⑪庵の長い夜
「これは遠い国で矢毒に使われているものだと思う。前に師匠に見せてもらったから」
以前、珍しい動植物から採取した交易品を扱う商人が、庵を訪れた事があった。所属する魔導結社の紹介状を持っていたので、師匠も鑑定の依頼に応じたのだ。主に香辛料という触れ込みで、異国の珍しい植物を取り扱いたいと考えているらしい。
一通り説明を聞いた師匠が興味を示したのは、遠くの大陸に自生する植物の実から精製された白い粉末である。強壮薬として売りたいと依頼人が口にするのを、師匠は鼻で笑った。それでも現地では健胃薬として、と食い下がるのを制して先を続けた。
『毒と薬は用量の違いでしかないが、これは薬にはならないものだ。このように危険なものを保管して、悪意を持った者が手に取る方がよほど怖ろしい。刃に塗り付けて掠っただけで死に至る効能を知っているはずだ。胃に使うなら、他に副作用の少ないものがいくらでもあるだろう』
毒にしかならないよ、と師匠はそれ以上の反論を受け付けなかった。商人は他にも色々な品について相談した後で引き上げたが、謝礼を兼ねて研究用に少量ずつ分けてくれた。
《さそり座》を冠する師匠は受け取ったガラスの細口瓶をランタンの光にかざし、じっと観察している。客人を見送り戻ったプシュケも、それに倣った。
『おそらく、長く身体に留まる毒ではない。体内に入ってしまったとしても人間ならば丸一日、私達なら一晩、活かす事ができれば、おそらく後遺症もない』
プシュケはそれを聞いて珍しいと思ったのを覚えていた。毒、といっても効果はそれぞれ大きく異なる。皮膚を爛れさせたり、神経を麻痺させたり、一息で窒息するものもある。意志や行動を奪い、身体に蓄積して機能不全に陥らせ、時には胎児に悪影響を及ぼす。
『プシュケも、そろそろこの分野の勉強を始める頃合いかもしれないね』
新しい魔法の講義が始まると知って、プシュケはいそいそと姿勢を正す。まずはね、と師匠も目を細めながら応じた。
人体の防衛機能として、毒を分解する肝、排出を担う腎という内臓器官がある。また脳髄の入り口と、それから女性が子供を身ごもり育てる器官に、ほとんどの毒を通さない門や栓のような機能が備わっている。
これらがきちんと機能していれば、人間は他より毒に強い部類に入るらしい。
『現地では矢毒に使っているそうじゃないか。矢に当たった獲物を殺すけれど、必要以上に損壊してはいけない。この後で食糧にするからね。肉に残って悪さするようなものは、矢毒には使えない』
有害な物質全てが、毒として扱えるわけではない。ある程度扱いやすさが必要だ。暗殺ならともかく狩猟に用いる場合、強力であればいいとは限らない。今、手にあるのは強い毒ではあるけれど、対処がしやすいとも言える。少なくとも全身をひどく爛れさせるわけではない。長期的に身体に留まって蝕み、弱らせる効能はないと先を続けた。
「全身大火傷を負った患者を一晩看病するより、いくらでもやりようがある」
火傷と同等以上に、薬品で表皮が爛れた場合、予後が非常によろしくないそうだ。人が思うよりずっと、身体を覆う皮は繊細かつ役割がある。広範囲にわたって酷く損傷すると、狼狽えるあまり内臓が機能不全に陥る事もあるらしい。
それに比べればできる事はある、と記憶の中の師匠は弟子を勇気づけた。
「……そういうわけで、必ず助けるから」
プシュケはできる限り平静を保って客人達に説明した。負傷者に向かって悪い情報を重ねて不安に陥れるのは、救助者として最悪の愚行である。
問題の矢毒、主としてひきつけと酷い痛みだが、意識を混濁させる作用はない。だとすればつまり苦しみのたうち回って最期は呼吸できなくなって絶命、となると最も嫌な死に方の一つに数えられるだろう。
ゼスが弱弱しくつぶやいた。
「今、何故かすごく眠いのだが、これはこのまま身を任せたら死……」
「いいえ、それはルクレティアが痛くないようにしてくれている作用。毒が効いているとしたら、痛みが強くなるはずなの。後は私に任せて、あなたは楽にしてくれて大丈夫」
大丈夫だから眠っていて、とプシュケはあくまで微笑んで見せた。ゼスと名乗った少年は意識が朦朧としているものの、これは毒によるものではない。ルクレティアが鎮痛、鎮静効果のある魔力を流し込んでいる影響だ。これから矢傷の手当ても行うので、その方がいい。傷口を洗って清潔にして、師匠御手製の傷専用軟膏があれば、炎症は治まって綺麗に治せる。
プシュケは師匠が話してくれた中で、有益な情報を選んでゼスとミハイルに説明した。ソファに横たわるゼスは、プシュケを信じ眠気に身を任せる選択をしたようだ。目を閉じる前に少しだけ、眼差しに希望が輝いたように見える。
その手を取りながら、毒矢を用いたやり方に今更怒りに近いような感情を覚えた。
「よし、では早速」
プシュケは仕事に取り掛かった。すべての成分は特有の形を持っている。これを分解したり、変形させたり、別の物を繋いで構造を造り変える事で無毒化か、体外へ排出する働きを強められる。
ルクレティアが症状を抑えてくれている間、身体が持つ解毒作用を最大限に引き出しつつ、プシュケの魔力で解毒を進めつつ、ゼスの負担をできるだけ引き受ける。師匠が不在である以上、これが最も効果的に思えた。
治療している間、ミハイルの方は二度ほど席を外し、馬の様子を見に行くと言った。庵のそばに来客用の馬房があると教えると、彼は敷地内を右往左往する二頭を宥めて繋ぎ、水を飲ませている。しかしそれが終わって戻る道すがら、建物を冷静に観察していた。プシュケは片手間に、外にいる虫の目でその様子を窺った。悪意があるわけではなさそうだが、それにしても随分落ち着いている。
「……何か面白いものはあった?」
「ああ、普段から建築様式から建物がいつ造られたのか、想像するのが習慣でね。ゼスを忘れたわけじゃないが、現実を直視するのが少し怖いのだと思っておいてくれ」
患者が静かに眠っているためか、相手はやや弱気な発言である。表情を窺う限り、嘘ではないようだ。
「この国は様々な相手から、少し前までは海の向こうにあった帝国から侵略と支配を受けていた。色々な建物にその影響が残っている。各地の宗教施設や領主館が顕著だ。それで、ここはいつ建てられたものか、ご存じか?」
「具体的には師匠に確認しないとわからないかな、もう随分前だと聞いてはいるけど」
ミハイルは母屋や工房をよく観察していたらしい。師匠に尋ねなければ、プシュケもわからない話であった。
「……それで、経過はどうだろう? ゼスはよく眠っている様子だが。熱や、苦しんでいるわけではないようだ」
「ええ、とりあえず解毒を試みたのだけれど……」
ミハイルが話題を変えたので、プシュケも腑に落ちないながら、とりあえず応じた。矢毒はあの日、師匠に教えてもらった内容と相違ないものの、単体ではなく他の薬が混ぜられていた。肝と腎の働きを阻害するもので、先にこちらを対処しなければならなかった。
二人は明確な殺意を以て襲撃されたわけで、余程恨まれる立場か、亡き者になった場合に大きな利益を手にする者がいるらしい。しかし、今は詳しく問いただしている余裕がない。
「なるほど、よくできているな」
「もし、次に機会があるとしたら、身体に入ってしまう前に無力化してしまいましょう」
こちらの説明に、ミハイルは納得したようだ。大人しく看病するつもりのようで、ゼスとは別の長椅子に腰を落ち着けている。
もし次に遭遇した者が毒を持っていたとしたら、使う前に無力化してしまおう、とプシュケは固く心に誓った。
無毒化するのはさほど難しくないが、既に生体内に取り込まれている以上、彼の身体を損なわずに実行するのに時間がかかる。細心の注意を払って魔力をゼスに流し込んでいるけれど、何の配慮もせずに行えば身体が破裂しかねない。
師匠に見てもらいながら、小鍋の中身を中和するのとは訳が違う。身体に深刻な損傷を与えないよう少しずつちまちまと進めるほかない。針と糸をまっすぐ等間隔に可能な限り長く続けるのによく似ている。
呼吸や体温に気を配りつつ、気の遠くなるような作業が続いた。
「……」
途中、ランタンの明かりが暗くなった。持ち主が消耗し魔力が少なくなったと、早めに知らせてくれたのだ。便利な道具だ、と製作者、師匠の所属する組織の幹部に感謝した。
「大丈夫。余力を確認するように知らせてくれているだけ……」
まだ作業が続くと考えると、心許ない。ルクレティアはまだ平気そうなので、プシュケは手元に置いてあった瓶から移した中身を薄めずに舐めた。いつもの接骨木のシロップは本当に、白葡萄の味がするのでいつも不思議に思う。
世話焼きの使い魔が察知する前に、鋏を手に取った。
「……師匠、ごめんなさい」
プシュケはえいっと髪の毛を鋏で切った。魔女や魔法使いが髪や爪、時には目を犠牲に多大な魔力を補給するやり方は知っていたものの、実際に行ったのは初めてだ。プシュケの緩く編まれていた髪は毛先から灰のように崩れて消えて、師匠がくれた絹のリボンだけ残った。
同時に、大量の魔力が身体に戻るのを感じる。これなら何とかなる、と希望が湧くような高揚感を味わった。
「よし、これでまだまだ戦える! 何が何でも助けて見せるから」
やあああ、と気分の高まったプシュケが大きく気合を入れる横で、ぎゃあああ、とルクレティアが盛大な悲鳴を上げた。
『それ、本当はもっと慎重にやらなくちゃいけなかったのに! お師匠様がちゃんと教えるまで伸ばして綺麗にしておきなさいって……』
爪でも眼球でもいいけれど、現実は髪くらいだと師匠は言っていた。試みたところで、当たり前だが痛みで集中できないらしい。
弟子は指示通り髪を伸ばし、ここ最近は特に手入れに慎重だった。そうしてやり方を習う手筈になっていたが、突発的な事態である以上致し方ない。
『……お師匠様の嘆く顔が目に浮かぶわ、プシュケちゃん』
「しょうがないでしょう。ここまで来たら意地でも必ず元気にしてみせるから」
『これだから、普段から小出しにしないからいざという時、羽目の外し方がわからないのよ』
そしてこれでルクレティアの言う通り、どうやっても師匠には誤魔化せなくなる。侵入者に激怒し庵にカナブンが二匹増える可能性があるものの、プシュケが自分で招き入れたのだと平身低頭謝罪するほかない。
「仕組みはさっぱりわからないが、とにかくすごいな。……ちなみに俺はミハイルという。そこでぐったりしているのがゼスだ」
そばで見守るミハイルは状況を呑み込みきれず、顔を引き攣らせている。蝶々の声は二人には聞こえないので、プシュケが突然髪を切って騒ぎ出した様子はさぞかし奇異に映るだろう。ゼスの方は身体の働きのほとんどを解毒に費やしていたが、ぼんやりと目を開けてこちらを見つめた。
「ええ、お二方は先ほどから訳が分からなくて困っているでしょうけれど。私はプシュケというの。見習いの魔女。蝶々は私の友達、ルクレティアといって、使い魔。いつも色々手伝ってくれていて」
プシュケは改めて自己紹介しつつ、できるだけ安心させるような笑みをゼスに浮かべておく。大丈夫、と手を握って再び眠らせた。
その後も、夜通し作業は続いた。ゼスは眠ったままで、痛みや不安を訴える事もなかった。ミハイルも疲れている様子なので干して取り込んだあった毛布を渡すと、そばで包まって休むつもりらしい。
「……よし」
『はあ、とんだ心の洗濯ですこと。ちょっと休憩させて……』
プシュケが大丈夫だと判断し彼の手をそっと離す頃には、微かに窓の外が明るくなっている。やれやれ、と役目を終えたルクレティアが早朝の冷たく澄んだ外へ飛び立った。
ずっと長椅子でゼスに寄り添っていたプシュケも身体のあちこちを伸ばしながら立ち上がった。
「まあ、なんとか……。師匠がいないなりになんとかなった、と言っていいかしら」
プシュケもとりあえずシロップを補充しよう、と奥から瓶と水差しを持ち出した。眠たいけれど、まだ魔力が余っていて異様に興奮状態でもある。このままでは寝つけない。洗面所に寄って鏡を見ると案の定酷い有り様だ。料理をする時のように、適当な布を頭に巻いて誤魔化した。
これからどうしようかと思案しながら応接間へと戻ると、ゼスが身動きしているのが見えた。
「あ……。とりあえず、治療はひと段落したけれど」
彼はぐったり身を沈めていた長椅子から身体を起こして座っていた。昨晩意識が朦朧としていた分、不思議そうに応接間の壁や天井を見回している。熱はなさそうで、こちらに向ける苦痛や警戒の色は薄らいでいた。師匠の傷薬もよく効いて、足も痛みはほとんどないようだ。
「…………その、失礼した。本当に善意で助けてくれようとしたのに、剣を向けるような真似までして」
「自分でも相当怪しいと思ったから、気にしないで」
よかったよかった、ああよかった。プシュケはほっとして、客人の前でなければ長椅子に寝転んで歓声をあげていただろう。
しかし客人の目がある。仕事の出来栄えに満足する腕の良い薬師のような表情を取り繕って、照れ隠しに微笑んでおいた。




