①宮廷魔術師
ある時代、ある一帯で語り継がれる魔女の噂がありました。お話が始まると、なかなか寝付かずいつまでもふざけているどんな子供でもそそくさと寝床へ向かうのですから。
その魔女は子供を浚って煮えたぎる大釜に放り込むまでの間、両親に助けを求めて泣き叫ぶ声を聞いて、にやにやと笑っているそうです。
怖ろしい彼女が姿を見せれば世界はたちまち暗闇に、不気味な哄笑がいつまでも響き、肺を腐らせる瘴気を振り撒きます。沼地の奥からやって来る悪い厄災を前に、他の魔女や魔法使い達では到底太刀打ちできず、この国から全て逃げ去ってしまいました。
あまりの事態に、鎧を着こんだ勇敢な討伐隊が海の向こうから大挙してやって参りました。けれど一昼夜、火と銀の弓矢が尽きるまで撃ち込んでも、ついぞ討伐できなかったとか。誰一人故国へ帰り着く事は叶わず、彼女の報復は海の向こうにまで及んだと言い伝えられています。
そういうわけですから、魔女はまだこの国で暮らしているのです。もしかしたらあなたの村のすぐそばで、次に連れ去る子供の目星を付けている最中かもしれません。
「今日もこんなに綺麗なのに、ゆっくり見る時間はなさそうね」
プシュケは足を止めず、石造りの回廊から見える景色に視線だけを走らせた。奇しくも現在、眺めのもっとも最も美しい時刻にさしかかっている。地平に沈む夕陽の美しい眺望は、王城の至宝として広く知られていた。
ここで働く人間としては見慣れていても足を止め、急ぐ理由がなければ景色を目に焼き付けておきたいと思うほど。薄赤く染まった雲の位置と形、暗くなりつつある空との対比は見事と賞賛する他ない。
『あら、私の羽の方がずっと美しいと思わない? とりあえず先に行くわね。秘書官殿に何かあったら大変だもの』
「……はいはいどうぞ、ルクレティア。私が着くまでに、できるだけ時間を稼いでね」
任せて、と張り切って応じる声と共に肩からひらりと飛び立ったのは、黒い羽にほんの少しの白と赤い模様が浮かぶひとひらの蝶。虫使いの魔術師、プシュケの頼れる使い魔だ。
黒い蝶が飛び去ってすぐ、回廊の向こうから来た使用人の一団がプシュケに気が付いて、慌てて道を譲った。ありがたくすれ違いながら、プシュケはここではない場所でのやりとりに耳をすませた。城のありとあらゆる場所の出来事は、支配する無数の小さな生き物を通して目と耳が全て拾っている。
意識を向けた先の一画では、国王陛下の秘書官を務める青年が客人を迎えて、形式的な挨拶と歓迎の言葉を述べているところだった。どうやら料理が出揃うまでもう少しの間、語らうつもりであるらしい。会話がひと段落した頃、客人がおもむろに切り出した。
「秘書官殿、今宵は貴殿のために特別な品をお持ちしました。私が管理する村でほんの僅かだけ生産される……」
「案内役は貴殿にきちんと説明しませんでしたか? ここでは口に入るもの全て、一度厨房を通さなくてはならないと」
秘書官の指摘に鼻白みつつもまあまあ、と誤魔化すような笑みを浮かべた客人が、懐から小さな酒瓶らしきものを取り出すのが見えた。見た目としては白の葡萄酒のようにも見える。その時、窓の外にひらりと優雅な姿が姿を現した。
「おや、これは……」
歓談の場に入り込んだ美しい蝶に、物珍しそうな視線による反応が大半を占めている。その中で優雅な所作で仕事にあたっていた数人の給仕役が表情を強張らせて、素早く壁に張り付くように退いた。この城で妙な動きをする虫は魔術師の手先だと、彼らはよく知っているためだ。
「ああ、来てくれたか」
『……客人の前で蝶々に話しかけると不自然ですよ、秘書官殿』
緊張を帯びた空気と違う反応を見せたのは、まだ年若い秘書官だけだった。プシュケはルクレティアの身体を借りて忠告したけれど、相手は少し笑うだけに留める。蝶が羽を休めるように右手を軽くかざしたので、使い魔はそこへありがたく着地した。
「取り込み中に失礼ですが、まだ飲んでいませんよね?」
そこへようやく部屋まで辿り着いたプシュケが、許可を得ないまま扉を押し開け、和やかな歓談の場は今度こそ静まり返った。魔女だ、という誰かが潜めたはずの声のせいで、多くの者の顔が引き攣っている。
宮廷魔術師、と訂正しようかとも思ったけれど、その必要はなさそうだ。そうでなくても城にいる他の人間とは違い、いかにも魔術師らしいゆったりとした黒衣には魔術と祈りの刺繍が隙間なく施されている。結い上げず肩の長さで切り揃えた髪が、女官や貴婦人達とは大きく異なって映るらしい。杖の代わりに異国から持ち込まれた扇子を持ち歩き、また身分を表す徽章は衛兵や近衛のような逞しさ、精悍さではなく、優美な造りの装飾品となっている。
主だった面々のうち、動揺した様子を見せないのは秘書官だけで、壁を背に立つ給仕係や遅れて来た衛兵等、こちらをよく知る幾人かは用意された晩餐や食前酒に強張った表情を向けている。初めて顔を見る客人は、不躾な侵入者に向かって挑戦的に眉をひそめた。
「いや、まだだ。貴殿に確認しなければと思ったのだが」
プシュケが声を掛けた相手、秘書官は落ち着き払っていて、突然姿を見せたプシュケに退室を命じる様子もない。いつもと同じく、応じる声と眼差しには信頼が感じられた。
そのおかげも相まってか、衛兵達も困惑してはいるものの、事前の指示通り困惑を押し殺してそれに続いている。
「よろしい、……では」
プシュケは秘書官が手にしていた杯を穏便に譲り受けた。有益に始まるはずだった会談が中断されたというのにこの様子だと、それとなく事態を予測していたのかもしれない。
プシュケは目を閉じて、普通の人間より格段に優れた五感を使って検分した。客人が直接持ち込んだという食前酒は珍しい種類で、交易の盛んなこの都市でもあまり見かけないものだ。花、果実やいぶした煙の香りがする。その独特の芳香に紛れて、食味とは一切関係ない混ぜ物を感知した。たとえ香りの強いものを隠れ蓑にしたとしても、混ざるだけで痕跡を完全に消せるわけではない。
「そちらはミハイル陛下より拘束命令が出ている。妙な酒を持ち込んで、城の者に危害を加える前に取り押さえるように、と」
「お待ちください!」
宮廷魔術師の鑑定に対し、しかし往生際の悪い客人は大仰に声を張り上げた。謂れのない疑いをかけられて動揺する素振りはなく、強い怒りを露わにしている。しかしその目の奥には、商人の冷たい計算があった。
「匂いを嗅いだだけで、一体何がわかると言うのか」
何なら自分が飲んでみせよう、と挑発的な態度を崩さない相手に、プシュケは応じず淡々と周囲へ指示を出した。
「それは構わないけれど、今すぐである必要はない。試すのは貴殿が事前に服用した解毒剤が完全に抜けた頃。明日の夜、いや大事を取って明後日の朝にでも……秘書官殿」
さっと顔を青くした客人とは対照的に、プシュケは衛兵に向かって淡々と指示を出す。知らないはずの工作を言い当てられた動揺から来たらしい魔女め、化け物というような罵声を聞き流した。
「……では、私は食堂を見て来て構いませんか」
「ああ、陛下への報告は引き受けよう」
靴職人は靴を作るべきで、パン職人はパン、とは昔からよく言われていた。力仕事、監視と尋問は衛兵に任せるべきだ。また、きちんとした毒物の解析もそちらの領分である。
おとなしく自白するか、そうでなければ二、三日待つ事になるだろう。上への報告は、秘書官自らが請け負ってくれた。
押収した酒瓶には誰も手を付けずに保管しておくよう伝えて、プシュケは一足先に騒々しい応接間に踵を返したのだった。
「……魔術師殿! 時間通り提供できるよう、指示を受けていたのですが……」
厨房では出番を待つ皿が、しかし一向に進まず渋滞している。朝から忙しく準備してようやく、となったところで急に止められたために、給仕や皿洗い達も右往左往していた。
「厨房内の食材及び使用器具からお皿まで、須らく異常はありません。口にしても平気でしょう。それから秘書官の要請は中止になりましたから、この素晴らしい晩餐は皆で食べ切ってしまうように、とミハイル陛下が」
「おお、何と言うことでしょう。けれど危険は去ったのですね……しかしありがたい。魔術師殿がそうおっしゃるのであれば。何より用意した料理を無駄にせず済みます。寛容な主人に感謝を」
普段はなかなか回って来ない晩餐が丸々手付かずで手に入るとあって、にわかに食堂は騒がしくなった。これがもし人間のみが暮らす城であれば念のため全廃棄、夜通し点検やあらゆる設備の洗浄が必要となるところである。
プシュケは司厨士長に経緯を説明した。厨房は関わりない事を説明し、安全であるのを保障しておく。これで城に仕える人々も、疑心暗鬼にならずに食事にありつけるというものだ。
厨房を出たプシュケが再び城内に耳をすませると、既に様々な噂が飛び交っている。ここではない通路の一画で潜められた声は、しかしプシュケの耳に明瞭に届いた。
『あの方、毒が入っていると、いきなり秘書官殿の商談に乗り込んだそうよ。どうしてわかるのかしら?』
『魔術師殿は秘書官様、もちろんミハイル陛下も信頼しているのよ。随分前から仕えているから、滅多なことは言わない方が身のためよ』
顔を伏せた使用人が二人、ひそひそと声を潜めている。上役が窘めて、どちらも押し黙って持ち場へと向かったようだ。同じようなやり取りがあちらこちらで聞こえているので、プシュケは追加で食堂にご馳走があるとか、下手人は既に取り押さえられて被害はないという情報を流して鎮静化に努めた。
思いがけないご馳走が並ぶ厨房には、狙った通りに噂話を求めて人が次々と集まって、持ち場を離れられない者のために食事をとり分けている者もいる。
また別の場所、独房ではないが地下にある簡素な部屋へ連れていかれた客人は、まだ魔女を呪う言葉を吐いていた。これも何か他の動きを気取られないようにする牽制かとも疑ったのだが、どうやら警戒するべき異変はないようだ。
他にも大きな混乱や、衛兵の目を盗んで不審な動きをする者がいないか、プシュケは目を光らせた。混乱に乗じて、と魔が差す者がいては困る。密かに人を集めている、という動きはないらしい。別室で待機していた客人の従者達もあらかじめ武器を取り上げ、現在は衛兵達が目を光らせているためか、無謀な動きに出る者はいない。
残念ながら城内において、この手の出来事は昔から珍しくない。ここは小国ながら周辺の要衝でもある。歴史上様々な国の侵攻、支配を受けつつも現在は独立を維持している。ミハイルが同盟国より姫君を迎えてからこの手の頻度は格段に増加し、今後も減る見込みはなかった。国境を接する国がある限りは仕方がないのだと、プシュケも割り切って仕事に臨んでいる。
まあこれでいいか、という頃にプシュケは回廊へ出た。残念ながら楽しむ間もなく陽は既に姿は見えない。代わりに土と、それから湿り気を帯びた冷たい夜の香りがする。城を見上げた向こうの空には、遠く星が瞬いていた。
「……さて」
今一度足を止めて、魔術師は城内の様子を探った。国王夫妻がいる付近にも、たった今起きたばかりの事件の噂が駆け巡っている。
部屋でくつろいでいる王妃は、お気に入りの侍女達を部屋に招いて楽しく過ごしているらしい。美しい調度品の他、花の絵が飾られている。そこにプシュケの蝶が一匹潜んでいて、王妃と目が合った。彼女は優雅に微笑み、プシュケは丁寧に一礼する代わり、蝶が羽をゆっくりと閉じ開きする動きで応じた。
『どうせ侍女達の手を借りなければならない身ですもの。さほど気になりませんね』
彼女は一挙手一投足を監視されている息苦しさにも動じず、日頃からこのように信頼を寄せて下さっている。そのおかげで、プシュケも仕事がやりやすくて助かっているというわけだ。
そしてそこからほど近い場所で先ほどの秘書官、ゼスが寝支度を進める国王のミハイルに、事務的に報告する声が聞こえた。厨房を介さず持ち込まれた食前酒に何か仕込まれたものの、宮廷魔術師の的確な判断で大事には至らず、現在拘束中である。
「……なるほど。また助けられてしまったというわけか」
「……ええ、結果としては」
かいつまんだ説明に補足が不要であると判断し、プシュケはそこで耳をそばだてるのはやめた。両者の、特にミハイルが表情を険しくする様子もない。この後は私的なやりとりを二言三言続けて、秘書官がこの場を辞すのがいつもの流れだ。
今日の仕事はおしまい、と宮廷魔術師のプシュケは薬草や果樹を育てている私室の近くまで戻った。明日の朝に収穫できそうないちじくが、背の低い木に幾つも実っているのを確認しておく。
「あ、しまった。夕食の事を忘れていた。どうしよう」
忙しくしているうちに食べ損ねてしまったのに気が付いて、食堂の方角を振り返った。しかし今日の大事件の後、のこのこと噂が飛び交う場所へ向かう気にはなれなかった。そうするとここにある果物で満足するか、人を呼んで運ばせるしかない。けれどそれなりに気を張って働いたのでお腹は空いている。
「……」
元より王城ではこの上なく目立つ身の上である。虫を使い、様々な植物を育てながら役に立つ薬を調合し、毒物を感知して排除する。プシュケは幼少期より、魔女の師匠からその体系の術を教え込まれていた。
そうして城内と周辺に監視の目を光らせている。普通の高貴な者達が暗殺を防ぐのに毒見役を配置して銀の食器を用いる代わりに、ミハイルとゼスは魔術師を正式に雇い入れる決定をしたのだ。
「……プシュケ」
食事の調達に気を取られていたので、不意に話しかけられたプシュケは少しだけ動揺した。魔女だと警戒せずに名前を呼んでくれる相手は限られている。
「どうしたの、ゼス君」
「プシュケ、今、ミハイルとの話が聞こえていたか?」
「え? いいえ、聞いていた方がよかった? 報告は滞りなかったようだけど」
仕事の用件であれば魔術師殿、と秘書官は改まった口調で切り出す。どうやらミハイルの部屋を後にして、肩口に身を潜めていたルクレティアをつついて指先へ移らせて、そこに向かって囁いているらしい。いないと思っていた使い魔は、まだ彼の元へ留まっていたらしい。
これはどうやら職務ではなく私的な呼びかけである。ミハイル、とわざわざ敬称を外して呼ぶ時は、特にそうだ。
ゼスは慣れたもので、声を落として唇の動きも最小限に留めている。聞いている方は耳元がくすぐったいのだが、こればかりは仕方がない。
「今からそちらへ向かっても構わないか? 大事な話がある」
どうぞ、ととりあえず応じてみると、彼は一つ頷いてどこかへ移動する気配がする。彼は公私をはっきりと使い分ける性分だ。城の者の前では厳格な秘書官、国王の腹心として城内では尊敬され慕われている。それがプシュケとミハイルの三人しかいない時だけ、年齢相応の青年として振舞うのだった。
「……え、何の用だろう」
先に用件を教えてくれたらよかったのに、とプシュケは動揺しつつも仕事関係だと推測して内心を落ち着かせた。
プシュケには優秀な魔女の師匠がいて、しかし非常に人間嫌いだった。仕事とプシュケの育成以外の付き合いは極力避け、人里離れた場所で暮らしていた。その弊害が、今頃になって弟子にも降りかかっている。
身分のあるミハイルはともかく、問題はゼスである。ゼス君、と呼ぶのが最も言い易いのでそれで通してきてしまっているが、何だか今頃になって自信がなくなってきた。知り合った頃はまだ子供なのでさほど気にしていなかったが、どちらも二十歳を超えたのでそろそろ大人の領分に入る。
『ふふふ、プシュケちゃん。今から行くから急いでお部屋を片付けておくのよ』
「日頃から師匠の言いつけ通りちゃんと綺麗にしてあるの、知っているでしょう。まったく」
ゼスと一緒にいる使い魔のルクレティアがわざとらしく付け足した。プシュケは人間の世界における慣習や常識がどうにも怪しい。投げやりに応じながら、彼を招くための準備に取り掛かるほかなかった。




