⑭あなたのおかげで
「そうそう、途中で出て来る軍師様が……」
お気に入りの戦記物語について、プシュケとミハイルは熱く語った。ゼスは静かにもくもくと食事しつつも、こちらのやりとりに耳を傾けている。
空の皿が増えるにつれて、彼は自分以外の二人だけに片付けさせるのが申し訳ないらしい。立ち上がろうとして、何かに気が付いた様子で再び座り込んだ。
「申し訳ないが、針と糸はないか」
「寝てろよ」
「いや、ほぼ痛みもないからむしろ動いた方がいいと思う。優秀な薬師殿と、……それから蝶々が」
『ふふふ、この坊やは私の功績をよく理解しているようね』
ゼスはすかさず付け加えたので、ルクレティアが満足そうに、いつもの卓上の定位置で満足そうに羽をふるわせている。
痛みを我慢しているような素振りはなく、師匠特製の傷薬のおかげでの傷も治りかけている。裁縫道具を渡すと、矢傷の治療のためプシュケが鋏で開けた穴を、履ければ十分だと言って適当に縫い付けている。大急ぎで終わらせ、お皿を拭く作業を手伝ってくれた。
「……お二方、急かしているわけじゃないけれど。ゼス君がもう動けるのであれば、師匠が戻る前にここを出た方が身のためよ。カナブンにされるか、かまどに押し込まれて焚口を閉められてしまうかも」
そこまでするかどうかは機嫌次第だとしても、とにかく鉢合わせは避けた方がいい。ミハイルの身柄に相応の対価が期待できるとなると、厄介な事になりかねない。師匠の取り立てほど怖ろしいものはない。
「……しかし」
「私が勝手にした事なの、本当に気にしないで」
「プシュケのお師匠殿という人は、勝手に仕事を引き受け、外部の人間に設備を利用させた弟子を咎めて罰を受けさせるのではないか」
「まさか」
それはない、とプシュケと使い魔のルクレティアは笑って応じたが、二人とも難しい表情を浮かべている。純粋に心配してくれている様子だったので、大丈夫だとしばらく念押ししなくてはならなかった。
敷地に放してあった二頭の馬が、主人達の姿を認めると走り寄って来た。色々な草木が生い茂っているので、食べ物を補給できたようだ。こちらも回復している様子で、問題なく帰り着く事ができるはずだ。
『お師匠様はプシュケに甘いから、どうせ小言で終わりでしょう』
「そうそう、大丈夫よ、私は平気。二人の経緯は、よく説明しておくから」
「お師匠様という方は、仕事先の親方というよりは、もはや母親の代わりのようなものか」
ゼスは師匠の話を聞いて、そのような印象を持ったらしい。しかしあくまで技術指導が主であって、プシュケにとってはどれほど世話を焼かれたとしても、お母さんと呼ぶのは適切でない認識だった。彼女の方はどうだったのだろう、と尋ねるのには少々勇気が必要である。
どうやら既に両親とは死別してしまったらしい複雑な生い立ちのゼスに対しても説明するのが難しく、曖昧に笑って誤魔化してしまった。
「……そのままゆっくり進めば、そのうち人間の村近くへ出られるでしょう。……それじゃあ」
「ああ、また使者を遣わせるから、元気で。本当に助かった、ありがとう」
プシュケは彼らの拠点が王都であると聞いて、庵からその近くに出て行けるよう敷地内を誘導する。そうして、使い魔と共に庵の内側へ留まって手を振った。
ミハイルが先に進み、ゼスも思いのほかしっかりとした足で騎乗した。二人は何度も振り返り、別れとお礼の言葉を並べながら、ゆっくりと遠ざかって行く。
見習い魔女は近くにいた蝶々に交渉し、身体を借りてしばらく彼らの後を追った。ひらひらとこれ見よがしに寄ってみると、二人は先ほどまで一緒にいた魔女に関係あると理解したらしい。ゼスが肩のあたりを勧めてくれたので、ありがたくそこへ止まった。馬が歩を進めるのに合わせ、身体が上下する感覚を味わった。速度はゆっくりだけれど、思った以上に揺さぶられる乗り心地である。
「誰か、こちらへ来る」
「いや、あれは……」
しばらく二人だけで進んでいたが、そのうち街道へ出てすれ違う馬車や旅人らしき姿を認めるようになった。そうして遠くに騎乗した一団が見えた時、二人が身を硬くしたのはほんの一瞬である。顔見知りのようで、向こうもどうやら彼らを探していたらしい。歓声をあげてこちらへ走り寄って来たところで、プシュケは安心してその場を離れる事にした。ふわりと蝶々が飛び立ったのを、二人の視線が追いかけて来る。
「ありがとう、プシュケ。助けてくれて本当に。また近いうち、会いに行けるようにするから。どうか元気で」
蝶々の身体を借りたので、こちらは手を振ったり、握手したりというお別れの仕草はできなかった。その代わりゼスが差し出した手にそっと触れて、プシュケは二人から完全に離れたのだった。
親切な蝶々を解放し、プシュケは完全に一人になって庵へ戻った。住み慣れた場所のはずが、妙に広く静かに感じてしまう。賑やかな客人が帰途に、そして主は引き続き不在のままであるためだろう。
『ねえ、どうだった? 同い年くらいの男の子と話すのも楽しいでしょう?』
「まあ、それはそうかも。……とにかく疲れちゃった。しばらく寝てていい?」
『どうぞお好きに。お師匠様が帰ってきたら、起こしてあげる。一緒に怒られようね』
何しろプシュケは魔力を大量に消費した上で、眠った時間も少なかった。ルクレティアも疲れているのか心配してくれているのか、どこへも行かずに主人のすぐそばに留まるつもりらしい。
「ねえ、ルクレティア。師匠ってやっぱり悪名で有名みたいね」
ミハイルが言うには、この国で怖れられている魔女は実在らしい。子供を攫う云々はともかく組織からの頼まれ事以外、師匠は人間に対して相応の報酬を要求する。船乗りであれば船を。領主であれば領地の一部を遠慮なく請求する。そのあたりが怖ろしく受け止められてしまうのかもしれない、とプシュケは疲れ切った頭でそのような想像を巡らせた。残っていたシロップを飲み干し、長椅子に横たわって目を閉じた。
「……プシュケ、プシュケ!」
庵のあちこちに、火が灯る。かまども反応して、部屋が明るくなった。まだ昼のうちから長椅子に寝そべっているうちに、寝入っていたらしい。揺さぶって起こされ、留守番役は目を擦りながら身体を起こした。
「ああ、師匠おかえりなさい。もう帰ったのですか。もうちょっと色々とやりたかったのに」
彼女の魔法の力が、不在を任せていた弟子の身体に異常がないか、小さな傷一つ見逃さない勢いで念入りに流れ込むのを察知した。くすぐったいような感覚で、プシュケは身動きする。
「……怪我はないようだが、人間を招き入れたのだね」
帰還した魔女は低い声だったが、ぼんやりしていて頭が上手に回らない。ただいま、と硬い声で形式的に応じたのが耳に届いた。おそらく、不在の間に庵で起きた騒ぎの大半に、既に把握しているに違いない。
「ええ、そうです。ごめんなさい。怪我した方に庵まで来てもらって、手当てをしました。この辺りだとまだあまり知られていない毒餌や矢尻に使う、助けるのはかなり難しかったです。師匠が以前見せてくれましたから、なんとかなりました」
以前に師匠が事細かく説明してくれていなければもっと苦戦していたか、ゼスもすぐに動けるようにはならなかっただろう。
ちゃんと報酬もらいました、とプシュケは小袋にしまっておいた金貨を取り出した。師匠に渡して手から離れると、ずっしりと重たいのがよくわかる。どのくらい価値があるのか、見当もつかなかった。人間はこれを、喉から手が出る程求めているらしい。
しかし、魔女はあまり興味を示す素振りはない。こちらとしては成果が初めて目に見える形になり、もっと自慢しようと思っていたにも拘わらず、である。その落胆を見透かしたように、師匠の静かな声が聞こえる。
「命を助けてやったのだ、相応の対価を請求して当然じゃないか。これでは割に合わない」
「……詳しい事情はわかりませんが、自業自得ではなく、追われて危険に晒されたわけですから。それに師匠のように上手に解毒や手当てできたわけではありません。彼は疲労で深く眠っていましたけれど、何度か危ない時がありました」
小鍋の中で中和剤を混ぜるのとは全く違う。人体に負担を掛けず行うのは至難の業というのを、今回の経験でよく理解できた。
目の前の高名な魔女であれば片手を軽く振って、それだけの時間でやってのけてしまう。現場を何度も見る限り、同じ技量に到達するには気の遠くなる年月がかかりそうだ。生きているうちにできるようになるだろうか、と魔女とはいえ人間の身体でプシュケは思う。
「ねえ、師匠。磨いていない床をこの上なく綺麗だと言い張ったりしません、私が好きなお茶ではなく、ちゃんと師匠の好きなものを淹れますから、どうかここは一つ。あまり怒らないで」
怒らないでね、と繰り返したが、返事はなかった。人間嫌いが腹を立てているのは仕方がない。
ね、と腕に取りすがろうとしたが、ソファへそっと押し戻された。それでも宥めるように額を撫でてくれたので、安心する。我を忘れるまで怒り狂っているわけではない。
「森の奥へ捨てられていた私の面倒を見て下さった優しい先生。どうか弟子の顔を立てて」
「……その人間達の前で、これほど疲弊するほど大盤振る舞いしたわけだ。きっとまた尋ねてやって来て、こちらの迷惑を顧みず協力して欲しいと言い出すに決まっている」
確かに、ミハイルはそのような提案を口にしていた。一方、ゼスはさほど乗り気ではない様子だった。どうして居合わせない師匠にそれがわかるのだろう、とプシュケは不思議である。
「師匠、あのね」
プシュケはそっと耳打ちするような調子で囁いた。何より師匠が帰って来てくれて嬉しい気持ちと、けれど疲れた上に様々な反省もあって、人間嫌いの庵の主人に申し訳なくもある。複雑な心境で取り留めのない話を口にした。
ゼスに、自分の気持ちは伝えた方が良いと、助言してもらっていたのを忘れていなかった。
「師匠、あの人達は私をちゃんと人間として丁寧に、親切に扱ってくれたのよ。それは師匠が、私にたくさん魔法を教えてくれたおかげ。とてもすばらしい技術だと思う」
ここへ来る前、おそらくあれはまだ幼かったプシュケに魔法の力が目覚めた直後だった。制御できず、自分のものではない目と耳から送られる無数の視界や音、匂いを処理できず、その場で蹲って呻くほかなかった。その状態では働き手にもならず、変な病気に罹ったのだ、気味が悪いと遠巻きにされた。
「じゃあな、役立たず」
父親だった人がプシュケを森の奥へ置いていく時、わざわざそう言い残した。貧しい村では致し方のない経緯だった。それとは正反対のやり方をする師匠が、言いつけを守らなかった弟子をさほど怒りもせず、ただ心配してくれている。
彼女がかつて怖ろしい規模の魔法を使ったのは事実としても、プシュケにとっては恩人で先生、そしてもはや家族のように慕う相手なのだ。
「同い年くらいの男の子達と、初めておしゃべりしたの。なんだか変な感じだった。他愛ない話をしているはずなのに妙に笑えてしまったり、そわそわしたりする。それで私、師匠や昔ルクレティアがカエルから逃がしてくれたように、同じようにしてみたかった。助けた相手が元気になって、お礼を言われると気分がいいのね」
プシュケは夢うつつのまま、心に浮かぶ話を、師匠に向かって打ち明ける。疲れていたのでと話があちこちへ移って聞き手には不親切だったが、相手は黙ったままだった。
知らない間に、かまどの火は熾火のようにくすぶっている。部屋の中は暗く静まりかえっていた。
「誰かの役に立てる魔女、……あなたのように私はなりたかった。もっと頑張って、いつかなってみせるから」
師匠がどのような表情で聞いていたのか、部屋が暗いせいでプシュケにはわからない。額にそっと置かれている手は優しい。けれど頑なにこわばって、震えてもいたせいだ。
もしかして寒いのかもしれないと弟子は手を伸ばして、師匠の手のひらを温めようと握り込んだ。冷たい手のひらにこちらの熱が伝わって温かくなる頃に、そのまま寝入ってしまったようだ。




