいのか」
「とりあえずは。引っ越しは初めてだからよくわからないけど」
「貴婦人が移動するとなると、馬車を何台も用意させるほどだ。権勢を誇示するのにも繋がる」
迎えの馬車は近くの村へ待たせているらしい。なるほど、とプシュケは人間世界の見栄に思いを馳せる。全く知らない世界でこれから生活していく事になりそうだ。プシュケは物を軽くする魔法をちょいちょいと掛けて準備を進めた。
「今日も綺麗な羽だ。それから、先日はどうもありがとう」
『……あら、あらあら』
ゼスの素直な言葉に、ルクレティアは満更でもないらしい。彼の回りをくるりと一蹴して、そそくさと主人が羽織った外套の留め具に止まった。何も知らない者が目にしたら、精巧な細工物のように映るだろう。
彼は先日の助言、この使い魔のあしらい方を忘れていなかったらしい。言葉がわからないなりに、生真面目に蝶々に話しかけている。
プシュケは近寄って来た彼の愛馬を見上げた。前も庵へやって来たため、こちらを覚えているらしい。こっそり魔力を伸ばして調べてみると、それなりに年と経験を重ねた個体であるようだ。そのおかげか、魔女が目の前に来てもさほど嫌がる様子はない。プシュケは生き物を使役、つまり従わせるための魔力が放出されているので、常に他者を威圧しているようなものだ。
どうぞ、とゼスが手綱を手に馬を撫でながらプシュケを促した。
「私が前に乗るの?」
「ああ。慣れない者が誰かに手伝ってもらう時は特に」
師匠、というより魔女や魔法使いは馬に乗らない。彼らに頼らずとも長距離を移動できる術を知っているためだ。
今まで馬に乗った経験がないプシュケは躊躇してしまう。前に乗る者が熟達者でなくて大丈夫なのかと不安が残った。体高はこちらの背丈よりはるかに上、見上げなければ馬の頭部など見えやしない。
「そういえばミハイルが、プシュケにも遠くないうちに馬を持たせようと、そのように話をしていた。一緒に城の外で行動も、これからは度々想定されるだろうと」
しばらく奮闘の末、プシュケはようやく馬にまたがった。後ろにいるゼスの合図とともに歩き出すと思ったより揺れる。上手に支えてくれているのでなかったら、とっくに転げ落ちているに違いない。
慣れない移動手段に戸惑っているふりに努めたが、庵が見えなくなった頃に後ろからゼスが囁いた。
「……今日は浮かない顔じゃないか?」
「……」
『……』
それほどわかりやすいだろうか、とプシュケは顔をしかめた。単に緊張していると言い繕うべきか思案する。しかし眼差しや口調から、心配してくれていると十二分に察せられた。白状してしまうしかないらしい。
こういう時に限って、おしゃべりのルクレティアは静かにしている。何か空気にそぐわない発言で気を紛らわせてくれたらいいのに、と内心で文句をつけておく。
しかし親元を離れるのが寂しい、と正直に打ち明けていいものかとく逡巡してしまう。彼も忙しい中で迎えに来たのに下らない話を聞かせるのは申し訳ない気持ちがある。結局半ば誤魔化すように、謎めいた話をする羽目になった。
「馬に育てられた馬人間が一生懸命速く走る練習に励んでいたのに、馬のお母さんから、さあ一人で行きなさいと諭されたら、このような気持ちになるのではないかしら」
「う、……馬人間?」
『あらあら、強がっちゃって』
ゼスが背後で面食らっている気配がする。プシュケも自分で何を言っているのかよくわからないので、それ以上付け加えなかった。ルクレティアは何やらわざとらしくため息をついている。
しばらくそのまま馬はゆっくりと歩みを進め、林を抜けて近くの村へ出る小道へ出た。その頃に、ゼスが遠慮しつつも口を開く。
「育ててくれた相手との隔絶に悩んでしまった趣旨だとしたら、……別に馬のように速く走れなくても道具を作り、火を操るわけで。ゆくゆくは群れの仲間の役に立てるような術を、もたらす事はできるのではないか。……その、馬人間がよくわからないから上手く励ませない」
「そんなことないよ。ありがとうゼス君」
お師匠殿の仲間には馬人間がいるのか、とゼスが尋ねる。プシュケはそうだと応じると、何とも形容しがたい表情を浮かべている。自分もその話を聞いた時は同じ反応をしたものだと、懐かしくなった。
『どこをどうしたら馬人間のたとえ話になるのよ、もう。そういう時は素直におしゃべりしたらいいのに、変なところで似た者師弟ね』
呆れているらしい使い魔をよそに、プシュケはゼスの話を反芻した。いつかここへ戻る日は、自分で見つけて習得した何かを、宝物のように自慢したい。一度だけ庵の方向を振り返った。
師匠は人間のゼスと顔を合わせたくないためか、庵の入り口で別れたのが最後である。すぐ帰って来ても良いよ、などと明るく笑っていた。身体に気を付けて、と付け加えた。
「……」
プシュケが庵を魔力で窺うと、ランタンの明かりが届く場所で、師匠はこちらに背を向けて繕い物に励んでいた。今、顔を見たらきっと寂しくて泣いてしまうだろう。きっとこれでよかったのだと、プシュケは前を向くほかなかった。




